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2012年2月21日火曜日

ガルデルは生きていた!(3)




前章の「クロモ誌」の記者とフリィンの証言による“ガルデル生存説”を読み,スクラップしてあった古い新聞のコラム記事を思い出した。それにはメデジンに最近まで存在したグアジャキル街の「バー・アバスト」に現われた「謎の男」の物語の記事が載っていた。あの街区は小生が訪れた時期(1985年頃)は密輸入品マーケットが密集した混沌とした場所で夜になると周辺の数件のバーに火が灯り何処からともなくタンゴが響き流れてくるが...しかし,そこは場末の犯罪巣窟の様な不気味な分意気さえ感じられた。そこの一角の半地下に「バー・アバスト」はあった。そこの店は決して高級な店構えでは無く,誰でも気楽に入れそうだった。ここは常時タンゴ(主にガルデルのテーマ)が歌われ演奏の実演ショーが売り物であると聞いていた。店内は極質素な椅子とテーブルにビールや地酒のアグアディエンテにほろ酔い加減の労働者風の人物達がジュークボックスから流れるタンゴを聴きもしないで大声でサッカーの話題に夢中になっていた。連れてきてくれた人には悪く思ったが,小生はショーが中々始まらないので落ち着けず,そこを逃げ出したい気持ちを我慢するのに苦労した記憶がある。ではこの新聞のコラム記事を読んでみると...『物語は40年代半ば頃。この“バー”に帽子を深めに被りレインコートの襟を立て顔面を隠し気味にした孤独な沈黙な男が“この場所”へ頻繁に出入りしていた。この男は一人でバーの薄暗い角の隅に座るのが常で,聞こえてくるタンゴに酔い気味なのか,それとも何か深い思索に没頭する様子だった。酔っ払い客の争いや騒動がしばしば起こるにも関わらず,かの男は冷静に振舞い。その上,奇怪な事に客の誰もが挑発を挑むどころか言葉も交わそうとしなかった。ある夜...彼は突然タイミング悪く椅子を立ち地酒のボトルが置かれたテーブルを後にすると,たった今アントキヤ地方の民謡トリオのメンバーが引き上げたステージに向かったと思うとギターの即興演奏をしながらマイクに向かい郷愁を誘う“ボルベール”を一気に歌い上げた。店内の騒動や喧騒は一瞬ミサ礼拝の如く静寂に包まれる。酔いに醒めた客の皆は謎の男の見事な歌いぶりに唖然している間にステージにはすでに男の影も見当たらなかった。その姿はカルロス・ガルデルの容貌に余りにも似ているだけでなく,独特の声に気を揉ませるほど似せる能力だと,そこに居合わせた全員が一致して指摘した。タンゴに精通した人々はその夜の独特の“比類の無い声”は単なる物真似ではなく,真に迫る本物に違いないと断言した。正確に示すと,あそこで彼の姿を見届けたのは「1945年6月24日」の夜が最後だった。そしてエル・アバストのオーナーもスタッフ達すら謎の男が誰であったか名前も何処から来たかも知らなかった。忘れられない夜更けにあのテーマ“ボルベール”を紛れも無くガルデルの“その物ずばりの演唱”で居合わせた全ての観衆を驚かせた人物。とわいえ,ありきたりの感動を誰が必要としたか。かの男は単に10年目の年忌を自分自身で祝った幽霊だった。』とコラムの著者ダビー・ヒメネス氏はこの事件の様子を生々しく書いているが,彼はカルデルが“ラ・プラジャ飛行場”の事故から奇跡的に生存した事実を知らなかったと思われる。ミスターフリィンが報告した様にガルデルは生きていたのだ!!...そして,週刊誌「クロモ」の記者達が突き止めたエル・レティーロのフィンカから誰からも咎められる事無く秘かに度々“エル・アバスト”に現れていたのだ...事故後,彼は唯一の機会に極少ないフアンの前で歌ったのである。そうだ,彼ガルデルは自分の“偽りの死”から“エル・マゴ(魔法使い)”の本領を発揮して生存を果たした10年目(60歳)を確認したい為に敢えて人前に現われたのだ。しかしながら,ガルデルのその後の消息を知る手段は無い。それは余りにも時が過ぎたから...

注記:エル・エスペクタドール(1994年9月11日)の記事を参考にした。

2012年2月20日月曜日

ガルデルは生きていた!(2 )




あの時のメデジンの事故に戻るが,ギター奏者ホセ・マリア・アギラールとガルデルのマネージャーのスペイン人ホセ・プラハ,それにSACO航空の運行担当者アメリカ人グランッ・フリィン(*)等の3人が生存していた。グランッ・フリィンだけが一人行方を晦ましたと言うストーリーでした。しかし,このフリィンは行方を晦ましてはいなかった。ではたった一人の無傷生存の彼はその時どんな行動をしていたのか?...そして,フリィンが80歳近くになった老後(あの時から50年後)に北アメリカのネブラスカ州で突然Sky Corp.Ed.,から”Zorzal’s True”なる本を出版した(1985年頃)。この恐ろしい暴露記事の本を小生ロンドーニョに提供してくれたのは週刊誌「クロモ」の記者で,内容は「アントケーニョ東部地方(**)にガルデルは隠れ生きていた」と言う信じられない暴露を書いている。当然ながら北アメリカではガルデルはアイドルでは無かったので,この本は当然話題にも反響も得る事はできなかった。ではその内容はいかに...フリィン自身危機一髪の際どいところでF-31機から飛び降り無傷で生存したが...その話はしごく簡単な事。とはいえ,それは世にも信じられない発見事。ミスター・フリィンの行動は週刊誌「クロモ」の記者達より素早かったが,世に暴露されたのが遅すぎた。

「フリィンもガルデルを見つけていた!!!」あの地獄から生存していた!彼は顔を酷く火傷していたが命を取りとめ救出された。そして,市内のあるクリニックに救急車で運ばれ入院した。退院後フアン達の前に決してその傷跡で現われる事は無かった。ミスターフリィンがこの一枷的困難な出来事をどの様に処理したのか?...彼はフオードF-31機が待機のマニサーレス号の上に墜落する寸前に危機一発の瞬間に飛び降りた。

そして,「その真実は」:彼はこの決定的瞬間をこう述べる//俺は火炎の真只中からレ・ペラを救出しようと試みたが...F-31機が爆発した後で当然な混乱があり,俺は機から飛びのけ降りた。しかし,恐怖の叫びを聞くと再び突進したが客室の中でレ・ペラが押しつぶされて助け嘆願を見届けたので心深くぞっとした。助けようと試みたが,彼の髪の毛と睫毛は炎が付き,挙句の果てに俺の洋服に火がつき始めた。そこでガルデルの姿を機内の中に一瞬注意深く捜し掛かった。しかし,ほんの少し前までレ・ペラとおしゃべりしていた筈だったが,何処にも見届けられない。あぁ,彼は助かったと安心して機から離れるとサイレンを鳴らさない救急車が全速力で滑走路を離れ退くのが見えた。救急車には誰を運んでいった?...この質問は誰も応えられない50年間の謎。この窒息しそうな秘密にはもう我慢できない(65ページより)。

「誰もが事を隠そうとする」:フリィンは苦悶の物語をこう続ける//痛ましい出来事の3日後に驚きから回復して,すでに隠されたソルサルの奪回に報えられなかった悔しさに涙ぐみ。遺体検証の指揮した医師のアントニオ・ホセ・オスピーナ氏に救急車が現れた事と機内にガルデルの姿が無かった事について厚かましく尋ねてみた。ドクターオスピーナは顔を赤面して訳の分からない言葉を口ごもり,それを俺は彼の言い訳と理解した。しかしながら,オスピーナ医師は何も知らない事は間違いないだろうと見えた。しかし,彼の動揺は俺に疑問の種を芽生えさせた。翌日,悲しい事件の同じ日の午後には無かった物品が不信にも現われた後で,ジャーナリストにガルデルの証明書や宝石類を展示されていた。俺の好奇心は市内のクリニックを捜索する決心を促した。なにびとも不幸な怪我人を入院させたとは認め様とはしなかった。勿論,あの怪しいクリニックの証言には満足しなかった。そこで,そこの隣人に助けを求める事にしたが首尾は上々の結果となる。ソルサルはパラセー通りのドクター・ソラーノの私設診療所へ入院した事実を突き止めたが,尋ねに行けば当然門前払いは承知の上。と言う訳でそのクリニックの目の前に部屋を借りる事で解決した。そこでモローチョの出入りを常時休み無く監視する。しかしながらボリビア通り(ボリバールの間違い)側の裏口から出入りすれば取り逃がしてしまうのは当前だ。そして,態屈な3日過ぎたところ奇怪な黒メガネの美貌貴婦人(***)がそこから現われ歩道で林檎とブドウを買い込んでいった。その女性は紛れも無くF-31機が滑走路に入る寸前にガルデルに愛に溢れ美しき瞳を向けながら別れの投げキスを送っていたあの黒装の貴婦人に違いない事に気が付く。俺の髭は伸び放題と監視に疲れ果てて,俺の不眠はソルサルの出し抜けな出現により褒美を受ける。それは6日目の明け方の事。診療所の前に一台の車が横づけされたので俺は監視にフラッシュを取り除いた望遠レンズ付のカメラを用意据付した。ASAS400フイルムを装着してクリック!! この瞬間,あえて見せられる写真の盗み撮りに成功。すべて矢継ぎ早に車は行く先不明の場所へと高速で走り去った。(68と69ページ)
「あぁ,全く退屈だ...ここを立ち退くとするか」//グランッ・フリィンの本は4ヶ月以上に及んだ疲れと虚しい捜索の細部に渉って詳しく綴っている。この様にして調査は終結した:調査を満たせられない退屈に疲れ果て,貴重な秘密情報を所持しながら暴露出来ない。その理由は未完であり,涙を流した泣きべそ的内容は無駄になった。俺は真実を墓穴に理葬してコロンビアに置いて行く事にした。挙句の果てにネブラスカの子供達からの帰れとの催促。(208ページ)

