2009年12月28日月曜日

ガルデルのレコードリスト(4)



1924年9月28日から録音:
196:サカテ・カレティータ(荷車を出せよ)/タンゴ/18091A
    作者:ルイス・コセンサ‐ホセ・シュマーケル‐フアン・カルーソ
197:エル・コンセンティード(甘やかし)/タンゴ/18091B
    作詞:カンシオ・ミラン、作曲:エミリオ・イリバーネ
198:プリンシペ(王子)/タンゴ/18092B
    作者:アンセルモ・アイエタ‐ラファエル・トゥエルゴルス‐フランシスコ・ガヒア・ヒメネス
199:ソンブラス(影)/タンゴ/18092A
    作詞:ベルミニオ・セルベット、作曲:フランシスコ・プラカニコ
200:フランセシータ/タンゴ/18093A
    作詞:アルベルト・バカレサッ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
201:コンゴハス/タンゴ/18102B
    作詞:エンリケ・カレーラ・ソテーロ、作曲:フアン・マグリオ
202:デソラシオン(嘆き)/タンゴ/180096B
    作詞:エドゥアルド・ビエラ、作曲:アドルホ・アビラス
203:セ・アコルダラン、ムチャチョス(少年たちよ、意見をあわせ)/
   タンゴ/18093B
    作詞:カルロス・スエロ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
204:ペルドナメ・セニョール(神様、許したまえ)/タンゴ/18101A
    作詞:ベルミニォ・セルベート、作曲:フランシスコ・プラカニコ
205:ヌンカ・マス(二度と犯さない)/タンゴ/18095B
    作者:フエアンシスコ‐オスカル・ロムート
206:ポブレ・アミーゴ(哀れな友よ)/タンゴ/18100B 
    作詞:ホセ・リアル、作曲:ギジェルモ・バルビエリ
207:トラゴ・ア・トラゴ(杯を重ねて)/タンゴ/18096A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フアン・マグリオ
208:プリマベーラ・デ・コローレス(色とりどりの春)/
   エスティーロ/18094B
    作詞:ホセ・ラサーノ、作曲:カルロス・ガルデル
209:ツト・アンケ・アモン/カメルートロト/18094A
    作詞:カンシオ・ミラン、作曲:ホセ・ボール
210:カスカベリート(小鈴)/タンゴ/18099A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:ホセ・ボール
211:デ・フロール・エン・フロール(花々の花)/タンゴ/18095A
    作詞:ドミンゴ・ガジチオ、作曲:エドゥアルド・ボネッシー
212:スエニョ・マルチート(過ぎた夢)/タンゴ/18099B
    作詞:アグスト・ティマニ、作曲:アントニオ・ポリート
213:ミロンガ・フーナ(極上なミロンガ)/タンゴ/18101B
    作詞:セレドニオ・フロレース、作曲:ホセ・セルビディオ
214:ラ・エンマスカラーダ(仮面)/タンゴ/18102A
    作詞;フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス、作曲:パキータ・ベルナルド
    (当時の隋一の女性バンドネオン奏者)
215:タラン、タラン/タンゴ/18098A
    作詞:アルベルト・バカネッサ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
216:エル・ティエンポ・デ・ベヌス(ベヌスの時代)/シムニィー/18100A
    作者:エミリオ・イリバルネ‐マリオ・バルデス‐カンシオ・ミラン
217:エル・アルマ・ケ・シエンテ(心ににじむ)/タンゴ/18103A
    作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス、作曲:ホセ・セルビディオ
218:イル・ピコロ・ノビオ/タンゴ/18097A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:ルイス・リカルディ
219:ジョ・トゥジョ・ソイ、トゥジョ・エス・ミ・アモール
   (貴方の愛は、私のもの)/ビタリーダ/18097B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・カナロ
220:アディオス、ケ・テ・バジャ・ビエン(さよなら。ごきげんよう)
   /サンバ/18098A
    作詞:アルベルト・バカレサッ、作曲:エンリケ・デリフィーノ
221:エル・ベシート(口ずけ)/タンゴ/18104B
    作詞:ガビーノ・コリア・ペニャロッサ、作曲:フアン・デ・ディオス・フィリベルト
222:ラ・ブエルタ・デ・ローチャ(ローチャの曲がり角)/タンゴ/18103B
    作詞:ガビーノ・コリア・ぺニャロッサ、作曲:フアン・デ・ディオス・フィリベルト
223:アウンケ・メ・クエステ・ラ・ビーダ(命を代償にしても)
        /サンバ、**/ 18104A
        作者:フランシスコ・プラカニコ
224:ポウぺー・デ・エスタンボール/Shimmy/18106B
    作者:フランク・シルベル‐イルビング・コーン‐ペドロ・ヌーマ・コルドバ
225:マカチン・フロール・デ・ロス・ジャーノス/タンゴ/18107B
    作者:フランシスコ・マルティーネス‐アラナス“オブリガード”
226:ラ・カベサ・デル・イタリアーノ(イタリー人の頭)/タンゴ/18106A
    作詞:フランシスコ・バスタルディ、作曲:アントニオ・スカタソー
227:ポーブレ・マドレシータ(可愛そうなお母ちゃん)/タンゴ/18105B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:アンヘル・グレコ
228:アルヘンティーナ/タンゴ/18108A
    作者:ビセンテ・ぐれこ
229:ミステリオ(謎)/タンゴ/18109A
    作詞:ホセ・アロンソ‐トレジェス、作曲:アメリコ・チリフゥ
230:ミアー(私のもの)/タンゴ/18105A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:ホセ・ボール

1924年11月6日から録音:オルケスタ・フランシスコ・カナロの伴奏で
231:ラ・ガルコニェーレ/タンゴ/18200B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・カナロ
232:コモ・アゴニサ・フロール(花の枯れるように)/カンシオン/18200A
    作者:オスマン・ペレス・フレイレ

1924年11月6日録音:ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの
ギター伴奏にて
233:クラベレス・メンドシ―ノ(メンダサのカネーシオン)
    /サンバ、**/18107A
    作者:アルフレッド・ペレイァ
234:ツクマーナ/サンバ/18110B
    作詞:ナバリーネ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
235:ノ・レ・ディガ・ケ・ラ・キエロ(かの女が好きだって言わないで)
   /タンゴ/18110A
    作詞:アルベルト・バカレッサ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
236:オジン(灰)/タンゴ/18109B
    作詞:アマデォ・カナレー、作曲:ホセ・リスッティ
237:ラ・メンティローサ(嘘つき)/タンゴ/18108B
    作詞:フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス、作曲:アンセルモ・アイエタ
238:ポル・ウン・タンゴ(タンゴの為に)/タンゴ/18112A
    作者:ギジェルモ・バルビエリ
239:デスティーノ(運命)/タンゴ/18117B
    作詞:アニバル・インペリアレ、作曲:アントニオ・ポリート
240:トード・コラソン(心のすべて)/タンゴ/18111B
    作詞:ホセ・マリア・ルフェ、作曲:フリオ・デ・カロ

1924年11月6日、オルケスタ・フランシスコ・カナロと録音したが
レコード発売せず、
241:オウ!・パリ/Fox-trot/発表せず
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:ホセ・ボール
242:ベソ・イングラト(魔の口ずけ)/タンゴ/発表せず
    作詞:カルロス・カンバ、作曲:ラファエル・トゥエルゴス

1924年11月6日から、引き続きホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの
ギター伴奏で録音:
243:オウ!・パリ/Fox-trot/18114A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:ホセ・ボール
244:ベソ・イングラト(魔の口ずけ)/タンゴ/18114B
    作詞:カルロス・カンバ、作曲:ラファエル・トゥエルゴス
245:ラ・スラミータ/Shimmy/18118A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・カナロ
246:シ・スピエーラ(ラ・クンパルシータ)/タンゴ/18118B
    作詞:パスクアル・コントゥルシ、作曲:ヘラルド・マトス・ロドリゲス
247:アケージャ・パロミータ(あの小鳩)/カンシオン/18111A
    作者:ロトッシ
248:アロマス(香り)/タンゴ/18113A
    作者:オスバルドとエミリオ・フレセド
249:テソリート(少さな宝物)/タンゴ/18121B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:アドルフォ・アビレス
250:エル・オリーボ/タンゴ/18113B
    作者:アントニオ・スカタソー‐ドミンゴ・ビバス‐カルロス・カブラル



1925年4月20日からヘ:

2009年12月27日日曜日

ガルデルのレコードリスト(3)

1923年10月18日から録音:
この年あたりからレパトーリは殆んどタンゴになる。

144:エル・ピンチェ/タンゴ/18065A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ、フアン・カナロ
145:コモ・ロス・ナルドス・エン・フロール/タンゴ/18066B
    作詞:エドゥアルド・ビエラ、作曲:テオフィロ、マリオ・レスペス
146:ミ・マンタ・パンパ/サンバ/18067A
    作者:ギジェルモ・バルビエリ
147:マノ・ア・マノ/タンゴ/18067B 
    作詞:セレドニオ・フローレス、作曲:カルロス・ガルデル(ホセ・リカルド)
148:ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)/バルス/18068B
    作詞:ホセ・リアル、作曲:ギジェルモ・バルビエリ
149:ラ・マリポーサ(蝶)/タンゴ/18068A 
    作詞:セレドニオ・フローレス、作曲:ペドロ・マフィア
150:アセテ・トナリジェーラ/タンゴ/18069A
    作者:アンヘル・グレコ
151:エル・パイサーノ・コントラレーラ/エスティーロ/18069B
    作者:アンブロシオ・リオ
152:エサス・ノ・ボルベラン(あの女らは帰らない)/カンシオン/18036B
    作者:カルロス・カンバ
153:コ、コ、ロ,/カンシオン/18060A
    作詞:ベンハミン・タグレ・ララ、作曲:エンリケ・デリフィーノ
154:ラ・チャカレラ/タンゴ/18070B
    作者:フアン・カルーソ‐ホセ・セルビディオ‐フアン・マグリオ
155:ミ・レフヒオ(隠れ家)/タンゴ/18071B
    作詞:ペドロ・ヌマ・コルドバ、作曲:フアン・カルロス・コビアン
156:エル・ウエルハノ(孤児)/18070A
    作詞:フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス、作曲:アンセルモ・アイエタ
157:ブエノス・アイレス/タンゴ/18071A 
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:マヌエル・ホベス
158:ラ・ムチャーチャ・デル・アラーバル/タンゴ/18073A
    作詞:ホセ・フェレイラ、作曲:ロベルト・フイルポ
159:ラ・クジャニータ/サンバ,**/18072A
    作者:クリスティーノ・タピア
160:テンドラー・ケ・ジョラール(泣かなければ)/バルス/18075A
    作者:クリスティーノ・タピア
161:ポブレ・フローレス(可愛そうな花)/タンゴ/18073B
    作詞:ベルミニォ・セルベトー、作曲:フランシスコ・プラカニコ
162:ウナ・ぺナ(恥)/タンゴ/18075B
    作者:アドルフホ・ロスケージャ

1923年12月14日から録音:
163:エル・レイ・デル・カバレー(キャバレーの王様)/タンゴ/18072B
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:エンリケ・デリフーノ
164:ラ・ダンサ・デ・ラス・リベルラス(リベルラスの舞)
   /カンシオン/18074A
    作者;ギオレティーデ・フランッ
165:アルマ・ポルテーニャ(港っ子の魂)/タンゴ/18074B
    作者:ビセンテ・グレコ
166:ビエヒータ・ミア(私のお婆さん)/タンゴ・18076B
    作詞:エンリケ・ディセオ、作曲:カルロス・マルクチッ
167:エル・ラミート/タンゴ/18080A
    作者:ガビーノ・コリア・P-ルイス・ティセーイレ‐フアン・デ・ディオス・フィルベルト
168:ミディネティテ・ポルテーニャ/タンゴ/18079B
    作詞:カルロス・カンバ、作曲:ラファエル・トゥエルゴルス
169:クラリータ/タンゴ/18077B
    作詞:ホセ・ゴンサレスカスティージョ、作曲:ドミンゴ・フォルトゥナト
170:ヌベデ・ウモ/タンゴ/18076A 
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:マヌエル・ホベス
171:セ・バ...イ・セ・バ(去る、そして去る)/トナーダ,**/18077A
    作者:クリスティーノ・タピア
172:セレステ・イ・ブランコ(青と白)/18080B
    作詞:アルトゥーロ・コルベン、作曲:ルイス・ティセッイレ
173:パードレ・ヌエストロ(われ等の神父殿)/タンゴ/18078A
    作詞:アルベルト・バカレッサ、作曲:エンリケ・デリフィーノ
174:エチェ・オトラ・カニャ・プルペーロ(親爺もう一杯、注いでくれ)
   /タンゴ/18078B:
    作詞:アルベルト・バカレッサ、作曲:エンリケ・デリーフィーノ
175:ポーブレ・ミロンガ(哀れな女)/タンゴ/18082A
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:マヌエル・ホベス
176:プレシオサ・ミア(素敵な貴方)/トナーダ,**/18079A
    作者:アルフレッド・ゴビ(父)
177:アモール・ペルディード(失われた愛)/タンゴ/18084B
    作者:エデゥアルド・ボネッシー
178:ティリータ/タンゴ/18083B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:アグスティン・バルディー
179:エル・クルデーラ/タンゴ/18082B
    作詞:ホルへ・ルーケ、作曲:フアン・マグリオ
180:エル・アロジート(急流)/タンゴ/18081B
    作詞:セレドニオ・フローレス・、作曲:サムエル・カストリオタ
181:ネロン/shimmy/18083A
    作者:カンシオ・ミジャン‐エミリオ・イリバンネ‐マリオ・バルデス
182:ロサル・ビエホ(枯れたバラ)/カンシオン,**/18081A
    作者:クリスティーノ・タピア
183:ロ・ケ・フイステ(君去りて)/タンゴ/18090A
    作詞:フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス、作曲:ラファエル・トゥエルゴルス
184:メンティア(裏切り)/18085B

    作詞:ミジョン・ムヒカ、作曲:フアン・デ・ディオス・フィリベルト
185:ロス・オホソス・デ・ミ・ネグラ(わが愛の瞳)/サンバ,**/18064A
    作者:アドルフホ・アビレス
186:ラ・タクアリータ/サンバ,**/18085A
    作詞:ガビーノ・コリア・ペニャロサッ、作曲』フアン・デ・ディオス・フィリベルト
187:ティーラ・デ・フエゴ(火の地帯)/タンゴ/18089A
    作者:フランシスコ・ロムート
188:カリティータ・ペルフマーダ(香水におう顔)/タンゴ/18089B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:アンヘル・グレコ
189:デセンガニョ(騙されて)/タンゴ/18086B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ‐フアン・カナロ
190:コモ・アゴニサ・ラ・フロール(萎れていく花)/カンシオン/18090B
    作者:オスマン・ペレス・フレイレ
191:トゥ・ビエハ・ベンータナ(君の古き窓辺)/バルス,**/18087A
    作詞:アンブロシオ・リオ、作曲:ギジェルモ・バルビエリ
192:デスディチャス(汚す)/タンゴ/18087B
    作詞:パスクアル・コントゥルシ、作曲:アグスト・ジェンティレ
193:ソブレ・エル・プチョ/タンゴ/18086A
    作詞:ホセ・ゴンサレス・カスティージョ、作曲:セバスティアン・ピアナ
194:トリステ・エントレリアーノ/トリステ/18088A
    作詞:ドミンゴ・ランバルディ、作曲:ホセ・リカルド
195:チナ・エレハ/エスティーロ/18088B
    作者:フアンペドロ・ロペス



1924年9月28日からへ:

2009年12月23日水曜日

ガルデルのレコードリスト(2)

ガルデル、いよいよ本格的タンゴ時代の作詞、作曲家の作品を歌う:

