2012年2月5日日曜日

ガルデルとカルーソ

1915年8月15日、ウルグアイの公演は成功に終わり,エンリケ・アレジャーノはガルデルとラサーノにエキゾックなブラジルの未開拓市場に挑戦すべく劇団に参加を熱心に勧めたが彼等は余り乗り気に成れず返答を渋っていた。彼等がブエノスアイレスに戻るとナショナル劇場のマネージャー・ホンタニジャによる外国公演の確実な可能性のアイデアを示される。この野心的な経営者はコメディアンのアルフレィド・ドゥアウを雇い入れて,挙句の果てに一座結成に白紙的全責任を任せた。ドゥアウはエンリケ・アレジャーノとアリピィ以下アンヘラ・テサーダ,カミラとエクトル・キロガ,マティルデ・リベーラ,エンリケ・デ・ロサスとロシータ・カタ等を召集して“ドラマティカ・リオプラテンセ(劇的な~ラプラタ川流域の住民による)”一座を結成した。そしてガルデル-ラサーノ“ドゥオ”達はその後で参入した。そして,いよいよ一座は1915年8月17日に客船インファンタ・イサベルに乗船した。ブエノスアイレス出航後この客船の航海にはアチースト達に格別な興味深い出来事が起こった。それはガルデルが思春期に憧れていたオペラ・テノール歌手エンリコ・カルーソが彼等達と同船していたからだ。カルーソはブエノスアイレスとモンテビデオでの公演期間を成功に収め帰国途中であった。ある夜“ドゥオ”に誰からとも彼を紹介されるとカルーソはガルデルに何か歌えと求めた。ムチャーチョ達は初め怯えたがアチィーストの好意的な態度に勇気づけられ歌い終わるとカルーソは感激と卒の無い声で”Guarde,caro la bella voce del morettino! ” とリリコ歌手サルマルコと共に賛辞讃えた。ガルデルはそのチャンスを利用して古き歌劇で知ったアリアの一部分を歌うとカルーソは一瞬当惑した後に拍手勃発させた。”Molto bene! ….Bella voce(素晴しい!甘美な声だ)”とテノールの同伴者一人コロン劇場オーケストラ常時トロンボーン奏者サルバドール・メリコも拍手喝采に加わっていた。“かの全時代最大のテノールは俺を快く褒めてくれた”。又,歌唱学を勉強した事が全然ないといっても信じてはくれなかった。とガルデル自身が後年に思い出している。そこに居合わせた人物によると,カルーソはガルデルに幾つかの温情的な助言を与えたという。それは“まやかしの判断や安直な人気に当惑されない事。自分の声域より一,二高い音程を手に入れようとしない事。もしそれを達成しようとするならば(喉を潰し)身を滅ぼすだろう。しかるべき音調に如何なる一語一語の忠実さを再現可能出来る声の他に貴方は天の恵みの独特性の所持者であり,純粋な発声法,あくまでも明白な,完全な...歌唱。これらはこの上ない貴重...だ!”と絶賛した。後日の事:ナポリターノ(カルーソ)は劇団のピアニスト伴奏従えアリア“ロス・ウゴノテス”のリハーサルをするから聴きに来る様にと船客のサロンに我々を招待してくれた。その時を音楽家達は絶対に忘れられないだろう。とラサーノは回想している。後年の新聞記者のインタビューでカルデルが語った事によると,カルーソはアメリカの声楽教師を紹介してくれたと言うが,今となっては真実を明かす証拠はない。しかしながら,カルーソとガルデルとの出会いは起きた事は真実である。これは歴史中のほんの一場面に過ぎない出来事...。
ガルデルの伝記より:(作者不明?)

1915年8月25日~9月14日、サン・パウロ:ムニシパル劇場(市立劇場)、フリオ・サンチェス・ガルデル著作“ロス・ミラソレス(ご機嫌取り)”の出し物でガルデル-ラサーノ“ドゥオ”により終幕を飾る。9月4日ガルデル-ラサーノは劇団と別行動で“オ・ピラニォ”ゼミナーの四回目記念公演に出演した。
1915年9月14日~19日:サン・パウロ:パレセ・シャアター劇場に出演。
9月23日,サンパウロ:亜国大使館にて私的公演をした。
1915年9月24~29日、リオ・デ・ジャネイロ:ムニシパル劇場、観衆多く入らず、あまりヒットしなかつた。(この時期まではガルデル、ロサーノ自身がギター伴奏をも受け持っていたらしい)ブラジル公演はエスティーロ,サンバやカンシォンといった当時のレパトリーでタンゴは披露されなかった。また1933年にリオのあの有名な“コパカバーナ”で6日出演の話があったが客船寄港期間が3日間の為に交渉が合わず,この公演は実現していない。

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