2010年10月21日木曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)

(5)ポブレ パイカ(可愛そうな女)、このタンゴはフアン カルロス コビアンが1914年に作曲したタンゴ『エル モティーボ(動機)』にコントウルシが例の如く、コビアンに無断で詞を付けたもの。ガルデルは1920年9月26日にホセ リカルドのギター伴奏で録音した。ルンファルドではパイカとはグレラ(愛しい人)、ナイファ(乙女)、ミーナ(内縁妻)、パプーサ(魅惑な女)、ペルカンタ(愛人),ソファィファ(女)らの言葉の全部は女性の同異語になる。また、パイカ レトレチェラ(愛くるしい女)などと呼ばれる。普通、ブエノス アイレスではパイカなる女性はキャバレーに働き、客にカクテルをサービスしたり、世間話やタンゴダンスの相手もする。明け方のコリエンテスやコルドバ大通りのコンフェテリヤに店を跳ねた後で、二三人寄り添いテーブルを囲み、チューロ{a}と熱いチョコラテ{b}で朝食をとって居る彼女達の姿をよく見かける。タンゴのグアルディアビエハに登場する女性達も同じ様な姿であったろう。これらの主人公は大部分下町出身のヨーロッパからの移民者達や農場労働者達の娘で若い無邪気な乙女達であるが、最初憤例を重んじる慎みのある仕事に就くが、しかしながら、早熟の身でその状況を放棄すべく、やがて知りあった同じ身辺の若者達かヤクザ風伊達男か性質の悪い輩等に騙された挙句に身を崩して行く挫折への道を辿る。やがて夜の世界に入り込み、豪華華麗な容易な生活を知り魅惑された上に若さを過ぎ又はシャンパン溺れの果てなどによる、生活の乱れか病に冒された身の上。これはコントウルシがタンゴ界で最初に描いた詩の大まかな筋書きを形成する(後で彼の特許では無くなるが)。


注:{a} チューロとは小麦粉をドーナツ状にねり油で上げ砂糖をば撫した菓子風の食べ物
{b}チョコラテは棒状チョコレート(甘くない)をミルクと煮立てた熱い飲み物。
{c}ウイリアム音楽院はカルロス ディサルリの長兄ウイリアム ディサルリが設立した。コビアンとカルロスは同級生だった
{d}ガルデル‐フローレスの『マノ ア マノ』同名異曲だが前曲のヒットにより、コビアンは後に『ビエホ バンドネオン』と改名した













『El motiivo(動機)』
Mina que fue en otro tiempo
過ぎたあの時代には、ミーナは
la mas papa milonguera
稀な美貌のミロンゲーラ
y en esas noches tangueras
あの夜毎のタンゴ沙汰で
fue la reina del festin.
パティーの女王
Hoy no tiene pa ponerse
今日、身を寄せる場もなく
ni zapatos ni vestidos,
ドレスも無く、靴もなし、
anda enferma y el amigo
患いのみ、それに男達は
no aporto para el bulin.
逢引室にも姿みせず
Ya no tienen sus ojazos
それに、大きな瞳には
esos fuertes resplandores
その力ある煌めきもなく
y en su cara los colores
それに顔いろに
se le ven palidecsr.
浮かぶ蒼白さ
Esta en ferma,sufre y llora
病に倒れ、泣き、苦しみ
y manya con sentimiento
悲しみの上理解した...
de que asi,enferma y sin vento
こうして、病で銭もなし
mas nadie la va a querer.
誰人よりも恋焦がれ泣く...

Pobre paica que ha tenido
哀れな女は抱きつつ
a la gente rechiflada
人々を蔑みの
y supo con la Mirada
知り尽くし、まなざしで
conquistar una passion,
情熱を征服、
Hoy no tine quien se arrime
今日、誰人も寄り添うもの無く
por carino a su catrera.
寝床を慈愛ゆえ
Pobre paica arrabalera
可哀想な女、見捨てられて
que quedo sin Corazon!
心も失うありさまを!

Y cuando de los bandoneones
そしてバンドネオンが
se oyen las notas de un tango,
タンゴの旋律をかなでる、
pobre florecita de fango
哀れな泥濘の花
se siente en su alma vibrar
あんたの魂は打ち振るえ
las nostalgias de otro tiempos
あの過ぎしときに郷愁ゆえ
de placers y de amores,
愛と快楽、
hoy solo son sinsabores
今、ただ味も無く
que la invitan a llorar!
咽き泣きの誘惑のみ!
この曲の作曲者はフアン カロルス コビアンでピアニスト、多くの有名なタンゴを生み出している。1896年5月31日にブエノスアイレス州南部バイアブラカ近郊のビゲー生まれ、スペイン人マヌエル コビアンを父に、母シバナ コリア(亜国人)の間に誕生。幼少から姉ドロレースの影響によりピアノを習得。バイアブランカ市にあるウイリアム音楽院{c}に入り、ヌーマ ロソーティーに師事。ここでカルロス ディサルリと同級になる。コビアンは1913年にブエノスに上京、ビヤホールや無声映画館で演奏活動をした二番演した。その同年徴兵義務を無視したが、3年後に官警の逮捕下のもとに義務を強制される羽目になり、その状況化でかの有名な『ア パン イ アグア(パンと水の為に)』が誕生した。『サロメ』、『エル モティーボ』、『マノ ア マノ』{d}、『エル ボティーハ』、『エル カタンガ』など多数の曲を生み出した。そして、歩兵連隊を退役し夜の世界に返り咲く。その後オルケスタ アローラスに参加後、バンドネオン奏者リカルド ゴンサレスとバイオリン奏者 フリオ ドウトリーとトリオを結成。1922年オスバルド フレセド6重奏団い参加。アブルジャクラブであの華麗な『ミ レフヒオ(我が隠家)』を発表。このクラブの経営者に薦められ、ペドロ マフィア、ルイス ペトルチェリ(バンドネオン)、フリオ デカロ とアヘシラオ フェラッサーノ(バイオリン)、ウンベルト コスタンソ(バホ)等のメンバーでコビアン自身の6重奏を指揮するが、直ぐ後に意見のくい違いにより、デカロがマフィアとぺトルチェリを伴い脱団してこのコンフントは解散した。1923年コビアンはある一人の北米女性の後追いの末、アルゼンチンタンゴ界から姿を消す。北米において彼は仕方なくジャズバンド演奏する羽目になる。又、ロドルフォ バレンテイーノスタイルを生み出したアンディーバリェーのタンゴの二番煎じに甘える。後に『ノスタルヒアス』、『ロス マレアードス(酔いどれども)』、『ラ カシータ デ ミス ビエホス』などを発表。偽ウイスキーとガンガスターの世界とジャズとタンゴの交代に飽き飽きして1928年に帰国。フランシスコ フォレンティーノ伴奏、シリアコ オルティス,カジェタノ プグリッシらとティピカを組むが、再度北国に向い1943年まで滞在、帰国後ラヂオ エル ムンドにオルケスタを指揮した。1953年12月10日、57歳でこ世を後にした。

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