2010年7月20日火曜日

ガルデル出生の謎、続編(1)


小生のこのガルデル物語は昨年11月から、まず初めに彼の“出生の秘密”からスタートした。
今年の6月で75年目の追悼記念が世界中で行なわれて、依然として、カルロス・ガルデルの人気は衰えない。だが、未だにガルデルは1890年、フランス生まれとオウムの繰り返し沙汰である。
彼の歌は益々冴え、SPレコードは全790曲分50枚のCD化された。国籍や生まれが何処であるかどうかは彼の芸術と業績に関係は無いのだが、、、しかし、この辺で彼の真のルーツを数々のデータにより明白にするのも無駄ではないと思う。
右はウルグァイ東方共和国の郵便切手、2004年発行された物、上のガルデルの写真と比較ください。

上の写真は説明がない二人の人物もので、右が一目してカルロス・ガルデルであるとタンゴフアンなら判断できるでしょう。処で左の写真は誰でしょう?、人相学とかの専門知識の無い人でも、明らかにガルデルとこの人物がガルデルと瓜二つの様にあまりにも似ていると判断出来るでしょう、、、。では下中央の写真を見てください。実は上の写真と同じものですが、写真の下に説明文があり、左の方はクレリオ・オリバとあります。ではこの人物はいったい誰なのでしょうか、又ガルデルとの関係はあるのか無いのか疑問が沸いてくる所です。説明文には生母マリア・レリア・オリバの実兄に当たる人とあります。ということは紛れも無くガルデルの伯父に当たる人となります。もうご存知の通りガルデルは1890年12月11日(タンゴの日)にフランスのトゥールーズ生まれとされ、本名シャルル・ロムアルド・ガルデス、母親はベルタ・ガルデスと言う事になっています。今でもアルゼンチン、コロンビアでは多数の人がフランス人説を根拠もなく妄信的に唱えています。処で、オリバ苗字の人物達は何処の出身地でしょうか?それはアルゼンチンの隣国ウルグアイです。まさにこの両国はラ・プラタ地方の兄弟国といわれ、タンゴの発祥地そのものずばりの国。ですから、不動にカルロスかカルリートスの名を上げるとすると、私はカルロス・ガルデルがウルグアイ、タクアレンボー生まれを指し、そして言い加えればフランス人、シャルル・ロムアルドはベルタ・ガルデスの実息子である事は真実ですが、しかし、ガルデルとは全くの別人であり、彼の死後に偽の遺言状により偽作されたものと判断します。上の写真の説明文の彼の伯父が存在し、生母は彼の妹マリア・レリア・オリバであり、ベルタ・ガルデスではないとなります。と成れば、これは簡単にフランス人説を鵜呑みにするわけに行かないのです。すでに『ガルデル出生の謎編』でこの事に触れていますので重複するのですが、ガルデルの生れた経緯概要を簡単に説明するとします。

1882年:ベルタ・ガルデスは17歳前後にモンテビデオからタクアレンボー近郊のコラーレス鉱山に行き、3年ほどアイロンかけとして働く。又アルトゥーロ・サエンス(ピアニスト){a}
の評言によるとベルタ・ガルデスはモンテビデオのソリス劇場前のある家、“ラ・デモクラシア(デモクラシー)”紙のディレクター夫人フアナ・ヒル・デ・ダネリ経営の婦人仕立て業兼フランス人向け下宿のアイロンかけの仕事をしているのを見かけている。

1883年:この年のころ、カルロス・エスカジョーラ名誉大佐はブランカ・オリバと婚姻中であつたが、ブランカの末妹少女13歳のマリア・レリアをたぶらかしたか強姦する。

1884年:カルロス・ガルデルの誕生(11月21日説あり、タクアレンボー郡第二地区司法所の登録による)。この出生は隠蔽され、賄い婦マヌエラ・ベントス、又はカスコかモーラ{b}に預けられる。この女性は一生名の知れぬ存在(取るに足らない人物)扱いされた。

1886年:カルロス・エスカジョーラ氏はブランカ夫人の自殺により2度目の男鰥夫になる。
ベルタはエスカジョーラ氏の経営するキャバレー“ラ・ロサーダ”に踊り子として働いた過去があり、氏とは旧知であった。ガルデルが生まれた2~4年後の時にマテオ・パリッシ{c}に要請され、養母として国外に連れ出す様に高額の一次金(三千ペソ)と毎月の養育費を払う約束の上に依頼されるが、彼女はこの申し出を引き受けたが、直ぐにこの要求を実行せずにガルデルをモンテビデオの下町に連れて行く。場所は当時のイスラ・デ・フローレス通り、現在はカルロス・ガルデル通りと命名されている所。時はガルデル4歳、幼児の彼は従姉のマリア・エスカジョーラ{d}とアナイス・ベアー{e}らとコンペンティージョに住み、1893年ブエノス・アイレスに行くまでここに住み着く。

1887年:ベルタはクレリオ・オリバ氏の経営する新聞“エル・ヘラルド”の植字工ロムアルド・ロペスと後年関係を持ち身ごもる。(カルロス・ガルデルは後年、1887年12月11日と自己申告による出生届出す)

1888年:カルロス・エスカジョーラはマリア・レリアと教会の宗教上結婚の免除を受けることを前提に同棲を始める。

1889年:4月20日、マリアの妊娠の為に、カルロス・エスカジョーラとマリア・レリアは民法上の結婚手続を届ける。5月15日、オダリエ・ドゥカセ・デ・カポーと1882年1月23日生まれの7歳の息子ステハン(後にエステバン・カポーと名乗る)同伴でボルドーから客船コルドバでブエノス・アイレスに上陸。(シャルル・ロムアルド・ガルデスがトゥールーズで生まれる1年半前のこと)。『1935年6月28日、メデジンでの悲劇的事故の3日後にブエノス・アイレス市のクリティカ紙にベルタ・ガルデスの息子をトゥールーズで知っていたと(偽の)評言をする。この評言は明らかに歌手(ガルデル)とベルタ・ガルデスの息子と同一人として融合させる意図の証拠である』。ここまでのデータは『ガルデルのフランス人説派』は全く無視しています。要するにガルデルの幼児時代を抹殺しているわけです。
7月8日:マリア・レリア・オリバの父親フアン・バウティスタ・オリバはおそらく二女クララの自殺などの家庭スキャンダルに圧倒された上に精神異常で果かなく世を去る。カルロス・エスカジョーラはこの家庭の絶対権限を握る立場になる。11月21日ホセ・オリバ(幼児ガルデル)は満4歳に成長。
注:{a}アルトゥール・サンエンス:ウルグアイ人、タンゴのピアニスト、モンテビデオの下町の一通りを題名にしたタンゴ“イスラ・デ・フローレス(花々の島)”の作曲者。
{b}マヌエラ・モーラとしてAVILESの物語ではガルデルの生母として登場するが、これは何かの間違いだろう。
{c}マテオ・パリッシ、カルロス・エスカジョーラの先妻クララ(マリア・レリアの長姉)の娘婿。
{d}マリア・エスカジョーラはカルロス・エスカジョーラの妹エドナ・エスカジョーラの娘。
{e}アナイス・ベアーは1873年に父親マテオ・ベア-と母親ソフィア・エリザベス・ジャカウメ及び二人の兄弟アグスト、ヘンリらと共にブエノス・アイレス市のカタリナ岸壁に到着、家族のパスポートはフランス、ローネ発行とある。
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左の写真はオリバ家の女性達、前列右がマリア・レリア・オリバ、ガルデルの生母とされる人。

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