そして,ミスター・フリィンは4ヶ月を費やした捜索を涙ながら終結させて,同年の9月3日に妻のマルタ夫人と共にコロンビア港からニューヨーク(9月11日到着)へ向かい,後にネブラスカ州マゥント・キスコに落ち着く。メデジンの事故編で述べたグランッ・フリィンのコロンビア脱出の時期にぴたり合う事になる。

追記:(*)ここでミスター・フリィンの簡略経歴を述べておく。彼の故郷はフロリタ州ジャクソンビジェ。1904年12月22日に誕生。1915~19年の間にキューバ滞在。1923年からフランス,イタリー,スイスとコロンビアを訪問した後にコロンビアのサンタマルタからニューヨークに行く。彼とSACO航空の創立者エルネスト・サンペル・メリンドサとの関係はアメリカ合衆国でもたされた。30年代の頃で時期が過ぎる過程で彼等は友情を育む。そして,彼はSACO航空の常時メンバーの一人として参加していた。サンペールがフオード三発機F-31を購入してコロンビアに空路輸送した時に同伴する。メデジンの悲劇とガルデル生存を明かそうとしたが途中でコロンビアを去る。ニューヨークからネブラスカに戻り,妻のマルタ夫人が亡くなると1977年に再婚した。フリィンは1983年10月26日にフロリダ州ジャクソンビジェの故郷にて79歳で没した。
1986年メデジンル:ルシアーノ・ロンドーニョのブログより
(**)アントケーニョ東部地方とはメデジイン市からホセ・マリア・コルドバ飛行場に行く途中に広がる湖と森林に囲まれた農園地帯のリオネグロとエル・レティーロの周辺である。
(***)F-31機の滑走真近くでガルデルに別れ告げていた黒装の貴婦人はフランスからガルデルの後を追ってきたハンガリー貴族出の女性ではないかと思われる。小生の見解であるが当ブログ「ガルデルの恋愛遍歴編(3)」の主人公イボンヌ・ギテライでは無いかと思う。

2012年2月18日土曜日

ガルデルは生きていた!



ガルデルはあの呪われた飛行機事故から生き延びていた?
誰も信じない事実!アルゼンチンではこの貴重な情報を得られるのは不可能だろう。
小生の居る所はコロンビアなのだ。ここメデジンの出来事でガルデルは“見かけ上の死亡”で世に別れを告げた事になっている。今更この事故の話題にするには何か時期が外れている様な気がするのだが...(当ブログ2009年12月6日投稿文『ガルデルの足跡:悲劇編再びメデジンへ』を参考ください。)ところでガルデルの遺体はメデジンからブエナベントゥラ港まで陸送後に海路パナマを経由後ニューヨークに到着した。後に彼の地の教会で通夜が開かれた。その時参列したガルデルの友人や映画に共演した俳優達は遺体を礼拝した時に,ガルデルの遺体の歯形に疑問を持った人物がいた。その人は音楽家ドン・マジョ氏で他にも数人が確認したらしい。このガルデルでは無いらしい遺体は1936年2月にチャカリータ墓地に着き,盛大に行なわれた葬儀の後に理葬されたのだが,デフィーノは翌年(1937年)に再びメデジンに出向きサンペドロ墓地からもう一つ遺体(遺灰?)をガルデルが理葬されていた墓地から運び出したと言う摩訶不思議な行動をしている。こうした謎に包まれたチャカリータ墓地のガルデルの遺体は本物では無い疑問が髣髴してくる。今となっては土壌化して確認の手段は無い。80年代の頃にサダイクがガルデルとベルタ夫人のADN分析検査を試みたが,如何な判定結果が出たのかジャナリストには公表されていない。それは何故だろう?...この謎は絶対に世には明かされる事は無いだろう。アルゼンチンではガルデルは“フランス人”という固定観念で認められているから,これを覆す訳には往かないのである。とはいえ,それは恐ろしい出来事。「ガルデルは生きていた!!!」信じられない事だが...あの地獄から生存していた!