1921年7月30日から録音:
077:マラガタ/トナーダ/18033A
    作者:フランシスコ・マルティーノ
078:マルゴー/タンゴ/18033B
    作詞:セレドニオ・フローレス、作曲:ホセ・リカルド
079:フヘニャ/トナーダ/18032A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
080:エサ・ノ・ボルベラン(あの女は戻らない)/カンシオン/18036B
    作者:カルロス・ガンバ
081:シエリート・ミオ(私の空)/タンゴ/18034A
    作者:オスバルド、エミリオ・フレセド
082:デ・ミ・ティエーラ(わが故郷)/ファド/18034B
    作者:ペドロ・ヌーマ・コルドバ、フランシスコ・ロナーノ‐エドアルド・マレージャ

1921年7月30日、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリ(新参加)らの
ギター伴奏で録音:
083:ソーロ・グーリス/タンゴ/18035B
    作詞:フランシスコ・ガルシア、作曲:ラファエル・トゥエルゴル
084:カンパニータス/カンシオン**/18035A 
    作者:ホセ・リカルド
085:ポーブレ・ミ・ネグラ/サンバ**/18036A
    作者:“ミゲル・ドルリー”-ラサーノ‐ガルデル
086:ラ・テゥプンガチナ/サンバ、**/18037A
    作者:クリスティーノ・タピア
087:シ・メ・テンドラ・エン・ス・メモリア/**/18038A
    作者:サウル・サリーナ
088:エレス・クルエル/エスティーロ/18038B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
089:アタルデセール/エスティーロ/18040B
    作者:アドルホ・ヘルチェル
090:エル・パニェリート/タンゴ/18037B
    作詞:ガビーノ・コリア・ペニャロサ、作曲:フアン・デ・D・フィリベルト
091:ロサリート・ラ・セラーナ/サンバ**/18039A
    作者:アンブロシオ・リオ
092:ミララ・コモ・セ・バ/トナーダ**/18040A
    作者:サウル・サリーナ
093:ラ・ペルカンタ・エスタ・トリステ(悲しみに沈む女)
   /タンゴ/18039B
    作者;ビセンテ・グレコ
094:チャカレリータ・ドブレ/チャカレーラ、**/18043A  
    作者:アンドレス・チャサレータ
095:コン・ロス・オホス・デル・アルマ/ガト**/18041A
    作者:ホセ・リカルド
096:ムニェキータ・デ・ルホ(豪華なお人形さん)/タンゴ/18043B
    作詞:ペドロ・ヌーマ・コルドバ、作曲:エンリケ・デルフィーノ
097:ケ・アス・エチョ・デ・ミ・カリーニョ/タンゴ/18042B
    作詞:ホセ・ゴンサレス・カスティージョ、作曲:フアン・マグリオ
098:ラ・コパ・デル・オリビド(忘却の杯)、タンゴ18041B
    作詞:アルベルト・バカーレッサ、作曲:エンリケ・デルフィーノ

1922年3月24日から録音:
099:チニータ・リンダ(可愛い少女)/トナーダ、**/18042A
    作者:アンヘル・グレコ
100:エル・サポ・イ・ラ・コマドレハ/トナーダ、**/18044A
    作者クリスティーノ・タピア
101:コントラステス/バルス、**/18045A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
102:ウン・バイロンゴ/ミロンガ/18045B
    作者:ホセ・リカルド
103:エル・タイタ・デ・アラバル/タンゴ/18044B
    作者:マヌエル・ロメーロ‐ルイス・バイロン・へレーラ‐ホセ・パディージャ
104:ロス・インディオ/タンゴ/18047B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・カナロ
105:トゥ・ディアゴノスティコ/バルス/18052B
    作者:ホセ・ベティノティー
106:ドス・コサス・テ・ピド/トナーダ**/18051A
    作者:クリスティーノ・タピア
107:エル・トリンフォ/カンシオン**/18046A
    作詞:サンティアゴ・ローカ、作曲:マリオ・パルド
108:エル・カレェテーロ/カンペーラ**/18047A
    作者:アルトゥーロ・ナバ
109:ラス・カンパーナス/バルス/18048B
    作者:ジェアン・ロベルーツ・プランゲーティ
110:ケ・リンド・ティエンポ・アケール/エスティーロ/18063B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
111:ミ・ランチート/カンシオン/18046B
    作者:ギジェルモ・バルビエリ、
112:ミ・エストレージャ/バルス**/18049A
    作者:サウル・サリーナ、
113:ドンデ・エスタラー/トナーダ**/18048A
    作者:サウル・サリーナ、
114:ミ・パニェロ・ボルダード/トナーダ**/18050A
    作者:フランシスコ・マルティーノ‐ビセンテ・グレコ
115:ラ・カルティータ/タンゴ/18049B
    作詞:ガビーノ・コリア・ペニャロッサ、作曲:フアン・ディオス・フィルベルト
116:ポブレ・コラソンシート/タンゴ/18051B
    作詞:ペドロ・ヌーマ・コルドバ、作曲:ビセンテ・グレコ
117:ラ・カウティーバ/タンゴ/18053B
    作詞:ペドロ・ヌーマ・コルドバ、作曲:カルロス・V・G・フローレス
118:ミ・ビエン・ケリード/ファド/18055B
    作者:ホセ・リカルド
119:ラ・マスコティータ/タンゴ/18050B
    作詞:ホルへ・ルケ・ロボス、作曲:フェリックス・スコラッティ・アルメイダ
120:ラ・プエブレリータ/サンバ、**/18053A
    作者:フランシスコ・マルティーノ
121:ポブレ・ビエハ/タンゴ/18059A
    作者:ロベルト・ゴジャネチェ
122:エロイコ・パイサンデゥー、/カンシオン**/18052A
    作者:ガビーノ・エセイサ
123:ロス・ロサレス・セ・アン・セカード(バラは枯れた)
   /サンバ**/18055A
    作者:アドルホ・アビレス
124:スフラ(悩め)/タンゴ/18054B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・カナロ
125:ラ・ブリサ/タンゴ/18056B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・ィ・フアン・カナロ
126:マドレ...!/タンゴ/18057B
    作詞:ベルミニオ・セルベットー、作曲:フランシスコ・プラカニコ
127:アスタ・ベサルラ・ジェゲ/エスティーロ,**/18054A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
128:アマメ・ムーチョ/トナーダ,**/18056A
    作者:フランシスコ・マルティーノ
129:エル・パテトロ・センティメンタル
        /タンゴ/18057A
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:マヌエル・ホベス
130:ポルボリン/タンゴ/18058B
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:ホセ・マルティーネス
131:ラ・プロビンシアーナ/タンゴ/18058A
    作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:マヌエル・ホベス
132:コ..コ..ロ..コ、/カンシオン-サンバ/18060A
    作詞:ベンハミン・タグレ・ララ、作曲:エンリケ・デリフーノ
133:エル・タンゴ・デ・ラ・ムエルテ/タンゴ/18059B
    作者:アルベルト・ノビオン
134:エル・コラソン・メ・ロバステ/サンバ,**/18061A
    作者:フランシスコ・プラカニコ
135:ローカ(きちがい女)/タンゴ/18061B
    作詞:アントニオ・ビエルゴル、作曲:マヌエル・ホベス
136:ポロティータ/タンゴ/18060B
    作者:アントニオ・ビエルゴル、作曲:エンリケ・デルフィーノ
137:ジョ・ノ・プエド・ビビール・シン・アモール、シムニィー、18062B
    作者:ビエルゴル‐ペルリィ‐ガバロチェ‐ガルデル
138:カマラーダ/タンゴ/18062A
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:フランシスコ・イ・フアン・カナロ
139:ラ・マレーバ/タンゴ/18063A
    作詞:マリオ・パルド、作曲:アントニオ・ブルゴリオネ
140:ラ・サルテーニャ/サンバ,**/18064A
    作詞:エンリケ・マローニ、作曲:フェリクッス・スコラッティー・アルメイダ
141:コルドバ/タンゴ./18046B
    作詞:フアン・カルーソ‐“ミゲル・ドルリー”
142:ミス・フローレス・ネグラス/パシージョ/18066A
    作者:フリオ・フローレス(コロンビアーノ)
143:ニド・デ・アモール/タンゴ/18065B
    作詞:フアン・カルーソ、作曲:サムエル・カストリオタ



1923年10月18日録音に続く:

2009年12月19日土曜日

ガルデルの芸能活動ー2:レコードリスト(1)


カルロス・ガルデルはどの位の数のレコードを録音したのだろうか。
データにある数として971曲、未発表が43曲と言われている。レコード録音
されなかった曲はどの位あるか不明である。例えば、1913年ごろサウル・
サリーナと組んだ二重唱での曲や“キエレメ(Quiereme)”や女性歌手との
二重唱のロシータ・モレーノと“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”、インペリオ・
アルゼンチーナと“マニャニータ・デ・ソル”などがある。
映画のシーンで歌われている曲は伴奏共レコード吹き込み曲とは別の録音
である。又レパートリにした歌のスタイルは多彩に及ぶ。
それらは、アルゼンチン・ランチェーラ(5曲)、コロンビア・バンブーコ
(4曲)、カーメル‐トロット(1曲)、カンシオン(39曲)、カンシオン(英語、
1/2曲)、カンシオン(伊、1曲)、カンシオン(仏、5曲)、シフラ(6曲)、
クエカ(2曲)、チャカレーラ(4曲)、ダンサ(1曲)、エスティーロ(28曲)、
ファド(4曲)、Fox-trot(7曲)、ガト(4曲)、フォタ(1曲)、マルチャ
(行進曲1曲),ミロンガ(7曲)、パシージョ(1曲)、パソドブレ(5曲)、
プロビンシアーノ(田舎風6曲)、ルンバ(2曲)、Shimmys(12曲)、
タンゴ(520曲)、トナーダ(18曲)、トーリステ(1曲)、バルス(51曲)、
ビダリータ(2曲)、サンバ(32曲)。

1912年8月13日、コロンビア・レーベル:SP盤7枚、15曲
1917年4月9日~1933年、アルゼンチン・オデオン:SP盤484枚、968曲
1928~31年、フランス・オデオン:SP盤32枚、69曲
1925~32年、スペイン・オデオン:SP盤30枚、63曲
1934~35年、RCAビクター:SP盤10枚、22曲
1930年、パトリア・フイルム(映画):10曲
1931~32年、フランス・パラマゥント(映画):12曲
1934~35年、アメリカ・パラマゥント(映画):21曲。
全合計:SP盤563枚、1206曲(繰り返し曲も含む)
2006年:CD50枚、971曲(別に未発表43曲あり)が発売される。


(*)1912年~1920年6月10日までの録音:
1912年8月13日:カルロス・ガルデルの歴史的最初のレコード吹き込みはコロンビア・レーベルで15曲録音された。(この年に“アトランタ”レーベルで行われたとホセ・ラサーノがフランシスコ・ガルヒア・ヒメネスに伝えたといわれているが、このレーベルでの吹き込みは不明)。
001:ソス・ミ・ティラドール・プラテェアォ/エスティーロ/T728A
    作者:ガルデルーラサーノ、(本当の作者はフアン・トローラ、
    本名をフアン・エスカジョーラ、ガルデルのいとこ)
002:ジョ・セ・アセール(できるよ)/シフラ/T728B
    作者:アンドレス・セペダーカルロス・ガルデル
003:ラ・マニャニータ(朝明け)/エスティーロ/T594B
    作者:カルロス・ガルデル
004:パランガネアンド/T729
    作者:不明
005:ア・ミ・マドレ(わが母)/エスティーロ/T729A
    作者:アンドレス・セペダ‐カルロス・ガルデル
006:メ・デハステ(捨てられて)/エスティーロ/T594A
    作者:アンドレス・セペーダ‐カルロス・ガルデル
007:ミ・チーナ・カブレーラ/エスティーロ/T729B
    作者:カルロス・ガルデル
008:エル・スエニョ(夢)/エスティーロ/T730B
    作者:フランシスコ・マルティーノ
009:ポブレ・フロール(愛しい花)/エスティーロ/T637B
    作者:ホセ・エアサーノ‐カルロス・ガルデル
010:ラ・マリポーサ(蝶)/エスティーロ/T637A
    作者:ホセ・ラサーノ‐カルロス・ガルデル
011:エス・エン・バーノ(それは無駄ごと)/カンシオン/T595B
    作者:フェデリコ・クルランド‐カルロス・ガルデル
012:ブリサ・デ・ラ・タルデ(黄昏のそよ風)/カンシオン/T638B
    作者:ホセ・マルモール‐ホセ・ラサーノ‐カルロス・ガルデル
013:エル・アルモハドン/バルス/T638A
    作者:アンドレス・セペダ‐カルロス・ガルデル
014:ア・ミトレ/バルス/T730A
    作者:カルロス・ガルデル
015:ミ・マドレ・ケリーダ(愛しい母)/ビダリーダ/T595A
    作者:ホセ・ベティノティー
以上の録音のギター伴奏はホセ・ラサーノとカルロス・ガルデルら自身で
受けもっている。ガルデルは第二声を受け持ち、録音技術の初歩的な
悪さとガルデル自身の歌声のかぼそさが目立つが、兎も角歴史的貴重な
レコードである。

(*)1917年4月9日よりホセ・ラサーノとの二重唱(**)でギター伴奏
はホセ・リカルドでマクッス・グルクスマーン商会でオデオン・レベール
のレコード吹き込みを開始する。
016:カンタール・エテルノ(永遠に唄う)/カンシオン、**/18000A
    作者:アンヘル・ビジョルド
017:エル・ソル・デル・25/ガト、**/18001A
    作者:ドミンゴ・ロンバルディー
018:ブリサス(そよ風)/カンシオン、**/18002A
    作者:ホセ・マルモル
019:ラ・ウエジャ(足跡)/カンシオン、**/18003A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
020:ラ・クリオージャ/カンシオン、**/18004A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
021:エル・ティラドール・プラテアオ/エスティーロ/18007B
    作者:フアン・トローラ
022:エル・モーロ/カンシオン/18004B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
023:ラ・マリポーサ(喋々)/エスティーロ/18003B
    作者:セペーダ‐ガルデル
024:エル・パンガレー/カンシオン/18002B
    作者:アルシデス・デ・マリア
025:ラ・チーナ・フィエラ(強がり娘)/カンシオン、**/18007A
    作者:ラサーノ‐ガルデル

1917年4月16日録音:
026:エル・セニュエロ/エスティーロ/18009B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
027:ウナ・ロサ・パラ・ミ・ロサ(ローサにバラの花を)/カンシオン、**/18005A
    作者:サウル・サリーナ
028:ジャ・カンタ・エル・ガジョ(鶏の鳴き声)/サンバ,**/18008A
    作者:フェリクス・スコラリー・アルメイダ
029:アディオス・ケ・メ・ボイ・ジョランド
   (さよなら、泣きながら行くよ)/カンシオン、**/18009A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
030:プンタナ/プロビンシアーナ、**/18010A
    作者:ラサーノ‐ガルデル
031:アマルグーラ(苦しみ)/エスティーロ/18008B
    作者:マシエル‐ディアス
1917年11月16日録音:
032:ミ・ノチェ・トリステ(わが悲しみの夜)/タンゴ/18010A
    作詞:パスくアル・コントゥルシ、作曲:サムエル・カストリオタ
033:レクエルド(思い出)/エスティーロ、**/18006B
    作者不明、当然プグリエーセの同名とは違う。
034:エル・モーロ/カンイオン/563
    オルケスタ・ロベルト・フイルポと共演、レコードレベールには
    ガルデルの名がない。作者:ラサーノ‐ガルデル
035:ラ・マルデゥガーダ(明けがた)/カンシオン、**/18006A
    作者:サウル・サリーナ
036;テ・アコルダラー/サンバ、**/18011A
    作者:ガリンデス・ラサーノ‐ガルデル
037:ロ・ケ・フイ(過ぎた日々)/エスティーロ/18011B
    作者:ラサーノ‐ガルデル

