2009年12月16日水曜日

ガルデルの足跡、悲劇編:再びメデジンへ、

ガルデル、メデジンを経由してカリに向かうが、、、
下の写真はボゴタ、テチョ飛行場SCADATAのハンガー、
次の写真はSACO便のパイロット、エルネスト・サンペール:                                                                             











1935年6月24日に一行はメデジン経由でコロンビア最後の巡業地カリ市に向かうべき、ボゴタを正午ごろスタンレイ・ヘビー米人パイロットの操縦するSACO便で出発、午後2時ごろにラス・プラジャス飛行場に着き、ガソリン補給とカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルと同時公演する映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機する。一方、エルネスト・サンペール氏はグラン・フリィンと共に双発機でボゴタを先に出発、メデジンでガルデル達を出迎える。SACO便の乗客はカルロス・ガルデル、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール、ホセ・コルパス、ホセ・プラハ、アルホンソ・アサフ、ヘンリー・スチュワルツ、セレドニオ・パラシオ(興行主)、乗務員、パイロット、エルネスト・サンペール、副操縦士、ウイリアム・フォスター、運行係り、グラン・フリン、全13名。
SCADTA便は乗客、エスタ二スラォ・スレタ、ギジェルモ・エスコバール、ホルへ・モレーノ、レスター・ストラウス、乗員はパイロット、ハンス・ウリッチ、機関士、ハーツマン・フアースッ、助手、フアン・カスティージョ(15歳)、全7名。そして、その後にサンペール氏に操縦を任せたフオードF-31機は、滑走路の南端から北へカリのパランケーラ飛行場に向かう滑送を開始した後、500メートル位で上昇初めた瞬間に待機していた、SCADTA便の“マニサレース号”の上に墜落し炎上する。 
時は1935年6月24日午後2時58分ごろ(ガルデル51~4歳)、一瞬の出来事であった。SCADTAの乗員7名全員とSACO便の乗員8名即死、アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡、アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に死亡した。 

(*)事故の生存者:
SACO便の乗客の中で生存者が三人いた。ギタリストのホセ・マリア・アギラールで、彼はウルグァイ人でメデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長い期間滞在している。そして、ホセ・ラサーノと電報での連絡のやりとりの上、ガルデルの遺体をモンテビデオに送る手配を試みたが失敗した。この人アギラールは不運な人で1951年にブエノス・アイレスで交通事故のために60歳で命を落としている。  
二人目のホセ・プラハはガルデルの英語教師とマネジャーを勤めていた。彼はフランス、シェルブール港から1929年5月11日出航、5月27日にニュー・ヨーク到着後弟と商業に従事していたが事業に失敗して、ガルデルに仕える。スペイン国ムルシアの故郷アンパルダン・デ・へローナに帰り、後に数回の手術で回復した。プラハス氏は40年後のあるラジオ番組へのコメントでは、『あの事故はもう時効になった、何も話たくないと』かなり素気のない返事をしている(その時のインタビューでのプラハス氏本人の肉声を録音したテープがある)。彼は1982年9月11日82歳で死亡している。 
三人目のグラン・フリィンは米国人で1904年12月22日生、当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていたので、墜落の際にすぐ飛び降り、無傷で命拾いした。 彼は身を隠し、関係者の誰もが彼の行方を探した形跡もない隙に、9月3日にプエルト・コロンビアから脱出して、9月11日にニュー・ヨークに帰り着いた。後 にフロリダ、ジャクソンビルに住み着いた末に、1983年10月26日に78歳で死亡しているのだが、この人の証言が全く無いのが残念である。 

(*)事故原因の真相は:
この事故の原因については、オラージャ・エレーラ飛行場での自然現象の航空条件欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向けの強い突風に巻き込まれたか、サンペールパイロットがマニサーレス号へ目掛けて急降下のアクロバット飛行を試み、失敗して墜落したとか、機内で喧嘩騒動があり、誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したという憶測が語られていたが、しかし、後年アギラールとプラハ両氏らはそんな騒動は起きていないと否定している。騒動の疑いは憶測としてガルデルの遺体から銃弾が検出された為であるが、この銃弾は1915年12月末にキャバレー・パレード・グラスを出た時に後を追いかけて来た人物にいきなり拳銃で撃たれた時の銃弾で、医者が摘出せず放置した為である。 