『カルデルは生きていた!』(1)
我々(クロモ誌記者)の行動する時が来た//
あの事故で飛行場は騒動の最中だった時にガルデルの遺体が発見されていないニュースに我々は当惑したと共に早急な活動をとる。そこで,我々は独自にガルデルを見付ける為に仕度を整えた。たとえ彼等の人情に訴えてきても軽薄な経済が破産を知らされるまで...ガルデルが連れて行かれたと思われるクリニックを我々は発見できなかったが,ソルサルはアントケーニョ東部地方に隠れていると推論の先を決めて,1935年12月から翌年の1月に掛けて我々は怪しい様子の何処かのフィンカ(農園)を疲れも無く捜索する為に人員5人を振り向けた。突然誰かが“...ある日,布で顔を隠したガルデルが白色の自家用車に乗り込むのを発見する”。

「電話のベルがけたたましく鳴り響く」//
4月10日の朝,“軽率な奴”の電話が鳴る。カルメンシータ・オルティス,我々の事務所の魅力溢れる秘書嬢が何時もの様に優しく受話器を取ると電話口の反対側から田舎丸出しの声が言う事には:“お嬢さん,俺はあんた方が捜している様な怪しいフィンカを知っているぜ!ただし約束のお駄賃をくれるならばね”...我々はエル・レティーロに一目散に出向くべき車を走らせた。着いたフィンカの家はただ普通のただ住まい,入り口門も有り触れた普通の作り,だが周囲の情況が風変わりで好奇心を誘われる。先ず警備員さんに挨拶を交わし,我々の希望であるフィンカの住人と話をしたい申を伝えると。答えは頑なに拒否された。大統領すら入れるなと命令されているから...とカービン銃の安全装置を外した。

「我々は見た!ガルデルの姿を...」//
我々の編集長が目で戻ろうと合図して来たので,ここを立ち去り一旦メデジンに全員で帰ろうと考えたが...しかし,自然に納得される事だが我々は号外的ニュースを手中にしたのも同然。だから,順番に偽装しながらその場所に見張り配置する事にした。三匹のドーベルマンと一匹のセバード犬で,あのフィンカは監視されていた。その広さは300平方メートル位いと思われる。そうした田舎の静寂の中。突然犬の吼え声か遠くからと車のエンジン音が聞えて来る。我々は常時少しの空腹感に襲われと不安感情の高ぶりに身震いする。仲間の誰かが警備員を買収してしまおうとそれと無く仄めかした。しかし,警備員はもしかしたら金をくすねるだけでカルリートスに警戒を促すだけに終わる可能性もある。我々皆疲れきっていた。しかし,この不愉快は我々に戦慄感を誘った。とうとう4月25日の午後に彼を見る事を成し遂げられた。ガルデルが見えた!ソルサルが居た!まったく嘘みたいだ!...

「ガルデルが日光浴」//
あの日,黒メガネをかけた喪服の一人の女が犬を二匹連れて緑色のルノーに乗ってフィンカを出て行った。残ったのは一人の男と二匹の犬,事は多少行動するのには容易になる。我々の編集長はフィンカの脇の方に火をつけ,カメラマンは火の燃えている反対側に一匹のウサギを離した。核心は即座に犬達を引き付ける。警備員は火が燃えている場所に駆け寄る。カメラマンはソルサルの“偽の死”の後の最初の写真の撮影に成功した。