1918年8月28日録音:
038:ミス・ペロース(わが犬たち)/バンブーコ、**/18012A
    作者:フェデリコ・リーバス・フラーデ
039:アイ、アイ、アイ/カンシオン、**/18013A
    作者:オスマン・ペレス・フエレイレ
040:ラ・パストーラ(羊おい娘)/カンシオン、**/18014A
    作者:サウル・サリーナ
041:ア・ミ・マドレ(わが母)/カンシオン/18013B
    作者:ペドロ・パラシオス‐ガルデル
042:フロール・デ・ファンゴ(ぬかるみの花)/タンゴ/18012B
    作詞:パスクアル・コントールシ、作曲:アグゥスト・ジェンティレ

1919年3月16日録音:
043:アイ・アウローラ/バルス、**/18016A

          作者:ラサーノ‐ガルデル
044:アイ・エレーナ/バルス、**/18017A
          作者:ラサーノ‐ガルデル
045:サン・フアニーナ・デ・ミ・アモール/トナーダ、**/18018A
          作者:アンヘル・グレコ‐フランシスコ・マルティーノ
046:ラ・ベゲシータ/クエカ、**/18015A
          作者:ラサーノ‐ガルデル
047:コモ・キエレ・ラ・マドレ・ア・スス・イホス/バルス/18015B
          作者:ホセ・ベティノティー
048:スエナ・ギターラ・ケリーダ/エスティーロ/18014B
          作者:ラサーノ‐ガルデル
049:エル・カルド・アスール/エスティーロ/18018B
          作者:ラサーノ‐ガルデル
050:ケ・スエルテ・ラ・デ・イングレス/エスティーロ/18017B
          作者:ラサーノ‐ガルデル

1919年5月9日:
051:ラ・コルドベサ/サンバ、**/18019A
          作者::クリスティーノ・タピア
052:エル・バガブンド/バンブーコ、**/18020A
          作者不明、コロンビア民謡
053:デ・ブエルタ・アル・ブリン/タンゴ/18020B 
          作者:パスクアル・コントゥルシ‐ホセ・マルティーネス

1920年6月10日録音:
054:エン・バーノ、エン・バーノ/エスティーロ、**/18025A
          作者:アンドレス・セペダ‐カルロス・ガルデル
055:ミ・チーナ/ファド、**/18021A
          作者:ロドリゲス‐ロルダン
056:ルモーレス/バンブーコ、**/18024A
          作詞:フランシスコ・レストレポ、作曲:アレハンドロ・ウィリス
057:ミロンゴン/ミロンガ、**/18022A
          作者:アンブロシオ・リオ
058:ミ・ティエーラ/サンバ、**/18023A
          作者:クリスティーノ・タピア
059:イベィテ/タンゴ/18024B
          作詞:パスクアル・コントゥルシ、作曲:E・コスタ‐J・A・ローカ
060:アジューナ・ビルヘン/カンシオン/18022B
          作者:マヌエル・フローレス‐マリオ・パルド
061:ポブレ・マドレ/エスティーロ/18023B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
062:アマネセール/シフラ/18021B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
063:リンダ・プロビンシアニータ/サンバ、**/18026A
    作者:マリオ・パルド
064:ムニェキータ(お人形さん)/タンゴ/18026B
    作詞:アドルホ・ヘルチェル、作曲:フランシスコ・ロムート
065:ミロンギ―タ/タンゴ/18028A
    作詞:サムエル・リニング、作曲:エンリケ・デリフーノ
066:ミ・パロミータ/トナーダ/18028B
    作者:ラサーノ‐ガルデル
067:ポルケ・テ・キエロ/トナーダ/18029A
    作者:クリスティーノ・タピア
068:アソマテ・ベンターナ(窓によい逸れて)/バンブーコ/18029B
    作者:アレハンドロ・フローレス(コロンビアーノ)
069:カント・ア・ラ・セルバ/**/18031A
    作詞:ニコデモ・ゴリンデス、作曲:アンヘル・グレコ
070:ミ・カバ―ジョ・イ・ミ・ムヘール/クエカ/18030A
    作者:ホセ・リカルド
071:ケ・キエレス・コン・エサ・カラ/タンゴ/18030B
    作詞:パスクアル・コントゥルシ、作曲:エドゥアルド・アローラス
072:ラ・カテドラティカ/ミロンガ/18025B
    作者:フランシスコ・マルティーノ

1920年9月26日から録音:
073:カルネ・デ・カバレー/タンゴ/18031B
          作詞:ルイス・ロルダン、作曲:パシフィコ・ランベルテゥチ
074:ポブレ・パイカ(エル・モティーボ)/タンゴ/180
          作詞:パスクアル・コントゥルシ、作曲:フアン・カルロス・コビアン
075:アウセンシア(不在)/バルス、**/18027A
          作者:ラサーノ‐ガルデル、フランシスコ・ビアンコ
076:ポブレ・ガジョ・バタラス(安賭鶏の可哀想な鶏)
   /エスティーロ/18027B
          作詞:アドルホ・ヘルチェル、作曲:ホセ・リカルド

注:この時期は曲の作者不明か判明しない場合は最初に作品を取り 上げた者の名前をつける事が出来た。例えば、作者:ホセ・ラサーノ‐ カルロス・ガルデルとある曲は全て彼等の作品ではない可能性あり。


1921年7月30日録音からに続く:

2009年12月16日水曜日

ガルデルの足跡、悲劇編:再びメデジンへ、

ガルデル、メデジンを経由してカリに向かうが、、、
下の写真はボゴタ、テチョ飛行場SCADATAのハンガー、
次の写真はSACO便のパイロット、エルネスト・サンペール:                                                                             











1935年6月24日に一行はメデジン経由でコロンビア最後の巡業地カリ市に向かうべき、ボゴタを正午ごろスタンレイ・ヘビー米人パイロットの操縦するSACO便で出発、午後2時ごろにラス・プラジャス飛行場に着き、ガソリン補給とカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルと同時公演する映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機する。一方、エルネスト・サンペール氏はグラン・フリィンと共に双発機でボゴタを先に出発、メデジンでガルデル達を出迎える。SACO便の乗客はカルロス・ガルデル、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール、ホセ・コルパス、ホセ・プラハ、アルホンソ・アサフ、ヘンリー・スチュワルツ、セレドニオ・パラシオ(興行主)、乗務員、パイロット、エルネスト・サンペール、副操縦士、ウイリアム・フォスター、運行係り、グラン・フリン、全13名。
SCADTA便は乗客、エスタ二スラォ・スレタ、ギジェルモ・エスコバール、ホルへ・モレーノ、レスター・ストラウス、乗員はパイロット、ハンス・ウリッチ、機関士、ハーツマン・フアースッ、助手、フアン・カスティージョ(15歳)、全7名。そして、その後にサンペール氏に操縦を任せたフオードF-31機は、滑走路の南端から北へカリのパランケーラ飛行場に向かう滑送を開始した後、500メートル位で上昇初めた瞬間に待機していた、SCADTA便の“マニサレース号”の上に墜落し炎上する。 
時は1935年6月24日午後2時58分ごろ(ガルデル51~4歳)、一瞬の出来事であった。SCADTAの乗員7名全員とSACO便の乗員8名即死、アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡、アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に死亡した。 

(*)事故の生存者:
SACO便の乗客の中で生存者が三人いた。ギタリストのホセ・マリア・アギラールで、彼はウルグァイ人でメデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長い期間滞在している。そして、ホセ・ラサーノと電報での連絡のやりとりの上、ガルデルの遺体をモンテビデオに送る手配を試みたが失敗した。この人アギラールは不運な人で1951年にブエノス・アイレスで交通事故のために60歳で命を落としている。  
二人目のホセ・プラハはガルデルの英語教師とマネジャーを勤めていた。彼はフランス、シェルブール港から1929年5月11日出航、5月27日にニュー・ヨーク到着後弟と商業に従事していたが事業に失敗して、ガルデルに仕える。スペイン国ムルシアの故郷アンパルダン・デ・へローナに帰り、後に数回の手術で回復した。プラハス氏は40年後のあるラジオ番組へのコメントでは、『あの事故はもう時効になった、何も話たくないと』かなり素気のない返事をしている(その時のインタビューでのプラハス氏本人の肉声を録音したテープがある)。彼は1982年9月11日82歳で死亡している。 
三人目のグラン・フリィンは米国人で1904年12月22日生、当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていたので、墜落の際にすぐ飛び降り、無傷で命拾いした。 彼は身を隠し、関係者の誰もが彼の行方を探した形跡もない隙に、9月3日にプエルト・コロンビアから脱出して、9月11日にニュー・ヨークに帰り着いた。後 にフロリダ、ジャクソンビルに住み着いた末に、1983年10月26日に78歳で死亡しているのだが、この人の証言が全く無いのが残念である。 

(*)事故原因の真相は:
この事故の原因については、オラージャ・エレーラ飛行場での自然現象の航空条件欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向けの強い突風に巻き込まれたか、サンペールパイロットがマニサーレス号へ目掛けて急降下のアクロバット飛行を試み、失敗して墜落したとか、機内で喧嘩騒動があり、誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したという憶測が語られていたが、しかし、後年アギラールとプラハ両氏らはそんな騒動は起きていないと否定している。騒動の疑いは憶測としてガルデルの遺体から銃弾が検出された為であるが、この銃弾は1915年12月末にキャバレー・パレード・グラスを出た時に後を追いかけて来た人物にいきなり拳銃で撃たれた時の銃弾で、医者が摘出せず放置した為である。 

1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者とのインタビューによると、『サンペール機は200m位の距離を滑走してマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。これらの数々の原因を上げられているが、二つの航空会社のライバル的紛争から事故は起こるべきして起きたのではないかと思われる、その騒動が4日前に起きている。それは、重要な観客(ガルデル達)を横取りされたSCADTAのドイツ人ハンス・ウリッチ操縦士がサンペール機に向かって急降下飛行を行い、脅かした事件がそれだ。 
SACO社の関係者の中には、サンペール氏が仕返しをメデジンではなく、カリのパランケーロ飛行場で行うつもりで居たと予謀していたらしい。 
1969年、丁度24年後に雑誌記者がプラハ氏にインタビューした際にSACOのモーリソン氏が事故の前日に『カリへ行くにはアンデス山脈の樟高4000m級を越えるために燃料を満タンにして、霧の出ない朝早く出発する必要がある。もし、遅く出発する場合は燃料を半分にして、メデジン経由でカリに向かう空路をとる予定』との報告を受けていたと、コメントをしている。この証言は重要で、SACO便は何故、ボゴタから最短距離(510km)の南南西方向のカリに行く空路をとらず、北北西方向の399km先のメデジンに向けて空路を取ることにしたのか理解できる。まず、何かの理由で出発が遅れ、パイロットは既に霧の発生しているアンデス山脈越えが不可能だと判断し、霧の出ていない方向のメデジン経由でカリ行きを選ぶ。メデジンから真南方向へ456km先のカリ行きはカウカ川の上空を上流に向けた空路をとれば、由り安全であると判断したわけだ。(現在もボゴタからアンデス山脈を越えてカリ、ネイバ、イバゲの各都市へ行く小型航空機は霧の出てない朝早く6~7時ごろに出発する)。このコース変更がガルデルを事故に巻き込んだ、運命のいたずらだったのだろうか。


(*)事故後の新聞の報道は:

1935年6月25日、パリ:歌手ウルグアイ人、カルロス・ガルデルは飛行機墜落事故で死亡、南米各首都で深い衝撃を引き起こす、故人は偉大な敬意を享受していた。

1935年6月27日、トゥールーズ:ガルデルの興行主アルマンド・デフィーノ氏は型どうり、歌手ウルグアイ人の不幸な母親ベルタ・ガルデス夫人を同伴して南米に向う、、、、



















(*)ガルデルの遺体の行方は:

ガルデルの遺体はメデジン市内のサン・ペドロ墓地(この墓地には1995年6月24日にガルデルへの60年追悼記念プレートが捧げられた)Local 34 Galeria de San Pablo Norte Fosa No2(サン・ペドロ北側の回廊,2番墓地)に埋葬されたが、デ・フィーノとアギラールの間で、ガルデルの遺体を巡り、奪い合いを繰り拡げた形跡がある。それにしても、数々の複雑な問題を如何に解決したか不明だが、結局は12月11日にデ・フィーノは教会に遺言書(謎の)を見せて故人は亜国出身者と語り、   
 死亡証明書の入手に成功した。
その年の12月29日にガルデルの遺体は再び御棺に入れられた後、メデジンから鉄道を使い南の村落ラ・ピンターダまで行き、そこから馬車でバルパライソまで行く、先は道路が途切れているため、ロバ数頭を仕立て、カラマンタ、マルモトの村落を通過、スピーアで村民にガルデルの遺体であることが知れ渡り、村の中心広場の教会で追悼ミサが捧げられた。スピーアから馬車でリオスシオ、アンセルマと続きペレイラに到着した後。今度は鉄道でカリ市の近くの太平洋岸に在るブエナベンツーラ港へ到着した(この旅は8日間費やした)。そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936年1月17日、ニューヨークに到着した。ここでも壮大な通夜と葬儀が行われ、1月25日、8日後に代理人デ・フィーノ氏夫妻と共に豪華船パンアメリカーナでブラジル経由をして、2月4日にモンテビデオ到着した。ガルデルの御棺は旧友ホセ・ラサーノ、フランシスコ・カナロらに迎えられ、ブエノス・アイレスまで同行する。
1936年2月5日、午前11時、ブエノス・アイレス到着。ダルセーナ北岸壁には三万人の群集が出迎える中を、ここでも旧友レギサモを初めにフランシスコ・マチオ、リベルター・ラマルケ、ソフィア・ボサンらが葬儀馬車まで御棺に付き添いルナパークへ向かう。ルナパークではカトリック宗教上の習慣による祭壇が祭られ、フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタの演奏でロベルト・マイダが“シレンシオ”を二回繰り返し歌う。翌6日に壮大な葬儀が行われ、ルナパークからチャカリータまでの道のりは別れの群集で渦リ、群集の中には葬儀馬車からガルデルの御棺を降ろし、彼等で肩に担ぎ行進を試みる輩さえ出る始末で、相当な騒動でチャカリータ墓地への到着に非常に難儀を強いられた。(小生、1973年7月の冬のころに、ペロン大統領凱旋の帰国後間もなくの老衰で命を落としたときの国家葬儀での、一頭立葬儀馬車の行進の行方を目撃したが、当日あいにく雨降りの薄寒い日であったので、何とも悲しくも寂しい行進だった様な記憶がある)。この葬儀と比較して、ガルデルの葬儀行進は如何に騒騒しくも悲しさも増し、群集の狂気が迫る様子が目に見える。当初、遺体はパンテオンに安息収まれ、翌年‘37年11月7日に現在の募樟に祭られた。ガルデルの銅像(作者はマヌエル・デジャノ氏)の後ろの記念納骨碑はアギラールの提案と努力でフランシスコ・カナロが音頭をとり、ラヂオ放送にて民衆に呼掛け、一ペソ寄付運動を起こし、多数の団体や民衆からの慈善的寄付に余って、‘50年ごろ完成されたものだそうだ。ガルデルの遺体の奪い合いの事件に後談があり、前提の新聞記者アントニオ・エナオ氏は、遺体は‘36年2、3月ごろデ・フィーノ氏によりサン・ペドロ墓地から亜国に送られたと証言しているのだが。また、ニューヨークのエルナンデス葬儀社での御通夜の時、ガルデルと共演した音楽家“ドン・マジョ”氏と幾人かは、『あの遺体は歯形が違うからガルデル本人ではない』とアルトゥール・セスタン記者に語り、記者氏はその証言を手紙でマエストロ・フリオ・デ・カロに知らせいる。また、他説によると、ガルデルの遺体はサン・ペドロ墓地から運び出された形跡は無いとの証言もある。何故ならば、コロンビア国カトリック教会の法令では、埋葬された遺体は向こう4年間動かすこと禁じているからだ。ガルデルの友人イレネオ・レギサモ騎士はチャカリータ墓地には、絶対に行かないと言っていたらしいが、何か秘密を感知していたのだろうか。ガルデルのギター奏者アギラールも何か秘密を嗅ぎつけたような言動をしていたようだ。しかし、余りにも年月の過ぎ去りし、数々の疑問は永久に謎のままサン・ペドロの墓地か、チャカリータに秘められているにも関わらず、今日現在もアルゼンチンとウルグアイとの間で、ガルデルの出生地を巡り論争が換わされている。何か悲しくも虚しい論争と思いますが、、、 





















