2010年7月25日日曜日

ガルデル出生の謎、続編(2)

前項でガルデルの生まれた経緯とそのルーツを解明したが、それでもフランス人説を称える派は“ガルデル”は“シャルル・ロムアルド・ガルデス”と同一人物だとする“人物”の誕生。

1890年:この年初めごろ、ロムアルド・ロペス{a}の子供を身ごもったベルタ・ガルデスは、胎児の父親側親族に生れてくる子供を引き渡せと脅かされ、その事情でフランス、トゥールーズのベルタの母親エレーネの元に保護を求めに、6歳前後に成長したガルデルを彼の従姉マリア(ネグラ)・エスカジョーラと友人アナイスらに養育を託して帰郷してしまう。同年12月10日、旧市内サン・ピエレー教会を右側に見て、ガロンヌ川に架かるサン・ピエレー橋を渡った袂にあるグラーブ病院でシャルル・ロムアルドが誕生。不思議な事に旧市内カノン通り4番に誕生記念碑がある。翌11日に洗礼される(出生届#2481、洗礼届は存在する、あくまでもシャルル・ロムアルドの名の元で)。ここで一次世界大戦後にトゥールーズ生まれのフランス人パゥル・ラサレーという人物が父親だとして、ガルデルの前に現れたとあるが(ハイメ・リコ・サラサールの伝記より)。どうももっともらしく、フランス人説を強調するような評言である。理由を挙げれば、ベルタは17歳頃からウルグアイ地方に滞在しており、当時から1890年まで故郷にはもどっていない。
カルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバ夫妻は、この年7月15日にフアン・カルロスとフリオ・セサールの双子らの出生届けを約1年後にする。

下の写真:ガルデル(7~8歳位)

1891~92年:ガルデルは伯父クレリオ・オリバの保護の元に『ホセ・オリバ』の名前でドゥラスノ通337番27番小学校に入学する。

1893年:『ホセ・オリバ』こと幼児ガルデルはベルタにブエノス・アイレスに連れて行かれた為に、27番男子小学校を退学する。ベルタは2歳3ヶ月に成長したシャルル・ロムアルド及び8~9歳位に成長したガルデルと1893年3月9日にブエノス・アイレスに到着とAvilis{b}の伝記にあるが、この日付はベルタがボルドーからモンテビデオに入港した日と思われる。ここでガルデルを連れて、後日にブエノスに向ったと判断すべきだろう。エクトール・エルニエ氏による後年の調査では3月11日にブエノス入港した記録あるというが、これも正確では無いらしい。彼女達等がモンテビデオからブエノスに行く為にはドン・ペドロという夜行便船を利用した。この船は3月23日に入港と当時の新聞記事に記録されているという。そして、後年にパリシ氏の子孫の情報によると、この頃マテオ・パリシ(1886年に登場)はベルタに約束したガルデルへの養育及び教育費としての3千ペソを持参し彼女に手渡す。
左:ガルデル7歳の時と9歳位の時
右:シャルル・ロムアルド(6~8歳位?)
二人の写真を見比べて明らかに顔つきが可なり違うので明らかに別人と判断できるだろう。






左:フランチーニ家の娘と上の9歳ごろの時と同時期か?


1894~6年:ベルタ自身の言明によると、ブエノスに到着後直ぐにカルリート・ガルデルはロサ・コラード・デ・フランチーニ{c}に預けられる(この証言も信憑性が無い)。このフランチーニ婦人は架空の人物で本来はエステバン・カポーの母親{d}であるが、後年フランチーニの娘(?)とガルデル少年(9~10歳ぐらいか?)との1894~5年初めに写したといわれる写真が現れる。ベルタ・ガルデスはロサ・カロール・デ・バッカー夫人{e}に実子シャルル・ロムアルド・ガルデスの養育を委託する。実際にはこの頃からアナイスと夫フォルトナト・ムニスが幼児ガルデルの養育を引き受けていた(ガルデルの死後、この二人は彼の幼児期の真の評言者であるためにディフーノにより完全に言動を封じられて絶体にマスコミの前に現れないようにされた)。

1897年:シャルル・ロムアルド・ガルデスはタルカゥアーノ通678番の小学校に入学する。

1897年5月1日、ガルデルの祖母に当たる人フアナ・シジルラが死亡。

1898年:アナイスとフォルトナト夫妻はガルデル少年を同伴してコリエンテス1557番に引越す。この前にガルデルがその少年時代に出入りしたと言われるポリテアマ劇場があつた。
1898年8月30日、法規上結婚9年後にカルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバの宗教上の婚姻が認められる。ガルデルは14歳に成長していた。

1899年:ガルデル少年は家庭を抜け出しモンテビデオに行く。(実際にはタクアレンボーへ父母に会いに行くが父親のカルロスに面会拒絶され、近所に留まりパジャドールに知り会い歌を磨きつつも、空しくもモンテビデオに出る)。そこで印刷工として伯父のクレリオ・オリバの元で仕事をする。約5年間ガルデル少年はベルタの元から姿を隠す。当時彼はブエノスとモンテビデオの間を数回に渡り行き来していたらしい。(彼の回想より)そして、ブエノスに帰依るとアナイスのところに戻るのが常だった。彼は一生その恩を忘れずに、後年(1933年頃)ディフーノに手紙でアナイスとフォルトナト夫婦を経済的援助を充分する様に扱うように要請しているが、代理人ディフーノは彼の要請を反故にした扱いをしている。処でガルデルは数々のインタビューの返答を煙幕はり、はぐらかすのが得意だったらしい。例えば、生まれを問われてもウルグアイとかフランスとか、、、父親が誰だとの質問にものらりくらり、、、当然に答らる訳が無い、当たり前だが、、、先祖の職業は?応えて印刷業。これはまんざら嘘ではない。伯父のクレリオ・オリバの印刷場で少年時代に働いた経験があるからだ。モンテビデオ時代(1899年頃)は父親方の伯母に当たるエロディア・エスカジョーラの家、カジェ・セーロ(現在バルトロ・ミトレ)通23番に住む。
ベルタの実子シャルル・ロムアルドは8歳に成長、市6街区2番小学校2年に進級。

注:{a}ロムアルド・ロペスはクレリオ・オリバの印刷場で印刷活字工をしていた人物
{b}Avilisとは新聞記者、エラスモ・シルバ・カブレーラ氏をさし、彼はカルロス・ガルデルの伝記“エル・グラン・デスコノシード(偉大な知ざれ人)”で初めてガルデルはウルグアイ生まれと発表した人物
{c}、{d}、{e}フランチーニ夫人、エステバン・カポーの母親、カロール夫人らは全て同人物でベルタの出鱈目な証言か、ディフーノに指示されてその場ごとにあたかもこれら3人が存在すべく、別人名を挙げていたらしい。

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