メデジン,1986年//ルシアーノ・ロンドーニョのブログより



2012年2月13日月曜日

ガルデル,モンテビデオに凱旋

1915年6月15日~7月9日、モンテビデオに凱旋する:ローヤル劇場(Calle Bartolome Mitre y entre Buenos Aires y Reconquista)でデビユー、友人マヌエル・バルカ(*)がガルデル-ラサーノをローヤル劇場の経営者のビスコンティ・ロマーノに紹介し、そこに彼等の出演が実現する。「ここに登場したメンバーはオリエンタル(*)出身者。一人はホセ・ラサーノと呼ばれ,もう一人はお喋りで好漢な少年容貌の肥満タイプ。それでも同輩に厄介な契約担当を任せ平然としていた人物が,カルロス・ガルデルその者であった」。ガルデルもラサーノも彼自身達の真価をも自覚すらしていなかった。この時期(1914年頃)の彼等の活動範囲はブエノスアイレス沿岸の安酒場や近郊の臨時ステージで歌うクリオージョ歌謡に限られたレパトリーであったが,それ以後キャバレー“アルノンビージェ”や“ナショナル”劇場に出演したりで世間の評判も上昇途中であった。モンテビデオにやって来て,各所の壁に彼の名前が貼り出されているポスター広告を見取どけたガルデルはびっくり仰天。“チェ・バルカ! 俺をカルーソと勘違いしているみたいだぞ!”と叫んだ。ローヤルのデビューの日は針の入る余地も無いほどの満場で,ドゥオはサリーナ作の“ラ・パストーラ”から歌い始め,続いてラサーノの得意な彼の“シフラ”,ガルデルは“エル・パンガレー”“アィ,アィ,アィ”“アキ・テネス・センタード(**)そこに座っていろ)”と歌い続け...カルリートスもっと歌え!観衆連は熱狂のまた熱狂の坩堝と沸き返る。明け方になってもそこを立ち退く者も居ない。“一方ではバルカが祝福をしようと楽屋に入ると感激の余り泣いているガルデルに出会う”そして興奮に鬱積しながら“バルカ兄弟よ!これはすべて...すべてお前さんのお蔭だ!とかろうじて呟く”。この際立った新しい局面の始まりが...この情況は実際に何か異例な起こり事。後年マヌエル・バルカが“エル・アチェロ(松明立)”誌の記事に書いている。1915年6月19日のラ・ラソン紙によると「ガルデル-ラサーノ“ドゥオ”のデビューは素晴らしいヒットであった。エル・ロヤールは盛況に湧き上がり,彼等は的確な調音と上質な声の田舎風トローバを彼等独特の“歌いスタイル”で郷土趣向のセンチメント溢れる快い二重唱の歌唱で正当な拍手喝采に値する観衆の魂を征服した」。別の新聞のローヤル紙は「疑う余地のない事,ビスコンティ氏の劇場のポスターに注意すると主要な意義は若い“同房”達のガルデルとラサーノが名乗り上げた;この二人は我々のクリオージョ歌を的を得た選り優れる歌唱を演じた...」。ここで新聞記事の二人の若い“同房”と論じている事に注意すべきである。即ちウルグアイ・ジャナリズムはガルデルも“ウルグアイ人”であると判断したのである。そして,彼等は故郷に凱旋公演を成し遂げたのである。
注記:(*)オリエンタルとは東方又は東洋人を指すのだがウルグアイの正式の国名は東方国ウルグアイ共和国と呼ぶ。
(**)この曲はガルデルによるレコード録音は存在しない。

2012年2月10日金曜日

パレー・デ・グラス

この章ではガルデルの芸能活動とは関係の無い出来事だが...ガルデルが危うく命を落とす事になる事件に巻き込まれたのだから...

1915年12月11日の事、ブエノス・アイレス中心のサン・マルティン劇場出演後,エスメラルダとサルミエント角でアリピィ,モルガンティ,アベランダ,アルフレッド・デフィラリ等の友人達と集合して誰から共にキャバレー『パレー・ド・グラス』へ行うと言い出したが当時あの場所は騒々しい不良若者達の間で大盛況の評判だった。デフェラーリとラサーノはそこへ行くより“アルメノンビジェ”へ行こうと提案したが,ガルデル初め取巻きはシャンパンとタンゴとミロンガ(サロン・デ・バイレ)で有名なキャバレー『パレー・ド・グラス』へ繰り出して行った。ガルデルの誕生日(?)の宴会騒ぎの後、エリアス・アリピィは出口である若者達の塊団に遭遇の際に挨拶したが彼達は挑戦的に拒否した。それに構わずアリッピィとカルロス・モルガンティ,ベランダらと馬車でアルベアール大通からパレルモへ向う途中、アルベアール広場に近づいた頃に先ほどの若者達が3台の馬車で後をつけてきた。挑発的なその一人の若者(*)“二ニョ・ビエン(お坊ちゃん)”が馬車を降りたアリピィに拳銃を向けた。そこでガルデルが庇う様にアリピィの背後に回った所へ、ガルデルはごく近くから背中に銃弾を受け,肺に達する瀕死の重傷を受け歩道に崩れ倒れた。傷の手当てをした医師は肺の近くに進入した銃弾を適出せずに放置したが奇跡的に命を取り留めた。この事件はアリピィと不良達との喧嘩の巻き添えか,それとも誰かの企んだガルデル暗殺犯行であったのでは?... いささか想像的な説だが「当時,ガルデルはキャバレー・チャンテクレールのオーナー及び暗黒界の黒幕フアン・ガレシオの愛人ジャネッー“ラ・リターナ”とロマンス関係を維持していた。ガレシオがその関係を嗅ぎ付けるとガルデルを復讐する為に刺客を差し向けた」。そして,ガレシォが後日悪功の達成を企てない様にとアルベルト・バルセロー保守派政治家の右腕フアン・ルジェーロが仲裁に入ったと言うおまけの説まである。いずれの説も満更空想でもないらしい。このジャネッーとのロマンスは本物でガルデルがパリに行くまで続いていた。その後ガルデルは傷の癒す為にタクアレンボー郡のサンタ・ブランカ農園に引き込む。(後年のメデジンで飛行機墜落事故の遺体からこの時の銃弾が発見され,その時機内で誰かに撃たれたと誤報道された)。しかしながら重傷にも拘らず回復は早く一ヶ月も経たないうちにモンテビデオにてカムバックを果たしたのである。注記:発砲した犯人はチェ・ゲバラの祖先に当る人物であったとか?
処であの古き有名な『バレー・ド・グラス』はエンリケ・カディカモによりタンゴとして偲ばされている。