El Bohemio記

  ガルデルの芸能活動ー2編、レコードリストへ続く:











 




(8)ガルデル、コロンビアに到着:



時は6月4日、バランキージャでコロンビアでの興行を受け持つセレドニオ・パラシオ氏とユニバーサル映画会社マネージャー・ヘンリー・スチュウール氏らと合同。 
パラシオ氏所持のアポロ(現在メトロ)劇場でデビュー、当時ここの土地の人達にとつてタンゴもガルデルも末たく未知のものにも関わらず、公演は超満員と先ず先ずのスタートをきる。ここはカリブ海に面し、気候、習慣もすべてトロピカルでサルサ、バジェナートなどの、可なり騒々しい動きの激しい音楽ものが好まれる処で、ガルデルのタンゴが受け入れられた事は驚きでもある。6月6日、ガルデル一行はSCDATA(*)便でカルタヘナに向う、6,7日と二日間バリエダー映画館で公演。この映画館は天井が無く、外の群集らは、ガルデルの姿を一目見ようと街路樹に鈴鳴りとなる始末。ここでも満員の入場者で、ガルデルは“トモ・イ・オブリゴ(Tomo y Obligo)”を三回も繰り返し歌う破目になり、ともかく公演は大成功を収めた。(バランキージャ、カルタヘナともガルデルの歌の資料が無い)


一行は再びSCADTA便でメデジンへ向う。メデジンには6月10日にラス・プラジャ(現オーラジャ・エレーラ)空港に到着した。ガルデルが行く後を付ける群衆や車の行列が出来る始末ほど、前代見聞きしない多数の群集が出迎えたとか。11~13日と三日間、エスパーニャ・サーカス風テント劇場に出演、4千人以上入場者が入る。フニン劇場でも公演、その後14日はエコー・デ・モンタニャー(山のエコー)放送局で番組に出演した。 
ただ残念なことに公演の内容の記録が無いのです。

ガルデル一行、ボゴタに向う: 
ガルデル達は6月14日午後2時にドイツ人ベルナルド・グルテリング操縦のSCADTA便でボゴタ市の小さなテチョ飛行場に到着。2万人ほどの群衆は飛行場内の柵を乗り越えて滑走路まで進入し、F-31機を降りてくるガルデル達を取り囲み車に乗るにも難儀の始末。

その上宿泊先のグラナダ・ホテルまで群集の行列が続き、町は熱狂した群集に沸き返る。
ガルデルのデビューはレアル劇場で映画”La batalla(ラ・バタジャ、闘争)との同時公演(当時の習慣による)レアル劇場の公演は15~17日まで、18~22日にオリンポ、ナリーニョ劇場にそれぞれ出演。合間の日にコロンビア民謡作曲家、エミリオ・ムリージョ氏宅に招待され、バンブーコ、“エル・トラピチェ(El trapiche)”の披露を受ける。
23日午後再びレアル劇場での公演、夜はボリーバル広場の脇にあつた“Voz de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。”シン・ソン(Sin son)、クエスタ・アバホ(Custa abajo)“、“エル・カレテーロ(El carretero)”、メロディア・デ・アラバル(Melodia de arrabal)、ノ・テ・デヘス・エンガニャール(No te dejes enganar)“、“シレンシオ(Silencio)”、”ルモーレス(うわさ、Rumores)“、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ(Tomo y obligo)を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(Mi Buenos aires quierido)”を歌ったという記録もあるが確かではない。別の記事では、“クエスタ・アバホ”,“エル・カレテーロ”、“メロディア・デ・アラバル”、“ノ・テ・デハス・エンガニャール(*)”、“シレンシオ”、“ルモーレス、別名“トラス・デ・ラス・ベルデス・コリーナス”(コロンビアの民謡)”、“シン・ソン(*)“,“テンゴ・ミエド・デ・ツス・オホス(*)”、“カタマルカ(*)”、“アガーラ・シ・ポデイス(*)”、“テンタシオン(*)”らの数曲を続けて歌うとありますので重複した曲もあると思いますが追加します。 
ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです。そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。 
私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、絶句に値します』との言葉を最後に、
“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で(*)印を付けた曲は、小生の手元にある、彼の7百曲ほどのSPレコードリストには見あたら無い、また、当時の公演での録音は無いようだ。ただし、“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”1928年12月15日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである)  




















ガルデル、再びメデジンへ行く:

2009年12月15日火曜日

(7)ガルデル、プエルト・リコ、ベネゼーラを訪問:












ガルデル一行はボリケンの島、ルンバ、ボレロが響く土地、トリオ・ロス・
パンチョスの故郷にタンゴ持ち込んだのです:
ガルデル達が訪れる前に、彼の映画は、1931年10月からルセス・デ・
ブエノス・アイレス(Luces de Buenos aires)、エスペラメ(Esperame)、ラ・
カサ・デ・エス・セリア(La casa de es seria)、メロディア・デ・アラバル(
Melodia de arrabal)、エル・タンゴ・デ・ブロードウエイ(El tango de Bro
adway)などの映画は既に上映されていた。
特にトモ・イ・オブリゴ(Tomo y Obligo)の場面になると満場拍手渇采に
なり、その場面のフイルムを戻して4~5回も繰返しをしなければ成らず
と大変な騒ぎと化すのは当たり前だったらしい。ですから、本人が来た
からには騒動が大きくなるのも至極当たり前なわけです。
‘35年3月28日、ガルデル一行は豪華汽船“コアモ”に乗船してニュー
ヨーク出港。
4月1日午前5時30分、プエルト・リコのサンフアン港第一岸壁に到着。
サンフアン港での向えは早朝にも関わらず、興行主催社ユナイテッド
・シャアター社主フリオ・ブルーノ氏、ラファエル・ラモス・コビアン氏を
初めとした芸能関係者やエル・ムンド紙の記者達、その他各関連関
係者や多数の貴婦人達が客船の上甲板まで押し寄せて、大変な騒
ぎと化したのです。港湾近辺にはガルデルたちを出迎える4万人群集
が溢れた。こうして、この島は一ヶ月近くに渡り、ガルデルブームに沸
き返るのです。一行はその日から数日間にわたりコンダード・バンデル
ビルッ・ホテルに宿泊している。
ガルデルは公演興行が始まる前に入場料を安くして多くのフアンが
入場できる様に配慮を興行主催者コビアン氏に交渉して、もし、損益
の差額はガルデル自身が支払うとの約束をした。まず初めの公演は、
3~5日(夜の公演のみ)サンフアン、サンツルセ街:パラマンゥト劇場
でデビュー。
6、7日(午後と夜の2回公演)、サンツルセ街:パラマンゥト劇場
8日(夜の公演のみ)、ウマカオ:ビクトリア劇場、
11日(夜のみ公演)、ポンセ:ブロードウエイ劇場、エル・カレテーロ(El carretero)、クエスタ・アバホ(Cuesta abajo)、トモ・イ・オブリゴ(Tomo y obligo)らを初めに数曲のレパートリーを披露する。
この日はメリア・ホテルに宿泊
11日(夜のみ公演)、ジャウコー:イデアル劇場、
12日(午後のみ)、サンフアン、リオ・ピエドラ街:ビクトリア劇場、
12日(夜のみ公演)、リオ・ピエドラ街:トレス・バンデーラ劇場、
13日(午後のみ公演)、リオ・ピエドラ街:インペリアル劇場、
13日(夜のみ公演)、サンツルセ街:リベルティー劇場、
15日(夜のみ公演)、サンツルセ街:プエルト・リコ劇場、
17日(午後のみ公演)、サンツルセ街:サンフアン劇場、
17日(夜のみ公演)、サンツルセ街:プエルト・リコ劇場、
18日(午後のみ公演)、マナティー:アテナ劇場、
18日(夜のみ公演)、アレシーボ:オリベール劇場、
20日(午後のみ公演)、カジェイ:カジェイ劇場、
20日(夜のみ公演)、グアジョマ:カンポアモール劇場、
21日(夜のみ公演)、リオ・ピエドラ街:ビクトリア劇場、
22日(午後のみ公演)、プエルタ・デ・ティエーラ街:エウレカ劇場、
22日(夜のみ公演)、カタニョ(サン・フアンの郊外):レクッス劇場、
これらの各地に公演する。単純に計算しても全部で26回も公演し、相当な強行日程をこなして、プエルト・リコには22日間にもなる滞在をした。ガルデル達はこうしたボリケン市民の信じがたい礼賛に感動しつつ、別れを告げて行く。プエルト・リコでのガルデルの公演は1週間の予定が22日間と長引く事になった。この現象は如何に絶大な人気があった証拠ですね。後年、ティト・
ギサールがルンバ調(ボレロ?)のアディオス・アル・アミーゴ・ケ・セ・フエ(Adios al amigo que se fue)の曲をガルデルに捧げています。
また、ガルデルとフリオ・ラミーレスがあたかも真の二重唱で歌っているような特殊録音された、バンブーコ、ミス・フローレス・ネグラス(Mis flores negras)の曲がレコード化されています。フリオ・ラミーレスはガルデルとは遭遇してない時代の歌手です。
ガルデルが訪れていない場所のイサベラに地元のガルデル同好フアンにより、彼の追悼銅像が立てられています。

1935年4月23日、サンフアンから汽船“ララ”でベネゼーラへ、4月25日、ベネゼーラ、グアリア港に到着、港には興行マネジャーのルイス・プラシド・ピサレジョ氏とカラカス放送局のディレクター・エドガル・アンソーラ氏らを始め、熱狂した多数の貴婦人達の出迎えに合う。一行は港の近くのマクートのミラマール・ホテルで昼食を取り、後に鉄道(熱狂した観衆群が沿線を埋めた、ガルデルは窓際で手を振りながら答える)で2時間かけてカラカスへ、カニョ・アマリージョ(カラカス)駅での群集の出迎えは凄まじく,一同迎えの車に乗るのに往生し、車内に乗り込んでからも狂った様な群衆に車の天井のキャンパスをナイフで切り裂かれたり、その上群衆に巻き込まれたアルフレッド・レペラは警官に群集の一人と間違われ殴られる始末の果てに、決局全員共駆け足で群集の中を近くのガラス工場に逃げ込む騒ぎになる。カラカスではマジェスティク・ホテル(ムニシパル劇場の前に存在した)に宿泊する。


4月26日~5月3日、カラカスでの最初の公演は、プリンシパル劇場でディズニー映画“エル・ペーロ・ロバード(盗まれた犬)”との混合公演になる。レパートリーは次の“コバルディア(臆病)”、“カルナバル(祭り)”、“エル・カレテーロ(御者)”、“インソミニオ(不眠)”、“トモ・イ・オブリゴ”、“ポル・ウナ・カベサ(頭の差)”、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”などの曲を歌う。同月8日、バレンシア:ムニシパル劇場、10日、バレンシア:リアルト劇場でも出演、しかし、気候の変化の影響で体調を崩して仕舞い一部の公演をキャンセルした。12日、バレンシア:ムニシパル劇場、
15日、カラカス・ブロードキャステイングで放送番組に出演、
17日、ラ・グアイラ:ラマス劇場、19日、マラカイボ:バラルッ、メトロ劇場に出演した後、グラナダ・ホテルに宿泊、20日、カビーマス:インターナショナル・サーカス、ここはマラカイ湖のマラカイ市の対岸の人口一万五千余りの小都市で住民は石油関係の労働者達が大部分を占める、挙句の果てに教養の低い人民が多い土地柄で、サーカスのテント会場で声が枯れるまで歌うが観衆は満足せず、観衆は荒れてテントを焼き払う騒動始末になり、官警の出動を仰ぎガルデル一行は夜の闇を利用して姿を晦まし、マラカイボまで逃げ帰る様となる苦い経験をしている。(ガルデル大フアンであるクララ・コーセル女史は当時8歳、彼女の祖母とこのサーカス会場に行こうとしたが、危険だからと誰かの忠告に従い.生存隋一の貴重な機会を逃している)。ガルデル一行はカラカスに戻った後、そこから二時間ほどのマラカイにあるフアン・ビセンテ・ゴメス独裁大統領の別荘“ラス・デリシア”に招待される、ガルデルはその日の夜にプリンシパル劇場での公演予定があるにも拘らず、強制的な迎えで100人ほどの招待客の待つ大統領宅に着くと、ガルデルはゴメスの闘鶏に凝ることを承知で皮肉の心算で“ポブレ・ガジョ・バタラス(哀れな安闘鶏)”を歌うが、ゴメスはご機嫌よく、ガルデルへ賞揚として当時としては充分過ぎる高額金(1万ボリーバル)を与えたが、彼はそのお金をキュラソー島に着いた時に亡命ベネゼーラ人達に寄付してしまう。
22日、マラカイボ:バラレッ劇場で、午後と夜の二回も公演する。
プエルト・リコ、ベネゼーラの両国で一ヶ月余りによる興行を大成功のうちに終えて、キュラソー、アルーバ経由の末、プエルト・コロンビア港に着く。 

ガルデル、コロンビアへ:

(6)ガルデル、ニュー・ヨークにデビュー:

ガルデル、ニューヨークへ向う:

1933年11月7日、ブエノス・アイレスを客船“コンテ・ビアンカマノ”にオラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カスティージョ同行乗船、午後10時にスペイン、バルセローナへ出航。
1933年11月22日、バルセローナ到着後、鉄道でパリへ行く
1933年12月15日、マドリード:パノラマ映画館で映画”ラ・カサ・セリア”が上演される。
1933年12月19日、其の晩、カフェー・デ・パリへワキフールド(イギリス・タバコ財閥)夫妻の主事するお別れ晩餐会へ招待される。ガルデルはこの時に友人達に49歳誕生をする事を告白した。(とすると1884年生れになる、1980年生れではないと証明している)
1933年12月23日、パリから鉄道でル・アブールへ、そこから客船ヨーロッパでニュー・ヨークへ、オラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カステジャーノらが同行する。

(*)ガルデル、ニュー・ヨークにデビュー:
1933年12月28日、ニュー・ヨーク着
1933年12月30日、ニュー・ヨーク:ナシオナル・ブロード・キャスティングの番組でウーゴ・マリアーニ指揮する18人編成楽団・で”エル・カルテーロ”、“ブエノス・アイレス”など他に数曲を歌う、この番組にはビング・クロスビイ、エディエー・キャンター、アルトゥーロ・トスカニー二らが出演した。
1934年1月までWALDORF ASTORIAホテルに落ち着く、オラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カステジャーノらはANSONIAホテル(2109 Broodway-73~74 Street)に落ち着く
1934年1月~3月間、ガルデルはANSONIAホテルに移る
1934年3月5日、ニュー・ヨーク:ガルデルは(またはウーゴ・マリアーニ楽団の伴奏入り)ラヂオ・リバダビアからバルビエリ、リベロール、ビバスの奏でる伴奏(またはエドゥガルド・ドナートの楽団)を聴き合わせてタンゴを歌い、その声はNBC放送から送信され、ラヂオ・スプレンディーで受信された電波は聴取者にはガルデルの歌とギター伴奏(楽団伴奏)が合わされた電波が聞こえると、当時としては技術的に高度な可なり複雑な志向がこめられた同時放送が行われた。

(*)後で有名になる映画撮影に入る:
ガルデル、パリで待機のアルフレッド・レペラをニュー・ヨークに呼び寄せる
1934年3月~8月、ニュー・ヨーク:Boaux Arts Apartaments(310 East 46th Street)に引越す、アルフレッド・レペラとアルベルト・カステジャーノらと住み始める。そこは巨匠アストル・ピアソラが少年時代に父親の作った木彫りのガウチョ(この木彫りガウチョはメデジンの事故で黒こげになるが後年ニュー・ヨークの古董店に姿を表わすが、、、)をガルデルに贈るために尋ねた場所。
1934年3月8日、NBC KPO放送 5:15pm番組にウーゴ・マリアーニ劇団と出演、
1934年4月4日、NBC WJZ放送8:45pm番組に出演、ガルデルは、この番組出演で1週間us$315の報酬をうけた。この放送はフイラデルフィアのkyw放送のも伝送同時放送された。




