2011年7月20日水曜日

ガルデルとフォロクローレ(8)

⑨:フランシスコ・マルティーノ:ギター弾き、歌手、ダンサー。1884年6月6日生(計らずもガルデルと同年生まれ):幼年時にマランボダンスに冒頭し冴え巧み、後にミロンガ、エスティーロ、シフラスなどのフォルクローレス・ジャンルにギター極意と歌唱の秘技を彼の感化で磨く。あの時代のポルテニョ街区の特にバラーカスの南、アベジャネーダではより人気のガウチョ達が頻繁に集結していた場所に、いわゆる“ロス・パンペアーノス”と“ロス・レアレス”等を頭に民族主義者アマロ・ギウラ、サンチアゴ・ローカ、ニカドロ・レジェス他多数等の讃える、あの頃のフィエスタを賑やかにする為,たゆみなくマルティーノは訪れた。その後、彼等達は皆、夫々故郷への愛着ゆえと将来への可能性を持ち合わせながら、初歩的歌唱で活路を見出そうと努めていた時に、彼はガルデル、ラサーノ、サリーナス達と出会う運命になる。マルティーノは1911年にガルデルとブエノス・アイレス州とパンパ地方に巡行に出る。その同年にガルデル‐マルティーノ‐ラサーノ等でトリオを結成。コリエンテスとサルミエント通の間のロドリゲスペニャにあつた“カサ・スイサ”に出演。翌年このトリオにサリーナスが加わり、サラテのカーニバルに出演した。ガルデル‐ラサーノ二重唱が最終的に結成された後。彼の古い同房達から遠のく事無く、1915年11~12月のサン・マルティン劇場の出し物“フアン・モレイラ”にダンサーとして、ガルデル‐ラサーノ等と共に出演した。翌年にはアンヘル・グレコとデュエットを組む。ラジオ放送や劇場興行に参加して、マルティーノ‐グレコは美しい歌唱で知名になる。このデゥエットは21年まで続いた。翌年、ムイニョ‐アリピィ劇団のスペイン興行にダンサー及び歌手として参加後、ウルグアイでも数多く活躍した。ガルデルはマルティーノ本来の作品エスティーロ“エル・スエニョ(夢)”を1912年に生存初の“コロンビア”レコードに録音。グレコとの共作“サンファニーナ・デ・ミ・アモール(愛の~)”、“ミ・パニュエロ・ボルダオ(我が刺繍のハンカチ)”、自作“カテドラティカ(教授夫人)”、“マラガタ”、“ラ・プエブレリータ(田舎娘)”、“アマメ・ムチョ(愛しておくれ)”、“パラ・ケレルテ・ナシ”、エリアス・レグレス詞“ミス・エスプエラ(拍車)”に曲を付ける。“カリニート・ミオ”、“ソイ・ウナ・フィエラ(私は酷い)”イグナシオ・コルシーニと創作した“メ・ピデン・ケ・カンテ・イ・カント(歌う歌えと皆望む)”、アンヘル・グレコとの共作“ラ・クリオージャ・デ・ツクマン”。弦と歌のボヘミオ黄金時代、ガルデルとより深く関係した人物達、エンリケ・マシエル、アルトゥーロ・デ・ナバ、ホセ・リカルド、ギジエルモ・バルビエリ、ホセ・アギラール、オラシオ・ペトロッシ、マリオ・パルド、イグナシオ・リベロル等とも親しく友好していた。またガルデルとのごく最初の頃からのボエミオ同僚であり、偉大なカルリートスとの無数の体験奇談と“ソルサル”の生い立ちの証拠の詮索を何時も語っていたが。しかし、私事のまことの秘密は誰にも明かせねまま、このを世を旅立ってしまう。1938年5月25日の事、鬼年52歳。
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