Pale de Glas del 920, /920年代のパレー・デ・グラスは
no existes mas /もう存在しない
con tu cordial ambiente /いごごち良いムードと共に…
alli baile /あそこの踊り
mis tangos de estudiante /学生のタンゴ
alli son ese con los /あそこはそういう連中と共に
muchachos de antes /かってのムチャーチョス.
Noches del Pale de Glas ! /バレー・デ・グラスの夜
Ilusion de llevar luz el compas /光に辿る幻想のリズム

Tu recuerdo es emocion /お前の思い出それはエモーション
y al mirar que ya no estas /そして,ご覧よもうすでに影も無く
me encoge el Corazon… /心がちじむ如く
Llega un tango viejo al evocar /古きタンゴが
desde el ayer… /昔のかなたから  
このタンゴはリカルド・マレルバのオルケスタ,オルランド・メディーナの歌で
1944年9月8日にオデオン・レコード録音されている。

パレ・デ・グラスはパリの『パライス・ド・グラセー』を見本としてホセ・レイとベサドレにより市有地借用の形で1911年にレコレータ街ポサーダ通り1725番にアイススケート場とソシアルクラブとして落成した。アイススケート場はサロンを中心に直径21mのアイスリンクが位置し周囲にはパルコ(桟敷席)と会合サロンが配置されていた。一階(二階に当る)には更にパルコとコンフェテリーア(喫茶店),さらにオルガンが設置された。建物はスケートリンクに採光を考慮する為に屋根はガラス張り丸天井風のクラシック天井で覆われ完了されていた。タンゴは早くも1912年にバレー・デ・グラスを急襲した。それはアントニオ・デ・マルチィ男爵(**)が企画したポルテーニョ上流階級達を招待して開催されたタンゴダンスパティーの特別夜間公演で“ターノ”ヘナロ・エスポシトのオルケスタとタンゴダンサーのエンリケ・サボリード達が出演参加した。開店後5年あまりでアイススケート場は早くもブームが下火になりリンクはダンスホールに改造された。当時の最も重要なオルケスタティピカのフランシスコ・カナロ,ロベルト・フィルポや後の20年代には“セステート”フリオ・デ・カロが専属オル
ケスタに選抜されている。丁度ガルデルが訪れた時期はこの場所は不良人物達の溜まり場になり環境が退廃していた頃に当る。1932年頃から近代に入りバレー・デ・グラスは市の公共施設に返還され美術館として一般公開されたが1954~60年7チャネルの国立TVスタジオに改修された後に1992年以降は博物館として機能している。
注記:(**)アントニオ・デ・マルチィ男爵は当時の亜国大統領ローカの娘婿である。

(原文エンリケ・エスピナ・ラウンソン記と他文からの混合要訳した)



2012年2月5日日曜日

ガルデルとカルーソ

1915年8月15日、ウルグアイの公演は成功に終わり,エンリケ・アレジャーノはガルデルとラサーノにエキゾックなブラジルの未開拓市場に挑戦すべく劇団に参加を熱心に勧めたが彼等は余り乗り気に成れず返答を渋っていた。彼等がブエノスアイレスに戻るとナショナル劇場のマネージャー・ホンタニジャによる外国公演の確実な可能性のアイデアを示される。この野心的な経営者はコメディアンのアルフレィド・ドゥアウを雇い入れて,挙句の果てに一座結成に白紙的全責任を任せた。ドゥアウはエンリケ・アレジャーノとアリピィ以下アンヘラ・テサーダ,カミラとエクトル・キロガ,マティルデ・リベーラ,エンリケ・デ・ロサスとロシータ・カタ等を召集して“ドラマティカ・リオプラテンセ(劇的な~ラプラタ川流域の住民による)”一座を結成した。そしてガルデル-ラサーノ“ドゥオ”達はその後で参入した。そして,いよいよ一座は1915年8月17日に客船インファンタ・イサベルに乗船した。ブエノスアイレス出航後この客船の航海にはアチースト達に格別な興味深い出来事が起こった。それはガルデルが思春期に憧れていたオペラ・テノール歌手エンリコ・カルーソが彼等達と同船していたからだ。カルーソはブエノスアイレスとモンテビデオでの公演期間を成功に収め帰国途中であった。ある夜“ドゥオ”に誰からとも彼を紹介されるとカルーソはガルデルに何か歌えと求めた。ムチャーチョ達は初め怯えたがアチィーストの好意的な態度に勇気づけられ歌い終わるとカルーソは感激と卒の無い声で”Guarde,caro la bella voce del morettino! ” とリリコ歌手サルマルコと共に賛辞讃えた。ガルデルはそのチャンスを利用して古き歌劇で知ったアリアの一部分を歌うとカルーソは一瞬当惑した後に拍手勃発させた。”Molto bene! ….Bella voce(素晴しい!甘美な声だ)”とテノールの同伴者一人コロン劇場オーケストラ常時トロンボーン奏者サルバドール・メリコも拍手喝采に加わっていた。“かの全時代最大のテノールは俺を快く褒めてくれた”。又,歌唱学を勉強した事が全然ないといっても信じてはくれなかった。とガルデル自身が後年に思い出している。そこに居合わせた人物によると,カルーソはガルデルに幾つかの温情的な助言を与えたという。それは“まやかしの判断や安直な人気に当惑されない事。自分の声域より一,二高い音程を手に入れようとしない事。もしそれを達成しようとするならば(喉を潰し)身を滅ぼすだろう。しかるべき音調に如何なる一語一語の忠実さを再現可能出来る声の他に貴方は天の恵みの独特性の所持者であり,純粋な発声法,あくまでも明白な,完全な...歌唱。これらはこの上ない貴重...だ!”と絶賛した。後日の事:ナポリターノ(カルーソ)は劇団のピアニスト伴奏従えアリア“ロス・ウゴノテス”のリハーサルをするから聴きに来る様にと船客のサロンに我々を招待してくれた。その時を音楽家達は絶対に忘れられないだろう。とラサーノは回想している。後年の新聞記者のインタビューでカルデルが語った事によると,カルーソはアメリカの声楽教師を紹介してくれたと言うが,今となっては真実を明かす証拠はない。しかしながら,カルーソとガルデルとの出会いは起きた事は真実である。これは歴史中のほんの一場面に過ぎない出来事...。
ガルデルの伝記より:(作者不明?)

1915年8月25日~9月14日、サン・パウロ:ムニシパル劇場(市立劇場)、フリオ・サンチェス・ガルデル著作“ロス・ミラソレス(ご機嫌取り)”の出し物でガルデル-ラサーノ“ドゥオ”により終幕を飾る。9月4日ガルデル-ラサーノは劇団と別行動で“オ・ピラニォ”ゼミナーの四回目記念公演に出演した。
1915年9月14日~19日:サン・パウロ:パレセ・シャアター劇場に出演。
9月23日,サンパウロ:亜国大使館にて私的公演をした。
1915年9月24~29日、リオ・デ・ジャネイロ:ムニシパル劇場、観衆多く入らず、あまりヒットしなかつた。(この時期まではガルデル、ロサーノ自身がギター伴奏をも受け持っていたらしい)ブラジル公演はエスティーロ,サンバやカンシォンといった当時のレパトリーでタンゴは披露されなかった。また1933年にリオのあの有名な“コパカバーナ”で6日出演の話があったが客船寄港期間が3日間の為に交渉が合わず,この公演は実現していない。