1934年5月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“クエスタ・アバホ”の撮影に入る。 アルフレッド・レペラのシナリオでルイス・ガス二エール監督の元に、アルベルト・カステジャーノとテリグ・ツチーが音楽担当、俳優達はカルロス・ガルデル、女優モナ・モリス、ビセンテ・パデゥラ、アニタ・デル・カンピージャ、そして、アルベルト・カステジャーノの面々、ガルデルは“クエスタ・アバホ”、“クリオージャ・デシ・ケ・シ”、”ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”、“アモレース・デ・エスディアンテ”、その上“祝杯”の場面で“リンピア”を歌う。共演者のカルロス・スパベンタが牧場の場面でサンバ“エン・ロス・カンポス・エン・フロール(野原の花)”、エスティーロ“オリビード(忘却)”を歌う。女優のモナ・モリスはスペイン語がおぼつか無いにも拘らず、ラケル・トーレス、ロシータ・モレーノ(彼女ら三人は電話でガルデルのインタビューを受けて選考を受けた)らを退けてガルデルの共演女優に抜擢された経緯がある。
1934年7月27日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオでアルベルト・カステジャーノ(ピアノ)、グレゴリオ・アジャラ、ミゲル・カセレス(ギター伴奏)らでVICTORレーベルのレコード吹き込み、“クリオジータ・デシ・ケ・シ”、18909Bと”カミニート・ソレアード“18913Bの二曲。
1934年7月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“タンゴ・エン・ブロードウエイ”撮影、アルフレッド・レペラのシナリオでルイス・ガス二エール監督、カステジャーノとテリグ・ツチーらの面々と“クエスタ・アバホ”と同じメンバー。俳優たちはガルデルを初め、トリニ・ラモース(スペイン人)、ブランカ・ビセル(中米人)、の女優達とベセンテ・パデゥラ、ハイメ・デベサ、ガルデルは“ゴロンドリーナ(ツバメ)”、“ソレダー(孤独)”、“ルビア・デ・ニューヨーク(ニューヨークの金髪嬢達)”と”カミニート・ソレアード(日差しの小道)”などを歌う。
1934年7月30日~1935年3月20日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオ、Terig Tucci楽団とレコード吹き込み、“クエスタ・アバホ”18909Aから“チャーチング・ムチャチータ”まで。
1934年8月10日、ニュー・ヨーク、カンポアモール劇場(116TH STREET-FIFTH AV)に映画“クエスタ・アバホ”上演される



1934年8月、フランス、パリ:アンバサドール・ホテルに宿泊する
1934年10月~12月、フランス、ニース:HOTEL MIDDLETOWNEに宿泊している。
1934年12月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“カサドール・デ・エストレージャ(THE BIG BROADCAST OF 1935)”撮影、ガルデルは“アプーレ・デランテーロ・ブエイ(急げ先頭牛よ)”、タンゴ“アマルグーラ(苦しみ)”共演者はマヌエル・ペルーフォ、カルロス・スパベンタ、及び女優セリア・ビジャ,ビング・クロスビイ、ジャク・オアキー、ライ・ノブレー楽団たちと多彩なメンバー。
しかし、ガルデル亡き後、パラマゥントは彼の出演部分を消却してしまう)

1935年1月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”撮影、アルフレッド・レペラのシナリオでジョン・レイナルドッ監督の元に、音楽監督はテリグ・ツチーによる。俳優連は、ガルデルを初めに女優ロシータ・モレーノ、ティト・ルシアルド、マヌエル・ペルフォ、ダニエル・デル・カンポ、そして、アストル・ピアソラ少年(新聞売り子役)、歌の部分はガルデルとロシータ・モレーノとの二重唱で“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”を歌う、他に”スス・オホス・セ・セラーロン(閉された瞳)”、“ギター・ラミーア(私のギター)”、“ソル・トロピカル(常熱の太陽)”、“ボルベール(回想)”、ガルデルとルシアルド、ペルフホの三重唱で“フロール エン・バーノ(空虚な誓い)”歌う。





1935年2月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“タンゴ・バー”撮影、前作と同じスタッフでの作品、主演俳優は当然ガルデルで、共演女優はロシータ・モレーノ、他の俳優たちはエンリケ・デ・ロサス、ティト・ルシアルド、ホセ・ルイス・トルトサ、らの面々、”アラバル・アマルゴ(苦き下町)“、”レハーナ・ティエラ・ミーア(遥かな我が故郷)”、”ポル・ウナ・カベサ(頭の差で)“、ホタ“ロス・オホス・デ・ミ・モサ(愛しき乙女の眼差し)”等の曲を歌う。
1935年3月19~20日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオ、ビクター・レーベルに“アラバル・アマルゴ”から14曲をテリグ・テゥクシー楽団とレコード吹き込み、
1935年3月20日、ニュー・ヨーク:ビクター・レーベル最後の一曲“ギターラ・ミア”をギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール、ギター伴奏で吹き込み。
1935年3月20(25?)日、ガルデル、スペイン語團フアン向けにメセージを吹き込む。




ガルデル、南米巡業に旅立つへ:

(5)ガルデル、フランスで映画撮影:

フランスで映画撮影をする:ニース、パリ、8ヶ月に及ぶ滞在:

1931年5月1日、パリ:パリの郊外、ジョワンビルにある、パラマウント・スタジオでマヌエル・ロメーロ,ルイス・バイロン・エレーラ、ガルデル共同作映画ストーリーの“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”をアデルキ・ミジャール監督の下で、音楽担当はヘラルド・マトッス・ロドリゲス、その上、フリオ・デカロも参加し、ドラマの構成はブエノス・アイレスのサルミエント劇場専属レビスタ・ポルテーニョ劇団メンバーによる協力により、参加主演俳優はグロリア・グスマン、ソフィア・バサン、ペドロ・クアルトッチ、加えてフリオ・デカロ、ビセンテ・パデゥーラ、カルロス・バエスらの豪華な面々、ガルデルはマヌエル・ロメーロ作の映画題名を歌い、“トモ・イ・オブリーゴ”、“エル・ロサル”などのタンゴを歌う、この映画の撮影は22日間に及ぶ。
1931年5月9日、フランス、パリ:パレセー劇場、アルメノンビル・キャバレーにも出演、
1931年5月25日、フランス、パリ:放送局に出演、この番組はブエノス・アイレスでも放送される、“マノ・ア・マノ”、“アマルグーラ”ほか数曲歌う。
1931年5月28日、パリ、ジョワンビル:フランス・オデオン・スタジオでギジェルモ・バルビエリ、アンへル・リベロールのギター伴奏でタンゴレコードを10曲吹き込み、其の内の二曲はフランス語で歌う、そして、“アンクラオ・エン・パリ(パリに繋がれて)”はエンリケ・カディカモがマドリード滞在時(1931年初め頃?)に草案作詞した、ニースで公演中のガルデルの元に手紙で送り、ギジェルモ・バルビエリが曲を付けたものだ(エンリケ・カディカモが後年ラジオのインタビューで語るところによると、マドリードに滞在した頃、パリに長年住む同胞の心境を想像して、この曲のテーマの作詞をしたと語る。 
ボゴタのFM放送がガルデル50年追悼番組でカディカモのインタビーを流した時の録音が小生のコレクションにある)
1931年6月、パリ:テアトロ・パレセー、アルメノンビルにも出演、



1931年8月1日、フランスを後に、
1931年8月20日、ブエノス・アイレス着、二人のギター奏者と女優グロリア・グスマ
ンも同船していた。帰国後直ちにアギラールの空けた穴埋めをギター奏者のバルビエリの仲介でフリオ・ドミンゴ・ビバスを招きいれる。 フリオ・ドミンゴ・ビバスは優秀なギター奏者だけでなくバンドネオンも賞賛に値するほど技巧的な演奏をもし、すでにヨーロッパで活役の経験者でもある。ガルデルもかなり好感を受け、新しいギターとスモーキングを贈る。ビバスの参加はグループの練習時に効果的に協力した。
1931年9月1日、ブエノス・アイレス:『LP6』アメリカ放送局の番組でビバスがデビューする、
1931年9月3日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、フランシスコ・カナロと“コンフェション(告白)”レコード番号18850Aを録音、
1931年9月4~16日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・リバスのギター伴奏で6曲レコード吹き込み
1931年9月11日、ブエノス・アイレス:ガルデルはバルビエリ、リベロールにビバスを加えてブロドウエイ劇場にデビユー。
1931年9月12~14日、モンテビデオ:アルティガ劇場でギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらのギター伴奏で出演。
1931年9月21日、グレゴール楽団とフランス歌唱を5曲吹き込む、
1931年9月23日、三人のギター奏者と4曲を吹き込み。
1931年10月6~11日、モンテビデオ:レクス劇場。
1931年10月13~21日、モンテビデオ:アルティガ劇場、
1931年10月26日、ブエノス・アイレス:フランシスコ・カナロと4曲をレコード録音。
1931年10月27日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでレコード4曲吹き込み。
1931年10月~12月、ガルデル一人でフランス行き2ヶ月ほど滞在する。



1932年7月22、23日、バルセローナ:フアン・クルス・マテオ(ピアノ)とソルソナ(ビオリン)の伴奏で10曲吹き込み録音、ピアノとギター(イリアルテ)で“エル・ロサル”他二曲吹き込み録音。

(*)アルフレッド・レペラとの出会い: 
ガルデルはレペラとジョワンビルのスタジオで知り合う、彼はブラジル人で新聞記者が本職だが、
ガルデルと組み数々の有名タンゴの作詞を手がけることになる。
1932年9月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオで”ESPERAME(エスペラメ)”映画撮影、ゴジータ・へレーロ(Gojita Herrero)、マティルデ・アルテーロ(Matilde Artero)、ロリータ・ベナベンテ(Lorita Benavente)らの共演女優。   
1932年9月~10月、フランス、ジョワンビル:ガルデルが映画撮影の合間に近所の墓地を訪問した際、第一世界大戦当時の犠牲兵士の墓の中に五人同じ苗字を見届け、その母の心境を想像して、それをテーマにレペラに作詞を依
頼、ガルデルとオラシオ・ペトロッシが作曲して出来た曲が映画“メロディア・デ・アラバル”で歌われた、タンゴ“シレンシオ”である。
1932年10月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオで“ラ・カサ・エス・セリア”短編映画撮影、この映画原フイルムは第二次大戦のときにフランスを占領したドイツ軍に破壊されてしまったらしい。
1932年11月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオ“メロディア・デ・アラバル”撮影をする。
1932年12月15日、客船ギーリオ・セサーレでオラシオ・ペトロッシを同行してブエノス・アイレスに向う。
1932年12月31日、ブエノス・アイレスに到着、

ガルデル、アルゼンチ、ウルグアイ最後の公演:
1933年の活動は:ギター伴奏はギジェルモ・バルビエリ、オラシオ・ペトロッシ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスの面々で行動する。
1933年1月、④フニン:ジアナスタシオ・サーカス(Calle 12 de Octubre y Ramon Falcon)
ホラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらのギター四重奏で出演。
1933年1月13~23日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでオラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバス達のギター四重伴奏でレコード吹き込みをする。
“スエニョ・ケリード“18883Bから“レンコール”18876Aまでの10曲。
1933年2月14日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、前者達のギター伴奏とフェリサ、アデラ・バルビエリ(ギジェルモの妹たち?)のコーラスを入れて“シレンシオ
“を吹き込むが、気に入らず没にする。
1933年2月15日~11月6日、オデオン・スタジオ、4人のギター伴奏でレコード吹き込み、“クリオジータ・デ・ミス・スエニョス”18879Bから“ロサ・デ・カルナーダ”18950Bまで57曲。
1933年4月21~23日、⑧ロサリオ:『LT3』放送局で実況放送に前記のギター四重伴奏者と出演。
1933年4月25日、②ペルガミーノ:レイナ・ビクトリア映画館(Calle San Nicolas 367)、
ローマ・ホテル(Hotel ROMA、 Calle San Nicolas 570)に宿泊、
1933年4月26日、アレシーフェ:コリセオ映画劇場、
1933年4月28日、②サン・ペドロ:ラ・パルマ映画劇場、
1933年4月29日、バラデーロ:コロン劇場、
1933年5月1日、カンパーナ:モデルノ映画館、
1933年5月5日、②ヌエベ・デ・フリオ:ロシー二映画劇場、
1933年5月6日、②ブラガード:コンスタンティーノ劇場、
1933年5月7日、②メルセデス:ソシアル映画館、
1933年5月8~11日、⑧ラ・プラタ:アストロ映画劇場、
1933年5月13日、レメディオ・デ・エスカラーダ:イデアル映画館、
1933年5月14日、アドロゲー:イデアル劇場、
1933年5月16日、④アスール:エスパニョール劇場、
1933年5月17日、②オラバリーア:パリス映画館、
1933年5月19~21日、⑤バイア・ブランカ:パラシオ映画館、
1933年5月20日、コロネル・プリンゲル:
1933年5月22日、②プンタ・アルタ:エスパニョール劇場
1933年5月27,28日、⑤タンディル:セルバンテス劇場、
1933年5月29日、コロネル・ドレーゴ:イタリアーノ映画館、
1933年6月3,4日、②サン・フアン:セルバンテス映画館、“ナイペ・マルカード”、”テンゴ・ミエド”などを歌う。会場満員でガルデルは劇場正面扉を開放するようにして、外の観衆にもガルデルの歌が聞こえる様に配慮した。
1933年6月5日、ブエノス・アイレス:アストロ劇場(Av Santafe 1860)
1933年6月12日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、レコード吹き込み、
1933年6月13日、マルティネス:アストロ劇場、
1933年6月29日~7月2日、②メンドサ:パレセ・シャアター映画館、
(1933年7月3日、ニュー・ヨーク・タイムスに1932年9月にフランスで撮影された“エスペラメ”の映画紹介記事がのる、“ESPERAME”『Musical Romance in Spanish』Goyita Herrero(ゴジータ・エレーラ),Matilde Artero(マティルデ・アルテーロ),Lorita Benavente(ロリータ・ベナベンテ)らの共演女優)。
1933年7月3~4日、③サン・フアン:セルバンテス映画館、
1933年7月29日~8月3日、③メンドサ:セルバンテス劇場、
1933年8月3日、⑤フニン:クリスタル・パラセー劇場、
1933年8月4日、②チャカブコ:プエイレードン劇場、
1933年8月5,6日、チリビコイ:メトロポール劇場、
1933年8月10,11日、⑦コルドバ:ヘネラル・パス映画館、
1933年8月12日、ビジャ・マリア:キャピトル劇場(現在、ベルディ劇場)、8月9日”エル・ティエンポ紙にガルデル公演の紹介記事が載る。



1933年8月13日、マルコ・フアレス:イタリアーノ映画館、
1933年8月14日、②カニャダ・デ・ゴメス:ベルディ劇場、ここでもエピソードあり、劇場のマネージャ・マトローネ氏とサロンで立ち話中に入ってきた少年達の入場券をガルデル自身が払う。ガルデル自身が二階のバルコーニの扉を開放させ、外の群集に彼の歌が聞こえる様にした。 パラセー・ホテルに宿泊。
1933年8月16~18日、④サンタ・フエ:アポロ映画館
1933年8月18日、②グアレグアイチュ:同名の劇場
1933年8月19、20日、パラナ:マジョ劇場、
1933年8月21,22日、コンセプシオン・デ・ウルグアイ(亜国):アベニーダ劇場
1933年8月24日、サン・ホセ(ウルグァイ):カタルーニャ・ホテルに宿泊する、
1933年8月25日~9月26日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでオラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらの4人のギター奏者と巡業の合間に14曲録音、“ラ・ウルグァジータ・ルシア”18890Aから“ラ・ロサ・エンカルナーダ”18950Bまで。
1933年9月11日、ロマス・デ・サモーラ:エスパニョール劇場、ロス・アンデス・クラブにも出演、?