1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者とのインタビューによると、『サンペール機は200m位の距離を滑走してマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。これらの数々の原因を上げられているが、二つの航空会社のライバル的紛争から事故は起こるべきして起きたのではないかと思われる、その騒動が4日前に起きている。それは、重要な観客(ガルデル達)を横取りされたSCADTAのドイツ人ハンス・ウリッチ操縦士がサンペール機に向かって急降下飛行を行い、脅かした事件がそれだ。 
SACO社の関係者の中には、サンペール氏が仕返しをメデジンではなく、カリのパランケーロ飛行場で行うつもりで居たと予謀していたらしい。 
1969年、丁度24年後に雑誌記者がプラハ氏にインタビューした際にSACOのモーリソン氏が事故の前日に『カリへ行くにはアンデス山脈の樟高4000m級を越えるために燃料を満タンにして、霧の出ない朝早く出発する必要がある。もし、遅く出発する場合は燃料を半分にして、メデジン経由でカリに向かう空路をとる予定』との報告を受けていたと、コメントをしている。この証言は重要で、SACO便は何故、ボゴタから最短距離(510km)の南南西方向のカリに行く空路をとらず、北北西方向の399km先のメデジンに向けて空路を取ることにしたのか理解できる。まず、何かの理由で出発が遅れ、パイロットは既に霧の発生しているアンデス山脈越えが不可能だと判断し、霧の出ていない方向のメデジン経由でカリ行きを選ぶ。メデジンから真南方向へ456km先のカリ行きはカウカ川の上空を上流に向けた空路をとれば、由り安全であると判断したわけだ。(現在もボゴタからアンデス山脈を越えてカリ、ネイバ、イバゲの各都市へ行く小型航空機は霧の出てない朝早く6~7時ごろに出発する)。このコース変更がガルデルを事故に巻き込んだ、運命のいたずらだったのだろうか。


(*)事故後の新聞の報道は:

1935年6月25日、パリ:歌手ウルグアイ人、カルロス・ガルデルは飛行機墜落事故で死亡、南米各首都で深い衝撃を引き起こす、故人は偉大な敬意を享受していた。

1935年6月27日、トゥールーズ:ガルデルの興行主アルマンド・デフィーノ氏は型どうり、歌手ウルグアイ人の不幸な母親ベルタ・ガルデス夫人を同伴して南米に向う、、、、



















(*)ガルデルの遺体の行方は:

ガルデルの遺体はメデジン市内のサン・ペドロ墓地(この墓地には1995年6月24日にガルデルへの60年追悼記念プレートが捧げられた)Local 34 Galeria de San Pablo Norte Fosa No2(サン・ペドロ北側の回廊,2番墓地)に埋葬されたが、デ・フィーノとアギラールの間で、ガルデルの遺体を巡り、奪い合いを繰り拡げた形跡がある。それにしても、数々の複雑な問題を如何に解決したか不明だが、結局は12月11日にデ・フィーノは教会に遺言書(謎の)を見せて故人は亜国出身者と語り、   
 死亡証明書の入手に成功した。
その年の12月29日にガルデルの遺体は再び御棺に入れられた後、メデジンから鉄道を使い南の村落ラ・ピンターダまで行き、そこから馬車でバルパライソまで行く、先は道路が途切れているため、ロバ数頭を仕立て、カラマンタ、マルモトの村落を通過、スピーアで村民にガルデルの遺体であることが知れ渡り、村の中心広場の教会で追悼ミサが捧げられた。スピーアから馬車でリオスシオ、アンセルマと続きペレイラに到着した後。今度は鉄道でカリ市の近くの太平洋岸に在るブエナベンツーラ港へ到着した(この旅は8日間費やした)。そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936年1月17日、ニューヨークに到着した。ここでも壮大な通夜と葬儀が行われ、1月25日、8日後に代理人デ・フィーノ氏夫妻と共に豪華船パンアメリカーナでブラジル経由をして、2月4日にモンテビデオ到着した。ガルデルの御棺は旧友ホセ・ラサーノ、フランシスコ・カナロらに迎えられ、ブエノス・アイレスまで同行する。
1936年2月5日、午前11時、ブエノス・アイレス到着。ダルセーナ北岸壁には三万人の群集が出迎える中を、ここでも旧友レギサモを初めにフランシスコ・マチオ、リベルター・ラマルケ、ソフィア・ボサンらが葬儀馬車まで御棺に付き添いルナパークへ向かう。ルナパークではカトリック宗教上の習慣による祭壇が祭られ、フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタの演奏でロベルト・マイダが“シレンシオ”を二回繰り返し歌う。翌6日に壮大な葬儀が行われ、ルナパークからチャカリータまでの道のりは別れの群集で渦リ、群集の中には葬儀馬車からガルデルの御棺を降ろし、彼等で肩に担ぎ行進を試みる輩さえ出る始末で、相当な騒動でチャカリータ墓地への到着に非常に難儀を強いられた。(小生、1973年7月の冬のころに、ペロン大統領凱旋の帰国後間もなくの老衰で命を落としたときの国家葬儀での、一頭立葬儀馬車の行進の行方を目撃したが、当日あいにく雨降りの薄寒い日であったので、何とも悲しくも寂しい行進だった様な記憶がある)。この葬儀と比較して、ガルデルの葬儀行進は如何に騒騒しくも悲しさも増し、群集の狂気が迫る様子が目に見える。当初、遺体はパンテオンに安息収まれ、翌年‘37年11月7日に現在の募樟に祭られた。ガルデルの銅像(作者はマヌエル・デジャノ氏)の後ろの記念納骨碑はアギラールの提案と努力でフランシスコ・カナロが音頭をとり、ラヂオ放送にて民衆に呼掛け、一ペソ寄付運動を起こし、多数の団体や民衆からの慈善的寄付に余って、‘50年ごろ完成されたものだそうだ。ガルデルの遺体の奪い合いの事件に後談があり、前提の新聞記者アントニオ・エナオ氏は、遺体は‘36年2、3月ごろデ・フィーノ氏によりサン・ペドロ墓地から亜国に送られたと証言しているのだが。また、ニューヨークのエルナンデス葬儀社での御通夜の時、ガルデルと共演した音楽家“ドン・マジョ”氏と幾人かは、『あの遺体は歯形が違うからガルデル本人ではない』とアルトゥール・セスタン記者に語り、記者氏はその証言を手紙でマエストロ・フリオ・デ・カロに知らせいる。また、他説によると、ガルデルの遺体はサン・ペドロ墓地から運び出された形跡は無いとの証言もある。何故ならば、コロンビア国カトリック教会の法令では、埋葬された遺体は向こう4年間動かすこと禁じているからだ。ガルデルの友人イレネオ・レギサモ騎士はチャカリータ墓地には、絶対に行かないと言っていたらしいが、何か秘密を感知していたのだろうか。ガルデルのギター奏者アギラールも何か秘密を嗅ぎつけたような言動をしていたようだ。しかし、余りにも年月の過ぎ去りし、数々の疑問は永久に謎のままサン・ペドロの墓地か、チャカリータに秘められているにも関わらず、今日現在もアルゼンチンとウルグアイとの間で、ガルデルの出生地を巡り論争が換わされている。何か悲しくも虚しい論争と思いますが、、、 





















El Bohemio記

  ガルデルの芸能活動ー2編、レコードリストへ続く:











 




3 件のコメント:

洋司 さんのコメント...

 生き残りのひとりグラン・フリィンが怪しそうですね。例えばパイロットに会社の意向として何か指示したとか。
それもこれも所詮憶測といわれればそれまでですが、我等ファンを含め遺された者たちはなかなか納得できず追及したかったですね。

El Bohemio さんのコメント...

タンゴカブキさん、グラン・フリンが犯人説ですか?
私はやはりサンペールがアクロバット飛行に失敗して墜落したと見ているのですが。難しい、今となてっは原因追及不可能でしょう。

El Bohemio さんのコメント...

小生の舅曰く、ガルデルを越えるタンゴ歌手は存在しないと口癖の様に言う。この彼もガルデルはフランス生まれと信じている。彼はガルデルが飛行機事故に遭遇した当時8歳であつた。
其の時の彼の記憶では、ガルデルの死のニュースを知り数人の若い女性が自殺した事件を思い出すと語してくれた。