2012年2月3日金曜日

カフェ・デ・ロス・アンへリートス

(*)ガルデルが頻繁に出没した有名な“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”の前身はカフェ“バー・リバダビア”の名前でリバダビア大通りとリンコン(現在の国会議事堂の裏近く)の角に1890年の頃バウティスタ・ファシォが営業を始めた。そこは倉庫跡で床は貧弱のむき出しの土間であった。ガビーノ・エセイサやホセ・ベティノティ,イヒニオ・カソォン等の有名なバジャドール達か出入りした痕跡を留めていた。そして,彼等のパジャーダ実演を目の前に聴く事ができた時代で,町團外に住む人々の隠れ家的な場所であった。後の1919年にアンヘル・サルゲーロなるスペイン人がこの場所を買いとった時はバジャドール風のトローバは威力を失う過程で,その角はタンゴの味と色に染まり変わった。“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”の新主人は彼自身の名前アンヘルをこの店の名とした。持ち主は石膏で二つのエンゼル像を店の入り口上に飾りつけ,店全体を修繕仕上げた。この場所は昔のスピネットー市場に近接していて,かの“カフェ”は直ちに常連タンゲーロやマレーボ達と大胆なペンを振るう作家連中の溜まり場と変貌した。カルロス・ガルデル,ホセ・ラサーノ,フロレンシオ・パラビチーニ,エリアス・アリッピィ,フアン・フスト,とアルフレッド・パラシオ(左翼政治家)が常時テーブルを占めていた人物達であった。この亜国風土料理プチェーロを料理給仕する場所にフロレンシォ・パラビチィーニ,ロベルト・カスアー(俳優)やカルロス・デ・ラ・プーア(マレボ・ムニョスと呼ばれた詩人*)の人物名も欠かす故には行かない存在であった。この古いカフェの思い出として早朝に夜食を取るのが習慣のカルロス・ガルデルの足跡も回想に加えねば成らない。


ソルサルは1911年頃から既にここの前身のカフェ“バー・リバダビア”に頻繁に出没していた。そして,ガルデルは持ち馬ルナティコがレースに勝利を勝ち取った日曜日の夜は取巻き連中や他の客達全員にプチェーロを振舞うのが常であった。まさに1917年4月の時の夜,ここの“カフェ”でオデオン・レーベルのマネージャー,マウリシオ・ゴルダーが栄光を勝ち得んとして朝日も射落とす勢い余る快進撃の“ガルデル-ラサーノ”二重唱に初めてインタビューした上に彼等とレコード録音契約を結ぶのに成功する。そして,モローチョとエル・オリエンタル達の歴史的最初の写真が出現由来した場所でもある。その後ここへ出入りする人物はアニバル・トロイロ,オスバルド・プグリーエセ等も常連の名に連なっている。1944年カトゥロ・カスティジョは不滅の名声タンゴとして,その名ずばりの“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”を創作。曲はホセ・ラサーノが受け持ちトロイロ楽団演奏,アルベルト・マリーノの歌で同年12月19日録音された。こうして繁盛してきた店は近年になり営業的危機に這い込まれた末に1992年1月27日に持ち主はこの店を閉鎖した。以前に市当局はこの場所を文化遺産として宣言していたが,建物は退廃が進み2000年には崩壊初めた為に解体の運命になった。


カトゥロ・カスティジョのタンゴは...古き昔の“カフェ”をこう歌う

Yo te evoco perdido en la vida /お前の失った命を思い起こす
y enredado en lo hilos del humo, /そして,もつれた一条の煙
frente a un grato recuerdo que fumo /一喫の快い思い出
y a esta negra porcion de Café… /この黒い一塊のコーヒー
rivadavia y Rincon, vieja esquina /古き街角,リバダビアとリンコン
de la antigua amistad que regresa /古き親交の回帰
coqueteando su gris, en la mesa,/卓の上に,その灰色に媚び,
que esta meditando en sus noches de ayer./かの日の夜に瞑想ふける


Café de los Angelitos! /カフェ・デ・ロス・アンへリート
Bar de Gabino y Cazon…/ガビーノとカソンのバー
Yo te alegre con mis gritos /わが叫びとお前へのほろ酔い
en los tiempo de Carlitos, /カルリートスのあの時代
por Rivadavia y Rincon. /リバダビアとリンコン.
Tras de que suenos volaron? /その上に夢は塵ごとき散り?
En que estrellas andaran? /運勢の漂いは?
Las voces que ayer llegaron /きのうとどいた噂
y pasaron y callaron, /そして,通り過ぎ,そして,沈黙
donde estan? /何処へ行った?
por que calle volveran? /何処の通りに戻りくる?

この詞の最後に“何処の通りに戻りくる?”と有る様にこの“カフェ”は見事に再現されたのである。そして,ほとんど昔の場所近くの同じリバダビアとリンコン370,再びタンゴの響くあの“カフェ”として...古き昔のブエノスアイレスを引き戻す如く甦った“カフェ・デ・ロス・アンへーリス”。