1933年10月12日、10日間に亙り、モンテビデオ:“ディシオチョ・デ・フリオ”劇場に出演、フェルミン・フェレイラ病院に慰問公演を行う。
1933年10月13、16、19、21日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、
巡業の合間にテアトロ・コロンの合唱団と公演、
1933年10月22日、ウルグアイ各地に最後の公演に出る。モンテビデオ、パイサンデゥー、メルセデス、モンテビデオのラジオ・カルベなどに出演
1933年11月5日、モンテビデオ:各劇場で最後になる公演をする。観衆全員席を立つのを戸惑ううちにガルデル姿をけす。
*地名の前に丸数字①~は其の地に訪問した回数


 

ガルデル、ニュー・ヨークに行くヘ続く:

(4)ガルデル、フランスにデビュー:

ガルデル、いよいよフランスにデビュー:


(*)1928年6月、ブエノス・アイレス:ガルデルのギター伴奏にもう一人、ホセ・ラサーノの仲介でベテランのホセ・マリア・アギラールが参加する。
彼はゴメス‐ビラ、イルスタ‐フガソッとの両二重昌のギターリツスト及びアスセナ・マイサーニ、リベルター・ラマルケ、プリンシペ・アスールらの伴奏者も務め、ガルデルはアギラールのプア技巧(PUA爪をつかった技巧)に優れているので気にいったらしい。 
その上作曲もする、“アニョランサ(郷愁)”18262A、“テンゴ・ミエド(恐れ)”18934A、がある。
1928年6月20日~7月6日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリとレコード録音開始、27曲録音
1928年6月18日、ブエノス・アイレス:マジェスティク映画館にてホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールを新たに加えてギター三重奏でデビュー
1928年7月6日から約2か月間、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラールを加えて、ラジオ・プリエトに出演、
1928年8月23日~9月6日、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラールが参加し、レコード録音は“エスタ・ノチェ・エン・ボラチョ”から開始される。16曲録音
1928年8月27日~9月3日、モンテビデオ:ソリス劇場



1928年9月12日、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールの三人のギター奏者らとルイス・ペッロティー・マネジャー及びアントニオ・スマジェー運転手とガルデルの自家用車グラハム・パイジェを積み込み、客船“コンテ・ベルデ”に乗船、パリに出発、バルセローナで下船、グラハム・パイジェでパリまでドライブする。
待望のパリにデビユー、当時既にパリには、マヌエル・ピサーロ楽団、ビアンコ・バチ―チャ・タンゴ楽団が活躍していた。

1928年9月30日、フランス、パリ:フェミーナ劇場(シャンゼリゼ大通90番凱旋門の近く、現在も存在するか?)にデビュー、
1928年10月2日~1929年2月5日、パリ:フロリダ・キャバレーに出現、最初のジャズ公演で騒々しい場内はガルデルが“アディオス・ムチャチョス”を歌い始めると、場内は以瞬静粛になり観衆から唖然とした空気とため息がもれ、ガルデルの“アディオス”が終わると場内の観衆の万来の拍手はやりしずまず、ガルデルは次の歌に入れず、場内は騒然の繰り返し、(そこに居た“アディオス・ムチャチョスの作者セサル・ベダーニの証言)“エル・カレテーロ“、”カミニート”、“マノス・ブルーファ”、“ケハス・デ・アルマ”、“ラス・ マドルセルバ”、“ラ・クンパルシータ”らをヒットさせる
1928年10月11日~1929年4月6日、パリ:フランス・オデオンにレコード吹き込み録音開始、“ピエダー”18250A番から”プリメーロ・ジョ”まで56曲録音した。

1929年1月、イタリー行き、ルイジ・ピランデージョ氏案内同行の旅で数週間の休暇をとる、
1929年1月末~2月5日、パリ:オペラ劇場、“BAL DES PETITS LITS BLANCS”
フェスティバルでマウリセ・チェバリエル、ライムー、ルシエン・ボジェール、リッ・コツイらと、そして、オスバルド・フレセド楽団も共演、このショーの観客にガストン・ドーメルメ・フランス大統領が観席に居て、“エル・カルテーロ”をアンコールする、ガルデルは丁重にこの曲を数回繰り返して歌う。 フロリダ・キャバレーにも出演した、
1929年2月8~19日、カンヌ:カジーノに出演、
1929年2月22日、パリ:エンピレー劇場の公演、オデオン・スタジオで四曲レコード録音する
1929年3月8日、パリ:フロリダ・キャバレー、
1929年4月23日、バルセローナ:プリンシパル・パレセー劇場(現存するが1983年に建物封鎖される、(Las Ramblas de Cataluna #27)出演,
1929年5月5日、マドリード:インペリアル劇場、この後ギター奏者ホセ・リカルドはガルデルの元を去る事になる、14年間も共演した。ホセ・リカルドはヨーロッパに残留。
1929年5月16~26日、マドリード:アベニーダ劇場、
1929年6月17日、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールと共に客船コンテ・ロソーでブエノスに向う。
1929年6月20日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでレコード録音に専念する143曲録音した。
1929年10月6日、ブエノス・アイレス:メトロポール劇場、



(*)再びスペイン公演:
1929年11月23日、バルセローナ:プリンシパル・パレセ劇場
1929年12月6日、バルセローナ:インペリアル劇場、
1929年12月31日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでホセ・ラサーノと最後の録音、“クラベル・メンドシ-ノ”18801A、“セラーナ・インピア“18804Aの二曲、
ガルデルは“ネグロ”リカルドが抜けた後、必要に迫られて新しいギター奏者を追加するための候補者選びをバルビエリとアギラールに託す、数人の候補からガルデルが選抜したのはアンヘル・ドミンゴ・リベロールである。リベロールは“マガルデイー‐ノダ”二重唱を三年間の伴奏経験があり、その上に美しい喉をも備え、ギター奏法では特別に低音トーンのボルドーネのテクニックに優れている、
1929年9月から、リベロールはガルデルのギタートリオに参加し始めるが、オデオン・レコード録音には、契約上の問題で直ちには参加できず、しばらくは劇場などの興行公演のみの参加が続く。
アルゼンチン国内巡業、ギジェルモ・バルビエリとホセ・マリア・アギラールとのギター二重伴奏でロサリオ、コルドバ、フニン、マール・デル・プラタ、タンディル、バイア・ブランカ、と廻り、ブエノス・アイレスに戻る
1930年1月3~7日、⑥ロサリオ:バリエテー映画館
1930年1月9~12日、⑥コルドバ:パレセー劇場
1930年1月14日、①カニャダ・デ・ゴメス:ベルディ劇場出演、駅の近くのウニベルサル・ホテルに宿泊する。駅から徒歩でホテルまで行く途中付いてきた少年に荷物を持たせ、あとで新聞を買いに行かした駄賃に5ペソを与える。貰った少年はその多額に驚いたらしい。また、ガルデルは舞台に上がる前に一人でホテルの食堂に入り、大好物のパスタ(スパゲティ)ーをモソ(給仕人)エレステ・バルベジョ氏に注文する、食事のあとダイニングに挨拶に行き、劇場の入場券を数枚配る光景をダムアーノ夫人(ガルデルの絵を描いた人)が思い出をのべている。その日のベルディ劇場は超満員、公演が終わるとバルコニーに出て、入れなかつた群集に向かい数曲タンゴを歌う、バルコニーの前には通り向こう大木には鈴なりの人だかりと化したと言う。
1930年1月18,19日、③フニン:クリスタル・パレセ劇場、
1930年1月25日、アベジャネーダ(ブエノスの隣):エル・プロベニール映画館、
1930年2月7日、⑤マール・デル・プラタ:オデオン劇場、
1930年2月19,20日、④タンディル:セルバンテス劇場、
1930年2月21~23日、②トレス・アロージョス:プラサ・ホテルに宿泊
1930年2月24~27日、④バイア・ブランカ:パラシオ映画館
1930年3月20日、ブエノス・アイレス:アンヘル・リベロールの参加した、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールのギタートリオの伴奏でレコード録音が可能になり、タンゴ“フベントゥー”18995B番がこのトリオの最初のレコードとなる。
1930年4月1日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、ロドルフォ・ビアジ(ピア
ノ)とアントニオ・ロデオ(バイオリン)及びギタートリオ、バルビエリ、アギラール、リベロールらの伴奏でレコード録音をする。 曲は“ブエノス・アイレス”18808B番を初め6曲録音した。“ビエホ・スモーキング”も録音したが、ガルデル自身気に入らず没にした。
1930年4月10日~12月1日、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロールのギタートリオでレコード録音、76曲録音。
ベルグラーノ放送に水曜、金曜の夜9時に歌う、エンピレー劇場、エルジー・シャアタ―映画館に出演
1930年6月3~12日、⑦ロサリオ:ルイス・アラタ劇団とホセ・アギラール、アンヘル・リベロールと共演でコメディア劇場出演、
1930年9月8日、ブエノス・アイレス:グラン・フロリーダ出演、
1930年10月4日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場出演、

(*)アルゼンチンで初めてのソノーラ映画撮影:
1930年10,11月~1931年? ブエノス・アイレス:エデゥアルド・モレイラ監督のもとで、フランシスコ・カナロ、フェディリコ・バージェとの共同作品をバージェ氏のスタジオにて、アルゼンチン最初の音声付短編映画撮影に入る、この映画の中でガルデルはセレドニオ・フローレス、エンリケ・サントス・ディセポロ、アルツゥーロ・ナバらの作曲家のテーマをギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール達のギター伴奏で“マノ・ア・マノ”、“ジーラ・ジーラ”、“テンゴ・ミエド”、“パドリーノ・ペラード”、“アニョランサ”、“カンチェーロ”、“エル・カレテーロ”、“エンフォンダ・ラ・マンドリーナ”、カナロ楽団の伴奏で“ビエホ・スモーキング”、“ロサ・デ・オトニョ”の10曲を歌う。
1930年11月22日、ブエノス・アイレス:ラジオ・スプレンディーの番組“オーラ・へ二アル”に出演、“ジーラ・ジーラ”、“テンゴ・ミエド”、“エル・キニネーロ”、“カプリチョサ”、“マニャーナ・デ・ソル”らのタンゴを歌う。


















1930年12月5日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、フランシスコ・カナロ・ イ・ス・セステートとレコード録音、“ラ・マリポサ”18858B他四曲録音、この録音セッションが終わると、ラヂオ・リバダビアの番組に出演、

(*)再びフランス行き:
1930年12月6日、客船コンテ・ロッソーにて、リカルド、バルビエリ、アギラールを従えフランスへ向う、まずニースでデビューの後、
1930年12月26~30日、パリ:エンピレー劇場に出演、
1931年1月15日~3月、ニース:メディテラーネー・カジノでグレゴール楽団とデビュー、ここで無声映画時代の名俳優チャールズ・チャプリンと知り合う
1931年3月、ニース:ギター奏者ホセ・マリア・アギラールがガルデルと意見合わずグループを去る。

(*)謎のスコットランド行き(この公演は歴代の伝記には登場していない):
1931年3~4月、スコットランドのエジンバラ、グラスゴー:同行したのは二人ギター奏者のリベロール、バルビエリだけで9箇所の都市を訪問したが、滞在した日付けも公演した劇場の名も宿泊したホテルの名も全然不明である。 
Haddington,Dunbar,Galashiels,Kelso,Maffat,Clovenfards,BowmoreIslay、各地を訪れた。




ガルデル、フランスで映画撮影をするに続く:

2009年12月11日金曜日

(3)ガルデル初めてスペインへ行く:

1923年10~11月、モンテビデオ:ディシオチョ・デ・フリオ劇場、リベーラ‐デ・ロサ劇団と共演した後にスペイン行きが実現する。
1923年11月15日、スペインへ:ホセ・ラサーノ、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリとリベーラ‐デ・ロサ劇団と共に客船アントニオ・デルフィーノに乗船、ブエノス・アイレス出港。この興行は6月に予定されていたが、なかなか実現に扱ぎつけず、ようやくの末に契約を成立させた。

1923年12月10~19日、マドリード:アポロ劇場に前期のメンバー及びリベーラ・デ・ロサス劇団とでデビュー、劇の出し物は 『マラ・レプタシオン、悪相伴(Mala Reputacion)』12月19日マリードの新聞にこの劇とガルデルの公演予告記事が出ている。
当日この劇場には、特別観席には当時のビクトリア女王とイサベル皇女が臨席していた。 公演は大成功を得たが興行契約問題で、ガルデル・グループは劇団と離れ単独行動をとり、独立公演を続ける。 
1924年1月7日、マドリード:アポロ劇場、
1924年、ガルデル一行はフランス、トールゥーズ、パリへ旅を続ける(?)。 
1924年2月13日、ブエノス・アイレス:帰国後レコード録音開始、57テーマの内54曲がガルデルのソロ、二重唱は3曲のみになる。 ガルデル‐ラサーノ二重唱は殆んど終局を迎ええる。この間二重唱で74曲、ラサーノ・ソロで6曲、ガルデル・ソロで224(タンゴを165曲)曲を録音した。フランシスコ・カナロとのレコード吹き込み共演あり。

*ブエノス・アイレス首都圏外南部地方巡業へ:
1924年5月22~25日、①トレス・アロージョ:アメリカーノ・バー映画館、
1924年5月27~29日、③バイア・ブランカ:アストル映画館(Calle Brown 182)
当地でHotel Parisに宿泊する



1924年6月3,4日、③タンディル:セルバンテス劇場
1924年6月5日、コロネル・スアレス:エスパニョール劇場
1924年6月16日、③アスール:エスパニョール劇場、
1924年8月6日、ブエノス・アイレス:ウンベルト・デ・サボージャ皇太子が来訪する、国賓歓迎会理事は儀礼会合の席で興添えさせるために、ガルデル‐ラサーノらを招聘し、彼らのクリオージャ音楽を披露させる。
1924年9月16日、ブエノス・アイレス:スマーッ劇場でブランカ・ポデスタ劇団はコロンビアの小説家ホルへ・イサック氏の作品“ラ・マリア”を演出公演する舞台合間に、ガルデル‐ラサーノらは、昨年録音したばかりのコロンビア民謡を披露した。
1924年9月21日、医学部インターの11回目タンゴ・ダンス・パティー、オスバルド・フレセドが“エル・オンセ”を作曲参加、無残な事故によりこのパティーは終局を迎える。1924年9月30日、ブエノス・アイレス:アルゼンチンでラヂオ放送開局にあたりグラン・ スプレンディー放送局は、ガルデル‐ラサーノの二重唱とホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で彼らのレパートリーを番組に取り入れる。

(*)1925年に入り、ラサーノとの距離は益々あき離れる傾向になり、ガルデル単独でギター奏者と公演する機会が増す。ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリのギター伴奏で年内は74曲録音、オスバルド・フレセド楽団と二曲録音
1925年1月18日、⑤ラ・プラタ:コリセオ・ポデスター劇場でブランカ・ポデスター劇団と共演し、また、スプレンディー映画館にも映画の合間に出演
1925年3月21,22日、カルメン・デ・ラス・フローレス:エスパニョル劇場、
1925年8月17日、ブエノス・アイレス:エドァルド・デ・ウインドソル英国皇太子が観光旅行で亜国を訪問した際、国賓歓迎理事は再びガルデル‐ラサーノらを招聘することにし、8月24日にブエノス・アイレス郊外のウエテルの牧場で英国皇太子の歓迎パーテイーを開催した。
1925年9月24~27日、④コルドバ:パレセ・シアター劇場
1925年9月28日、サン・フランシスコ:モデルノ劇場
1925年9月、ガルデル‐ラサーノ二重唱はラサーノ本人の決断により終局を迎える。

