2012年2月10日金曜日

パレー・デ・グラス

この章ではガルデルの芸能活動とは関係の無い出来事だが...ガルデルが危うく命を落とす事になる事件に巻き込まれたのだから...

1915年12月11日の事、ブエノス・アイレス中心のサン・マルティン劇場出演後,エスメラルダとサルミエント角でアリピィ,モルガンティ,アベランダ,アルフレッド・デフィラリ等の友人達と集合して誰から共にキャバレー『パレー・ド・グラス』へ行うと言い出したが当時あの場所は騒々しい不良若者達の間で大盛況の評判だった。デフェラーリとラサーノはそこへ行くより“アルメノンビジェ”へ行こうと提案したが,ガルデル初め取巻きはシャンパンとタンゴとミロンガ(サロン・デ・バイレ)で有名なキャバレー『パレー・ド・グラス』へ繰り出して行った。ガルデルの誕生日(?)の宴会騒ぎの後、エリアス・アリピィは出口である若者達の塊団に遭遇の際に挨拶したが彼達は挑戦的に拒否した。それに構わずアリッピィとカルロス・モルガンティ,ベランダらと馬車でアルベアール大通からパレルモへ向う途中、アルベアール広場に近づいた頃に先ほどの若者達が3台の馬車で後をつけてきた。挑発的なその一人の若者(*)“二ニョ・ビエン(お坊ちゃん)”が馬車を降りたアリピィに拳銃を向けた。そこでガルデルが庇う様にアリピィの背後に回った所へ、ガルデルはごく近くから背中に銃弾を受け,肺に達する瀕死の重傷を受け歩道に崩れ倒れた。傷の手当てをした医師は肺の近くに進入した銃弾を適出せずに放置したが奇跡的に命を取り留めた。この事件はアリピィと不良達との喧嘩の巻き添えか,それとも誰かの企んだガルデル暗殺犯行であったのでは?... いささか想像的な説だが「当時,ガルデルはキャバレー・チャンテクレールのオーナー及び暗黒界の黒幕フアン・ガレシオの愛人ジャネッー“ラ・リターナ”とロマンス関係を維持していた。ガレシオがその関係を嗅ぎ付けるとガルデルを復讐する為に刺客を差し向けた」。そして,ガレシォが後日悪功の達成を企てない様にとアルベルト・バルセロー保守派政治家の右腕フアン・ルジェーロが仲裁に入ったと言うおまけの説まである。いずれの説も満更空想でもないらしい。このジャネッーとのロマンスは本物でガルデルがパリに行くまで続いていた。その後ガルデルは傷の癒す為にタクアレンボー郡のサンタ・ブランカ農園に引き込む。(後年のメデジンで飛行機墜落事故の遺体からこの時の銃弾が発見され,その時機内で誰かに撃たれたと誤報道された)。しかしながら重傷にも拘らず回復は早く一ヶ月も経たないうちにモンテビデオにてカムバックを果たしたのである。注記:発砲した犯人はチェ・ゲバラの祖先に当る人物であったとか?
処であの古き有名な『バレー・ド・グラス』はエンリケ・カディカモによりタンゴとして偲ばされている。

Pale de Glas del 920, /920年代のパレー・デ・グラスは
no existes mas /もう存在しない
con tu cordial ambiente /いごごち良いムードと共に…
alli baile /あそこの踊り
mis tangos de estudiante /学生のタンゴ
alli son ese con los /あそこはそういう連中と共に
muchachos de antes /かってのムチャーチョス.
Noches del Pale de Glas ! /バレー・デ・グラスの夜
Ilusion de llevar luz el compas /光に辿る幻想のリズム

Tu recuerdo es emocion /お前の思い出それはエモーション
y al mirar que ya no estas /そして,ご覧よもうすでに影も無く
me encoge el Corazon… /心がちじむ如く
Llega un tango viejo al evocar /古きタンゴが
desde el ayer… /昔のかなたから  
このタンゴはリカルド・マレルバのオルケスタ,オルランド・メディーナの歌で
1944年9月8日にオデオン・レコード録音されている。

パレ・デ・グラスはパリの『パライス・ド・グラセー』を見本としてホセ・レイとベサドレにより市有地借用の形で1911年にレコレータ街ポサーダ通り1725番にアイススケート場とソシアルクラブとして落成した。アイススケート場はサロンを中心に直径21mのアイスリンクが位置し周囲にはパルコ(桟敷席)と会合サロンが配置されていた。一階(二階に当る)には更にパルコとコンフェテリーア(喫茶店),さらにオルガンが設置された。建物はスケートリンクに採光を考慮する為に屋根はガラス張り丸天井風のクラシック天井で覆われ完了されていた。タンゴは早くも1912年にバレー・デ・グラスを急襲した。それはアントニオ・デ・マルチィ男爵(**)が企画したポルテーニョ上流階級達を招待して開催されたタンゴダンスパティーの特別夜間公演で“ターノ”ヘナロ・エスポシトのオルケスタとタンゴダンサーのエンリケ・サボリード達が出演参加した。開店後5年あまりでアイススケート場は早くもブームが下火になりリンクはダンスホールに改造された。当時の最も重要なオルケスタティピカのフランシスコ・カナロ,ロベルト・フィルポや後の20年代には“セステート”フリオ・デ・カロが専属オル
ケスタに選抜されている。丁度ガルデルが訪れた時期はこの場所は不良人物達の溜まり場になり環境が退廃していた頃に当る。1932年頃から近代に入りバレー・デ・グラスは市の公共施設に返還され美術館として一般公開されたが1954~60年7チャネルの国立TVスタジオに改修された後に1992年以降は博物館として機能している。
注記:(**)アントニオ・デ・マルチィ男爵は当時の亜国大統領ローカの娘婿である。

(原文エンリケ・エスピナ・ラウンソン記と他文からの混合要訳した)



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