2011年7月18日月曜日

ガルデルとフォルクローレ(7)


サウル・サリーナス

⑧:サウル・サリーナス:“エル・ビボーラ(毒蛇)”と渾名される。歌手、ギター奏者、家、1881,2年10月5日(?)リオハ生まれ。とあるが隣国チリー生まれという説もある。1921年12月10日没。多勢の昔の集合的クリオージョの様に彼の歌とギターを奏でる道楽は幼年時からの事。何時、公衆前で初作品を発表しデビューを果たしたかも、多分確かにクジョー(リオハ地方)かチリー地方へ出掛けた。だが、彼自身もその初旅すらも記憶にない。トナーダ・ギター奏者,歌手,これらの作品の多くを世に送り出す。フォルクローレ界の歴史家達は彼を黙視したが。しかしながら、業績は同界の中でも偉大な存在であるのを否定出来ない。彼の名声は土地固有の歌唱音楽の重要な編纂者の一人であり、そして少なくとも最初に普及させた業績は大きく。また、彼以外の誰でも無いトナーダ・クリオージャの創始者であるが、記念されるべき“トナーダの日”は伝統主義者イラリオ・クアドロスの命日に制定された(彼はサリーナスほどの適切な功績を残していないのだが)。1910年にペドロ・ガライと最初の二重唱を組み。サルシオーネ‐サリーナス、サリーナス‐マルティーノ、サリーナス‐マランビオ・カタン、サリーナス‐アルフレッド・ゴビ(父)と数々の二重唱を組む。マタデーロ通トリニーダーに住み,バー“チンガナス”で一人かグループでショーに出演して,そこでフォルクローレを育てた。ある金持ちの馬車御者も働く。1912年にカルロス・ガルデルとは歌とギター演奏の夜明かし騒ぎの前と多くの行脚ゆえの果てにサウル自身がガルデル‐ラサーノとマルティーノのトリオに接触したかどうか的確ではないが,このトリオに参加の上に四重唱に発展させて,サラテのカーニバルでデビューしたが,興行収益は実らず。それでも芸術的には何等の成果を得ている。このグループは直ぐにサリーナスの落伍とマルティーノが後を追い,解散に追い込まれる。そして,ガルデル-ラサーノ二重唱になってしまう。サリーナスはその後,ガルデルを“コロンビア”へのレコード録音に導いた張本人である。同房ペドロ・ガライは“ラ・パストーラ”と“ラ・ロサ・エンカルナーダ(化身したバラ)”の著作権返却を要求したが,彼自身のタレント才能の信望を貶める理由にも成らない。何故ならば、数多くの秀麗な変化の魅力的な絶賛に値する創作を残している。ガルデル‐ラサーノの二重唱は“ミララ・コモ・セ・バ(見ろよ、あの行き方を)”、“ラ・マルドゥルガダ(夜明け)”、“シ・メ・テンドラ・エン・ス・メモリア(覚えているかい)”、“ドンデ・エスタラ(何処にいるかい?)”、“ミ・エストレジャ(私の星)”、“クジャニータス”らを録音した。彼等は1915年、サン・マルティン劇場“フアン・モレイラ”上演の時に有名なクエッカ“コラソネス・パルテイーダ(心を裂いて)”バルス“ラ・センダ・マルディタ(呪われた道)“、トナーダ“ホセ・フリアン(人名)”、クエッカ“ポルケ・ロ・イシステ(なぜやった)”を披露した。サリーナスは1919年に“ナショナル”レコードに参加。1921年マクッス・グルクスマン氏と再契約を結ぶ為のブエノスアイレス行きへの準備のある日、政治絡みのため、フロビンシア(州)・サンフアン中心地ミトレとスペイン大通脇の怪しい店でトランプ賭けに参加していた所を月並み歌手のアントニオ“エル・モスキート(蚊)”アンディーノたる輩により暗殺された。岐宿もセペダと同じ運命を辿る羽目になる。


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