(*)三回目のスペイン行き:益々人気高まる。
1925年10月17日、汽船プリンセサ・マハルダでスペインへ向う、前回と同じエンリケデ ロサ劇団とギター伴奏者はホセ・リカルドだけで、理由不明だがバルビエリは同行せず、興行は10日間の予定が一ヵ月間近くに及ぶ長期興行となる。
1925年11月5日~12月23日、バルセローナ:ゴヤ劇場(Calle Joaquin Costa 68)、
1925年12月19日、バルセローナ:バングアルディア紙にガルデル公演予告記事が載る。
1925年12月20日、バルセローナ:午後にチボリ劇場、夜にゴーヤ劇場出演、
1925年12月~1926年1月、バルセローナ:スペイン・オデオン・レーベルに最初のエレクトロ吹き込みにて22曲のレコード録音をする。


1926年1月1日、バルセローナ:プリンシパル・デ・テラーサ劇場、
1926年1月18日~2月7日、マドリード:ロメア劇場、
1926年2月3~17日、バルセローナ:プリンシパル・ビクトリア劇場、
1926年2月6日、マドリード:インペリアル映画館、
1926年3月23日、客船ビクトリア エウへニア女王でブエノス・アイレスにもどる。
1926年8月5日~19日、ブエノス・アイレス:グラン・スプレンディー、次にエンピレーらの劇場に出演。
1926年9月17~26日、ブエノス・アイレス:フロリダ劇場でロドルフォ・カラベリー楽団と共演
1926年11月5~7日、⑥ラ・プラタ:プリンシペ・ビクトリア劇場、セレクト映画館、
1926年11月8日、ブエノス・アイレス:アルゼンチン・オデオンは革新システムのエレクトロ・レコード録音を始めるに当たって、その役目をガルデルに指名する。まず最初にパソドブレ“プニャディート・デ・サル”を始めに8曲を録音するが、装置の不調で録音は満足な音質(特に高音トーン)を得られず、録音した原盤は放棄された。
1926年11月12~14日、ブエノス・アイレス:ヘネラル・ベルグラーノ劇場、その後、慈善公演、
1926年11月17~22日、④ロサリオ:バリエテー映画館
1926年11月26日、ブエノス・アイレス:エレクトロの不調で決局、元のアコースティク録音を前回の同じ曲から録音開始する。録音された曲は“プニャリート・デ・サル”、タンゴ“ディチャ・パサーダ”など6曲からである。
1926年11月30日、ブエノス・アイレス:エレクトロ・システムの不調が改善され、再び録音開始され、またまた“プニャリート・デ・サル”からスタートしたが、 なんとこの曲を9回も繰り返して歌う事になる。12曲録音した。
1926年12月19日、ブエノス・アイレス:グルクッマンー社はグラン・スプレンディー劇場で第三回目タンゴ・コンクールを開催する、第一位入賞は“パヒナ・デ・アモール”が入選する。マエストロ・フレセド楽団と共に、ガルデルも参加し、コンクールの全ての出題テーマを歌うが、観衆の絶大な声援と要求により、これらのテーマを数回繰り返し歌う。
1927年の活動:レコード録音に専念する、
1927年1月末まで、モンテビデオ:ソリス劇場、
1927年2月3日、オデオン・スタジオ、昨年の11月から開始されたエレクトロ・システムの録音の続き、断続して10月22日までの間で107曲録音する
1927年内のガルデル、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの活動は、益々と歌うタンゴのヒットの連続、オデオン・スタジオでのレコード録音継続の増大、彼らの仕事の日程が詰まり始め、また並行して劇場、映画館での公演が重なる多忙な日々が始まることになる。
1927年の巡業は常連ギター奏者の二人と、まず初めのマール・デル・プラタから、、、
1927年3月17日、④マール・デル・プラタ:パレセ・シャアター劇場
1927年4月、モンテビデオ:ソリス劇場、
1927年5月5日、ブエノス・アイレス:ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリのギター伴奏でレコード録音、“ノチェ・フリア”から。(レコード・リスト編参照)
1927年5月6日、③サンタ・フエ:ベルグラーノ劇場
1927年6月中、ブエノス・アイレス:コミコ劇場、共演のイグナシオ・コルシーニは“ファチャトスタ”を披露する。
1927年6月22日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、“イスラ・デ・フローレス(花々島)”18221B番を吹き込み(アルトゥーロ・セサール・セネス作曲、ラモン・マチャード作詞、マチャードはタクアレンボー生まれだがガルデルとは認識がなかつた、作曲者セネスはピアニストでバルビエリの友人、ソリス劇場でガルデルの前でこの曲を披露したとか?)。初めこの曲はコルシーニがオデオンで吹き込みする予定だったのを、このニュースをラサーノが知り、この曲はガルデルに歌わせるべきとオデオンに交渉して、決局、ガルデルが吹き込むことになる。ラサーノが拘った理由は、この曲のテーマはガルデルが幼年期に過ごしたモンテビデオ旧市街の状況をずばり表現したテーマだからだ。
1927年8月、ブエノス・アイレス:アストラル劇場、
1927年9月2~11日、⑤ロサリオ:バリエティー映画館
1927年9月14~18日、⑤コルドバ:パレセ・テアトレー劇場
1927年9月27日~10月2日、⑦ラ・プラタ:セレクト映画館
1927年10月13~23日、ブエノス・アイレス:アストラル劇場


(*)スペイン興行とスペイン・オデオンでレコード録音:
1927年10月26日、スペインへギター奏者ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの二人のギター奏者だけで客船コンテ・ベルデで巡業へ出発
1927年11月23~27日、バルセローナ:プリンシパル・パレセー劇場(現在の名はプリンシパル劇場 (Las Ramblas de Cataluna 27)、ホセ・リカルドとギジェルモ・バルビエリのギター二重奏でデビュー、
1927年12月16日、バルセローナ:オデオン・スペインで20曲のレコード録音、”クアンド・ボルベラス(君、何時帰る?)“18232Bから“パト(アヒル)”200065番まで、
1927年12月5~29日、マドリード:ロメア劇場、
1927年12月27日、バルセローナ:オデオン・スタジオで“ラ・クンパルシータ
Si Supiera(シ・スピエラ)”18231Aを吹き込む、
1927年12月31日~1928年新年にかけて、マドリード:フランシスコ・カナロとメゾン・セビジャーノに出演、その後一ヶ月間に亘りマドリーに滞在。その後、バルセローナに戻りラジオ放送出演、
1928年1月13日~2月1日(午後と夜の二回公演)、バルセローナ:バルセローナ劇場(この劇場は現存するが天井が降解する可能性ため建物は封鎖された)。
1928年1月15日4PM、バルセローナ:コミコ劇場
1928月2月8~13日、ビルバオ:シャン・ゼリーゼ劇場、
1928月2月15~19日、サン・セバスティアン:プリンシペ劇場、
1928年2月23~25日、サンタンデール:グラン・シネマ劇場、
1928年3月8日、バルセローナ:インパシアル紙の記事、『今夜9時、アルゼンチン・タンゴ歌手カルロス・ガルデルの送別晩餐会レストラン・ロイアル、入場券一人20ペセタ』とある。
1928年6月14日、ブエノス・アイレス:帰国



ガルデル、フランスにデビュー:

2009年12月5日土曜日

(2)ガルデルの活躍により歌唱タンゴの幕開け:

ガルデル、本格的歌唱タンゴを唄う:
ビジャルビ、デナバ、ホセ・ベティノティー、ガビーノ・エセイサらのパジャドール時代から初期のタンゴ界にはアンヘル・ビジョルド、アフレッド・ゴビと其の夫人フローラ・ロドリゲス、ペポ・マジョーリ、等のタンゴを唄う面々が存在していたが、本格的にタンゴ歌唱のスタイルを確立するのはガルデルの登場を待たねばならいのである。 

1917年のガルデルの活動はオデオン・レーベルのレコード吹き込み、モンテビデオでの劇場出演、初めて無声映画に出演、チリー行きなど、『この年にヘラルド・マトス・ロドリゲスが20歳の時に、ラ・クンパルシータの原型であるラ・コンパルサ”を発表する』。
1917年1月1~5日(3日)、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場で歌唱タンゴ”ミ・ノーチェ・トリステ”がガルデルによって唄われる。
1917年1月8日、ブエノス・アイレス:オペラ劇場。
1917年1月11日~2月17日、モンテビデオ:ウルキサ劇場出演。
1917年2月7日、ガレリア・グメスに出演。
1917年3月1~7日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場。
1917年3月8日、ブエノス・アイレス:マジョ劇場出演。
1917年3月24日、モンテビデオ:エンピレー劇場。
1917年4月9日、ブエノス・アイレス:ガルデル‐ラサーノ二重唱はマクス・グルックマンー社より“ナシオナル‐オデオン”、“クリオージョ‐オデオン”、“ガルデル‐ラサーノ”レーベルらのレコード録音を開始する。最初のレコードは“Cantar Eterno(カンタール・エテルノ)”アンへル・ビジョルド作、レコード番号は18000Aである。そして、最初の歌唱タンゴとされる“Mi Noche Triste(ミ・ノチェ・トリテ)”18010Bの録音も含む。その上、“ナショナル”レーベル・レコード録音も開始する。
(注):後編で“ミ・ノーチェ・トリステ”を詳しく解説する。
1917年4月19日、モンテビデオ:“カフェ・ジラルダ”でロベルト・フィルポにより初めて“ラ・クンパルシータ”が演奏される。
1917年4月27日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場。
ガルデル、初めての映画撮影:1917年5~8月、ブエノス・アイレス:パトリア・フィルム社制作、グスタボ・マルティネス作、フランシスコ・デフリピス監督による無声映画“Flor de Durazuno(桃の花)”の撮影に入る。撮影地はコルドバ、ビジャ・ドロレースとブエノス・アイレスで行われた。ガルデルの役は伊達男、ところが彼は当時100kg近くの体重を持て余していて、この伊達男役が様にならなかったらしい。女優イルダ・ピロバーノ、シルビア・パロディー、アルへンチ-ノ・ゴメス、ぺピート・ぺトライ、と共演した。
1917年5月10日、ブエノス・アイレス:マルコーニ劇場出演。
1917年5月11~17日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場出演。
1917年7月30日、ブエノス・アイレス:アベニーダ劇場出演。
1917年7月31日~9月3日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場出演。

*初めての国外興行、チリー行き:
1917年9月25日~11月初め、ラサーノとギター奏者ホセ・リカルドと共にアンデス山脈を越えて隣国、チリーへ行く。地元の新聞記事には次のレパートリが紹介された、“カンタール・エテルノ”、“エントレ・コローレス”、“アマルグーラ”、“エル・ガト“、“ラ・パストーラ”など。
1917年9日25日、サンティアゴ:メディア劇場出演、
1917年9月26日、バルバライソ:コロン劇場、
1917年9月27日、バルパライソ:報道関係者への私的公演、



1917年9月29日~10月3日、バルバライソ:コロン劇場、民謡歌手ロクサーナとタンゴダンスを披露し、ホセ・ロサーノを交えて三人で民謡を歌う、1917年10月5~12日、ビニャ・デル・マール:オリンポ劇場、
1917年10月16日、サンティアゴ:ロイアル劇場(Huerfano 1044)、コメディア劇場、旧メンバーのサウル・サリーナのレパートリー(クエッカ、チリー民謡)がヒットする、
1917年11月7日~12日、サンティアゴ:ロイアル劇場、フェリクス・スコラティ・アルメイダ楽団、歌手パキータ・エスクリバーノ、民謡歌手ロクサーナらと共演、
1917年11月16日、ブエノス・アイレス:マクッス・グルックスマーン商会スタジオで歌唱タンゴ初めての“ミ・ノチェ・トリステ”を吹き込み録音をする。レコード番号18010B。
1917年11月21~23日、①メンドサ:センテナリオ映画館
1917年11月24~26日、②サン・フアン:ビオグラフホ・デ・サンフアン劇場、
1917年11月30日~12月2日、③ロサリオ:ホセ・ラサーノ、ギター伴奏ホセ・リカルドとオペラ劇場に出演、
1917年12月日付け不明、②サン・ニコラス:ホセ・ラサーノ、ギター伴奏ホセ・リカルド
1918年1月、ブエノス・アイレス:レコード“ミ・ノチェ・トリステ”18010Bが発売される。



1918年1月5~21日、モンテビデオ:各劇場、パルケ・プラジャ・ラミーレス・ホテル(Hotel Parque Playa Ramirez)に宿泊。
1918年1月末、ブエノス・アイレス:各劇場
Spレコード:ガルデル作曲“エル・モーロ”
ガルデルの名前が書いてないが、フィルポの
オルケスタとガルデルの歌:


1918年4月、マクッス・グルックスマンー・レコード会社のガルデルの録音したレコード販売促進広報のため、地方巡業にホセ・ラサーノとの二重唱、ギター奏者ホセ・リカルドらとロベルト・フィルポ楽団(若きペドロ・マフィアが参加)ら共に出かける。
1918年4月2日、②コルドバ:、セレクト・ビオグラフホ劇場
1918年4月4~7日、②コルドバ:パレセ・シャアター劇場、
1918年4月10日~6月末、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場、
1918年9月6~10日、②バイア・ブランカ:ムニシパル劇場、
1918年9月12日、①タンディル:アメリカーノ・バー
1918年9月18日、①プンタ・アルタ:パラシオ映画館
1918年9月21~27日、①トレス・アロージョス:アメリカーノ映画館、
パリス・ホテル(Nueve de Julio y Veintecinco de Mayo)に宿泊する。
1918年10月3~7日、ネコチア:パリス映画劇場
1918年10月21日、①オラバリア:ペローネ映画館
1918年10月24~27日、①アスール:エスパニョール劇場、
1918年11月6日、②ヘネラル・ピコ:
1919年2月初め、モンテビデオ:カタルニャー劇場出演、
1919年3月当初、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場、その他、
1919年4月4~7日、パイサンデゥー(ウルグァイ):ディシオチョ・デ・フリオ劇場、
1919年4月11~14日、グアレグアィチュ(エントレ・リオ):同名の劇場
1919年4月15日、コンコルディア:オデオン劇場、
1919年5月9~12日、①ツクマン:サロン・エスメラルダ出演
1919年5月16~18日、②サンティアゴ・デ・エステーロ:ペティト・パライス劇場、
1919年5月19~25日、③コルドバ:パレセ・シャアター劇場、
1919年6月、②マール・デル・プラタ:オデオン劇場
1919年7月2日、②ツクマン:サロン・エスメラルダ
1919年7月~11月、ブエノス・アイレス:ホセ・ラサーノとホセ・リカルドのギター伴奏でエスメラルダ劇場を初め多数の映画館に当時の習慣で無声映画の合間に歌う。
1919年8月16~22日~9月3日、③ツクマン:サロン・エスメラルダ出演

(*)1919年10月~1921年5月末、ブエノス・アイレス:ホセ・ラサーノとの二重唱、ホセ・リカルドのギター伴奏とアルゼンチン・オデオン・スタジオでレコード録音開始、バンブーコ“ミス・ペロース”18012A番から45曲余り録音した
1919年11月3日、④ツクマン:ホセ・ラサーノと二重唱、ホセ・リカルドのギター伴奏でエスメラルダ劇場
1921年6月25,26日、②フニン:サロン・ビクトル・ウーゴに出演、
1921年、月日不明、②サンタ・フエ:当時、ガルデルの歌を目の当たりにしたという、バイオリン奏者のアルベルト・タオラジーの証言から、
1921年8月30日、①ヌエベ・デ・フリオ:ロシーニ劇場
1921年10月、ブエノス・アイレス:エンピレー、エスメラルダ劇場、
1921年11月26日、モンテビデオ:エスメラルダ劇場、

1921年12月6~18日、モンテビデオ:アルティガ劇場、
1922年~1924年、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で“ZORROGRIS”レコード番号18035Aから録音再開、100曲あまり録音した。
1922年4月4日、ベインテシンコ・デ・マジョ:エスパニュール劇場、
1922年4月、トレス・アロージョス:パリ・ホテルに宿泊、
1922年4月15,16日、②アスール:エスパニョール劇場
1922年6月30日~8月15日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場
1922年8月29日~9月13日、ブエノス・アイレス:マイプー劇場、
1922年9月16日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場にて初めてイグナシオ・コルシーニと共演、
1922年9月29日、③マール・デル・プラタ:オデオン劇場
1922年10月12~15日、⑤ラ・プラタ:イデアル劇場、
1922年11月19~22日、③ロサリオ:バリエテー映画館、
1922年12月1,2日、②タンディル:ウニオネ・イタリオーネ映画館
1922年終了にあたりホセ・ラサーノは喉の病でガルデルとの共演が少なくなる。
1923年、モンテビデオ:各劇場
1923年5月16日、ブエノス・アイレス:アベジャネーダのローカ劇場を始め、各映画館で映画と混同公演、マジェスティク、フロリダ、エンピエーリ劇場
1923年6月、③ヘネラル・ピコ:?













