2011年9月9日金曜日

ガルデル,二度目の地方興行に出る(1 )

1913年6月頃:やがて、サウル・サリーナス(チリー生まれでクージョ地方の歌い手)の参加により、カルロス・ガルデル、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノらでクァルテートを組み巡業に出る。先ずブエノスアイレス州の近郊のパラナー川沿に北西へ行く。カルロス達はサン・ニコラスの第五歩兵編隊で出演出来る可能な交渉があったのだが。その他,政治活動の会合やクラブの扉を叩き,そこで歌わせてもらう。そんな不確実な可能性を求める旅。また前回で知った土地の南西へ鉄道の果てまで行く事を予定にする。610日にブエノスから約70kmほどのサラテに着き,インデペンデンシア通りのバー・ベインテシンコ(25)で歌い,夜はディシヌエベ・デ・マルソ(319日通り)とイツサインゴ通りの街角のエル・グロボ・ホテルに出演。しかし,報酬に結びつかず涙を呑まされる。このリトラル(バラナー川沿岸)地方は見かけの商売繁栄とは裏腹に,このグループを取り急ぎ受け入れる意図も無かったようだ。その上,悪い事に早くもサリーナスがグループから抜けたいと言い出した。兎も角,状況は次の町で良く成ると,彼を説得した上にサン・ペドロまで行く。ここは小さな町で幾つかのダンスホールがあり,フランシスコ・カナロ,ロベルト・フィルポ,“エル・レンゴ”(不平屋)ことサンボニーニ等が最初にクアルテートを組織して活躍しており,10年代に栄えたラ・プエラタ・デ・フィエーロとかマリア・ソーサが存在していた。そのサン・ペドロでは彼等のグループは二人の地元政治家メンデサバルとペラーソォの助けでそこの映画館でデビューが果たせた。その後,ソシアルクラブにも出演できた。しかしながら,この巡業の初めての良い成果にも拘らず,サリーナスはこのグループを離れてブエノスへ帰ってしまう。その理由ははっきりせず,全くの謎であるが,サリーナス脱退の理屈は多分,この試されたタレントのグループがふさわしい芸能的レベルを遂げるに至ら無かった為だろうと思われた。忘れてはならない事は,サリーナスは四人の中で最も経験豊なアティーストである。ともあれ,このクアルテートは最も経験豊な一員を失ったが。それでも,残り三人はそれにめげず巡業行程を先に進む決意をした。カルロス達の一行はサン・ペドロとサン・ニコラス(*)の途中で714日のフランス人移民共同体が祝う「バスティージャ』記念祭のエベントに驚かされなからも,彼等は翌日サン・ニコラスの祭りの騒然と沸きあがる街中に辿り着いた。兎も角,彼等のトリオの活動は716日のエル・ノティシエーロ(ニュース)紙に若いアティースト達のカルロス・ガルデス(当時は養母の姓),フランシスコ・マルティーノ,ホセ・ラサーノのトリオ演唱活動が記載され始め,61719日の3日間にはサン・二コラスのソシアルクラブで歌う。また,予定していた第五歩兵編隊駐屯所でも歌う事ができた。これらの公演はまずまずの満足に値する盛況な拍手喝采を受けた。720日朝はプレガミーノへ向かうが,前提の政治家の推薦があったにも拘らず,歌う契約には結べつける事にならず,次の2千人余りの小都市ロハの町でも幸運に恵まれてはいなかった。













810日,ここの町の“ソシアルクラブ”に出演する。当日の“エル・ナショナル”紙に「この様な純粋なクリオージョ音楽コンサートの演奏者は我々の土地に巡業に来るチャンスは余り無いが,ガルデス,マルティーノ,ラサーノ各氏は我々祖国の好む楽器を奏でブロビンシァーノ(田舎)風音楽のエスティーロ,ビダリーダスなどを歌い,コンサートに出席した数少ないクリオージォ観客の心に深く浸み込むほど,聴感に訴えて魅力的に堪能させた」とコメント記事を載る。このデビューの後にラ・ペルラ映画館にて数回の公演。その上,クラブ・プログレッソとコロン劇場に出演した。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

0 件のコメント: