2011年9月3日土曜日

ガルデル,初めて地方興行に出る(1 )

ガルデル物語のテーマは芸能活動を追うのも一つで,特に有名になる前の下積み時代の活動はあまり世に知られて居ないと思う。そこでできるだけ可能な限り追従していくつもりである。
1913年初めの頃,タジーニ商会のコロンビアレーベルへのレコード録音した後の事になるが...

ガルデルとラサーノ出会い,その後...
礼儀作法としてカルロスはラサーノの“縄張り”へ再び歌い合戦果たすために訪問する。この二回目の出会いは“エル・オリエンタリート(ラサーノ)”の棲家,バルバネ―ラとモンーセラー街境にあるエントレリオとモレーノ通りにあるボリーチェ“エル・ペラード”で行なわれた。この“返り果し合い”は両方の盛大なグループの傍聴人達を再び招集する事になった。ガルデルは若い歌手フランシスコ・“パチォ”・マルティーノを伴い現われ,会合は前回にも劣らず盛況のうちに常連の一人エンリケ・ファルビの家に場所を変えて続行された。

ここでの新しい成果はカルデル(当時はガルデスの姓)と“パチョ”マルティーノとの二重唱の結成誕生であった。ブエノスアイレス市内から近郊へ冒険的な歌巡業に出る計画をたてる。この巡業は余り期待出きる明るい兆しが見えない一抹の不安が掠めたが,彼等はまだ安定した定職を獲得してはいず,この様な冒険も試みる必要に迫られていた。そこで開通したばかりの西部方面行きの鉄道沿線のチリビコイか多分メルセデスへそしてアルベルティー,ブラガード,ヌエベ・デ・フリオの各田舎町へ向かう。しかしながら,無名の彼等を受け入れ歌わせてくれる興行映画館も劇場も無く,空しくブエノスへ戻る覚悟をきめた矢先にグアナコという町でほんの微かな微笑のウインクを差し向けた人が現われる。その人はクリマコ・スカラと呼び,この町のドリースダレーとロカ通り角に小さなバーを経営。ガルデル達はそこで熱い歌演技を興じ,まずまずの満足をえる。この受け入れは彼がルデルには良き忘れ難き思い出となり,3,年後に再び訪れ興行することになる。彼達は次に商業で栄えるヘネラルピコへと向かい,そこでも彼等を受け入れてくれる興行主を見つけられず落胆の内に首都に帰還する。一方の“オリエンタリート”ことラサーノは彼等のグループに参加しなかった事を後悔の念に悩まされていた。カンティーナ“チャンタ・クアトロ”で三人は合同して未来の親交を深める約束をする。その後、“カサ・スイサ”の魅力的な慈善興行を催しで拍手の余韻が醒めないうちにと新たに地方興行の冒険を模索すべく決心する。この興行にはマルティーノとラサーノも旧知の仲のクジャーノ,サウル・サリーナスも臨席していたが,彼サウルも“エル・モローチョ”のグループ参加に興味深々であった。

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