*ガルデル初めてスペインへに続く



2009年12月1日火曜日

ガルデルの芸能活動ー1:(1)ガルデル少年,パジャドールと共に

ガルデルは少年時代にパジャドールに影響を受けた歌唱スタイルを身につけて、いよいよ本格的にタンゴの世界に登場するのです。


1900年:ガルデル少年(16歳)は出生地タクアンレンボー近辺をうろつき、果てはタンボーレス、パソ・デ・ロス・トーロスまで行きやがてタクアレンボー郡のベニグノ・ゴジェ氏経営のエスパニョール・ホテルで料理助手として働き始める。ここで幸運にもそこに住んでいたパジャドール・ルイス・ビジャルビにウルグアイ地方固有の“エスティーロ”や“ビダレス”の歌とギター奏法の手ほどきを授けられる。ビジャルビはウルグアイ詩人エリアス・レグレス郷土協会の伝説的創立者であり、又元租的パジ  ャドールでもある。彼は事ある毎にガルデル少年を地元の政治会合やその他の集会に連れて行き、歌う機会を提供したのである。その後ガルデル少年はモンテビデオに出て、リオ・ブランコとコンベンシオン通りの交差するイスラ・デ・フローレス通り(カルロス・ガルデル通り)のコンベンティジョ(古いイタリー固有の住宅)に落ち着く。昼間は建築現場で壁塗り労働をこなし、夜は近辺のカフェーで歌う生活を負う内に、ここでパジャドール達のアルトゥーロ・デナバ、ホセ・ベティノティ-らに知り合う。
1902~3年:ガルデル少年(18~9歳)“モローチョ・デ・アバスト”と綽名される。ヴィクトリア、アポロ、エル・コリセオ、エル・ポリテアマ劇場の楽屋道具方や拍手喝采する“さくら役”を務めている頃にオペラ劇場でイタリーから初めてブエノス・アイレスに公演に来たオペラ歌手ティタ・ルフォに知り合い、彼からオペラ歌唱法の初歩の手ほどき受ける。また、アバスト街のトラベルソ家のカフェ・オロンデマンに姿を現すようになり、毎晩のように何かしかの歌を唄い、其の代償に夕食をとる約束を取り付けていたが、やがて、ボーカ地区でアルトゥーロ・デナバ、ホセ・ベティノティーらのパジャドール達に再会する。彼等と共に頻繁に政治会合の夜会にギターを抱えて歌う姿が見られる様になる。
1904年5月、社会主義者アルフレッド・パラシオスの勝利の際にボーカ地区のジノ・ガリバルディーの店にホセ・ベティノティーとアンブロシオ・リオスに伴われ、ピアノ奏者アルフレッド・ベビラカも合流して会合を盛り上げた。前年、トラベルソ家の息子アグスティンが殺人事件を引き起こし、ほどほど仮釈放された機会に彼をモンテビデオからタクアレンボーにある叔母のエロディーナの農園に連れて行き、従姉妹アマンダ、マヌエラらを紹介している。ガルデル自身はとんぼ帰りにブエノスに戻るが、間もなくウルグアイはアパレシオ・サラビア左翼団体により革命暴動の政治混乱に巻き込まれる。
1905~7年:ガルデル出生の秘密の後期で述べたように、彼はウスワイアの刑務所で2年間ほど牢獄生活を負う。

1908~10年:刑務所を釈放された後はモンテビデオ、タクアレンボー、パイサンデゥー(叔母の経営するカフェーで唄う)に出没するが、この時期のガルデルの行動は謎の霧に包まれたままである。
1911年(27歳)ホセ・ラサーノとの出会い:ガルデルはアバスト街のそこの持ち主で地元の政治ボス、トラベルソ兄弟の一人のコンスタンティノはある日、政治会合の席にガルデルを連れて行く。そこにはパジャドールの面々が居揃う中で、その一人旧知のホセ・ベティノティーからギターを渡され、彼の持ち曲“Mi Madre Querida(ミ・マドレ・ケリーダ)”を披露したら、満場の喝采を受けた。そのころホセ・ラサーノは既に南バルバネ―ラ街(アバストより少し洒落ては居たが、何れも同じ様な貧しい街)のCafé del Pelado(カフェ・デル・ぺラード)で民謡を歌い活躍し、人気を得ていたが、ガルデル人気の噂をそれとなく聞きこみ、友人ルイス・ペジセールにガルデルとの出会いの場の機会を頼む。そこで、ペジセールはガルデルにラサーノとの歌合戦を仕組み、その場所を提供したのが、ピアノ奏ひきのジエーナと言う人だったわけだ。その後、エンリケ・ファルビオの家でラサーノに再会する。
“カサ・スイサ”の慈善興行でラサーノと再会の末に合同し、マルティーノとの三重唱を始める。ホセ・ラサーノは直ぐにこのトリオを抜け出してしまう。

1913年初め:ガルデル、マルティーノは二人で開通したばかりの鉄道を使い、パンパを西へ150kmのチリビコイから500kmの行程をパンパのど真ん中に位置するヘネラル・ピコまで三ヶ月かかりの巡業に出るが、技巧も無い初歩的なグループであつたため完全に失敗に終わる。やがて、サウル・サリーナ(チリー人でクージョ地方の歌い手)に知り合い、カルロス・ガルデル、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノ、サウル・サリーナらでクァルテート(実際はデゥオの二組)を組んで、首都ブエノス・アイレスから西へ50kmのサラテのカーニバルにデビユーするが、ここでも興行は完全な失敗となり、それでも巡業はパラナー川沿をラス・パルマ、①サン・ペドロまで行くが、ここでサリーナが脱落、グループを脱退する。 
1913年6月頃から、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノとの三人で巡業を続けて行き、7月11日、モレーノ:①へネラル・ピコ:①サン・ニコラス・デ・ロス・アロージョス(パラナ川畔、ロサリオから50kmほど首都より):①ペルガミ‐ノ(200km)と続き、


8月10~13日、ロハス:ソシアル・クラブ、プログレッソ・クラブ(新聞の来訪記事にはガルデスとある)、8月18日、①フニン(ペルガミーノから西南75km):クリスタル・パラセ映画劇場に出演、8月27~29日、①メルセデス:コンフェテリア・サン・マルティン(Calle 26 y Esquina 25)、①チャカブコ~①アルベルティ~①ブラガード、の各地に至り、9月18日、①バイア・ブランカ:ソベス,カルロス映画館に出演、ヘネラル・ビアモンテ:Cuarenta y Tres(43)映画館と続き、そこでマルティーノが病気になり首都ブエノスに戻る破目になる。

ホセ・ラサーノと二重唱の始まり:
決局はまたまたホセ・ラサーノとの二重唱に舞い戻りとなる。今までの巡業で歌ってきたレパートリーは数も増えて、クリ―オジャ、エスティーロ、シフラ、バルス、そして、作曲家であるマルティーノ、サリーナ(クエッカ、トナーダ)クリスティーノ・タピア(サンバ、チャカレーラ)らから習得した収穫は多く、よりいつそう歌法に富さを増して行く。 
1913年11月6日(別のデータによると1912年8月13日):ガルデル‐ラサーノ二重唱およびギター伴奏は彼ら自身により、タジーニ商会にコルンビア(アトランタ)・レーベルによる、初めてのレコード吹き込み(機械式アコースティク録音)をする。1:Sos Mi Trador Pratiao(estilo),2:Yo Se Hacer(cifla),3:La Mananita(estilo),4:曲名不明、5:A Mi Madre(estilo).6:Me Dejaste(estilo),7:Mi china Caburera(estilo),8:El Sueno(estilo),9:Pobre Flor(estilo),10:La Mariposa(estilo),11:Es En Vano(cancion),12:Brisas De La Tarde(cancion),13:El Almohadon(vals),14:A Mitre(vals)15:Mi Madre Querida(vidalita),全15曲。7枚のSp盤で発売される。

1913年12月28日:フランシスコ・タウロに“マダム・ジェネネッティー(怪しい家)の家でのパーティーに招待され、この集まりは年をあけて新年1日の朝まで続き、其の時に俳優パプロ・ポデスターに知り合う。その彼にナショナル劇場の出演を一日70ペソ(ガルデルはこの報酬が週か月払いとかと思い一日分と知りビクツリ仰天)の報酬で約束される。

1914年1月8日にガルデルとラサーノはキャバレーArmenonville(アルメノンビリャ)に出現する。そこにはロベルト・フィルポ、エドゥアルド・アローラス、ティト・ロカッタグリァタと当時の怱々たるタンゴ楽団のマエストロらに巡り会う。




1914年1月9日、ブエノス・アイレス:ナショナル劇場でホセ・ラサーノとの二重唱でフランシスコ・ドゥカーセ、エリアス・アリピー劇団に共演。
1914年3月、日付け不明、ブエノス・アイレス:アポロ劇場、アルセニオ・ペルディゲーロ,ロベルト・カサゥクス劇団と共演、“Café de los Angelitos”に頻繁に出没する。
1914年6月日付け不明、①ロサリオ:コロン劇場、ホセ・ラサーノとエンリケ・アレジャノ、パンチート・アラナス劇団と共演
1914年7月11日~8月3日、①コルドバ:ノベダー劇場でホセ・ラサーノとビトネ‐ポマール劇団と共演
1914年8月日付け不明、①サンタ・フエ:チャルマン劇場
1914年9月4日、①ロサリオ:グラン・カフェ・ボルサに出演
1914年9月21日、ブエノス・アイレス:タンゴ“インテルナード”で有名になった、医学生イーンタン達の第1回目のダンス・パティーが始まる。 このパティーは毎年9月21日に行われ、11回目まで続く(有名タンゴ楽団、歌手の作曲参加、後年当然ガルデルも関係した)。
1914年10月15日、ブエノス・アイレス:オルフィリア・リコ‐フアン・マンジアンテ劇団とモデルノ劇場(現在リセオ劇場、1872年に落成Rivadavia 1495 Bs,As)
1914年10月、日付け不明、ブエノス・アイレス:グラン・スプレンディー劇場出演、

1915年の活動:ホセ・ラサーノとの二重唱、“ナショナル”レーベル・レコードの吹き込み録音の続きと地方巡業の後、ブラジルへ初の国外巡業へ、
1915年1月7日、①ラ・プラタ:デル・ラーゴ劇場、
1915年6月、①サン・フアン:サルタ、フフイ
1915年6月10日、①サンティアゴ・デ・エステーロ:ぺティト・パライス劇場、から

1915年6月15日、モンテビデオ:キャバレー・ローヤル(Bartolome Mitre y Reconquista)でデビユー、友人マヌエル・バルカがガルデル‐ロサーノをローヤル・キャバレーの経営者のビスコンティ・ロマーノに紹介し、ローヤル・キャバレーに彼等の出演が実現する
1915年6月17日、モンテビデオ:ローヤル劇場、ラサーノとの二重唱で“ラ・パストーラ(サリーナ作)”、“エル・パンガレ”、“アイ、アイ、アイ”初め数曲歌う
同日夜、“ディシオチョ・デ・フリオ”劇場でエンリケ・アレジャーノ主演劇団と共演
モンテビデオでリオ・プラテンセ・ドラマティク楽団と合同し、ブラジル行き興行を決行する。
1915年8月15日、客船インファンテでブラジルに向う、船内でオペラ・テノール歌手エリコ・カルーソに知り合う、
1915年8月25日~9月14日、サン・パウロ:ムニシパル劇場、(9月4日、コンセルバトリ・オムシカルにも出演)
1915年9月14日~19日、サン・パウロ:パレセ・シャアター劇場
1915年9月24~29日、リオ・デ・ジャネイロ:ムニシパル劇場、観衆多く入らず、あまりヒットしなかつた。(この時期まではガルデル、ロサーノ自身がギター伴奏をも受け持っていたらしい)
1915年10月23日、ブエノス・アイレスに戻る、サン・マルチン劇場でフアン・モレイ劇団と共演。
1915年11月9日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場でホセ・ゴンザレス・カスティージョ、エリアス・アリピッ監督の興行"FUAN MOREIRA(フアン・モレイア)”劇団と共演、ホセ・リカルド、オラシオ・ペトロッシの二人が指揮いる20人のギター伴奏でガルデル‐ラサーノは歌う、彼らはホセ・リカルド、オラシオ・ペトロッシらの技巧に感嘆し、ホセ・リカルドを伴奏者に誘う(鼻髭を落して貰う条件で)。
1915年12月11日、ブエノス・アイレス:パレード・グラス(シャンパンとタンゴで有名な場所)公演のあと、友人エリアス・アリピィとカルロス・モルゴンティらと馬車でアルベアール大通からパレルモへ向う途中、跡を付けて来た3台の馬車うちの一人、ロベルト・ゲバラ(チェ・ゲバラの祖先とされる人物)が『もう二度と歌わせないぞ!』と叫びながら、いきなりガルデルの背後から発砲し、ガルデルは背中に銃弾を受け負傷する。傷の手当てをした医師は肺の近くに進入した銃弾を適出せずに放置したために、(後年のメデジンで飛行機墜落事故の遺体からこの時の銃弾が発見された)機内で誰かに打たれたと誤報報道された。傷の治療にウルグァイ、タクアレンボーの農園に退き込む。 

1916年の活動:ホセ・ラサーノとの二重唱でホセ・リカルドをギター伴奏に迎えブエノス・アイレス及び近郊とモンテビデオでの公演。
1916年1月、日付け不明、モンテビデオ:ポリテアマ劇場に出演、ラナタ・ホテル、セルバンテス・ホテルに宿泊、レストランMorini y Stradella(モリニ・イ・ストラデーラ、モンテビデオの中心地にあり、今でも営業している?)によく通う。
1916年1月25~30日、②ラ・プラタ:、オリンポ劇場、
1916年2月10~24日、①マール・デル・プラタ:、オデオン劇場とマルコーニ劇場で女優オルフィリア・リコ、トナディジェーラ・テレシータ・ササ及びパストーラ・インペリー・ダンサーらと共演、
1916年2月1~6日、③ラ・プラタ:デル・ラーゴ劇場、
1916年5月、ブエノス・アイレス:ムィニョ-アリピィー劇団と共演
1916年6月、モンテビデオ:ムーラン・ルージェ・キャバレー(Cabaret Moulin Rouge)でパスクアル・コントゥルシ(1910年ごろからギター弾き歌いで活躍していた)がガルデルの前で“リタ(サムエル・カストリオタ作)”を披露する。ガルデルは後日エンピレー劇場(?)で、この詩を“ミ・ノーチェ・トリステ(Mi Noche Triste)”としてサムエル・カストリオタの曲を歌う。最初の本格的歌唱タンゴとしてレコード番号18010Bで吹き込み、二回目(出だし歌詞が違う)は‘30年4月24日、レコード番号18812Aで吹き込みされている。
1916年8月、ブエノス・アイレス:同劇団とヌエバ劇場に
1916年7月19~27日、②ロサリオ:パレセ・シャアター劇場、
1916年10月、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場(現在の名前はマイポー)
1916年12月2~4日、④ラ・プラタ:、オリンポ劇場
1916年12月、モンテビデオ:ロへリオ・フアレス、ロラ・メンプリペス主演俳優のサルスエラ劇と共演でウルキサ劇場に出演。



ガルデル、タンゴを唄うに続く。