2009年12月1日火曜日

ガルデルの芸能活動ー1:(1)ガルデル少年,パジャドールと共に

ガルデルは少年時代にパジャドールに影響を受けた歌唱スタイルを身につけて、いよいよ本格的にタンゴの世界に登場するのです。


1900年:ガルデル少年(16歳)は出生地タクアンレンボー近辺をうろつき、果てはタンボーレス、パソ・デ・ロス・トーロスまで行きやがてタクアレンボー郡のベニグノ・ゴジェ氏経営のエスパニョール・ホテルで料理助手として働き始める。ここで幸運にもそこに住んでいたパジャドール・ルイス・ビジャルビにウルグアイ地方固有の“エスティーロ”や“ビダレス”の歌とギター奏法の手ほどきを授けられる。ビジャルビはウルグアイ詩人エリアス・レグレス郷土協会の伝説的創立者であり、又元租的パジ  ャドールでもある。彼は事ある毎にガルデル少年を地元の政治会合やその他の集会に連れて行き、歌う機会を提供したのである。その後ガルデル少年はモンテビデオに出て、リオ・ブランコとコンベンシオン通りの交差するイスラ・デ・フローレス通り(カルロス・ガルデル通り)のコンベンティジョ(古いイタリー固有の住宅)に落ち着く。昼間は建築現場で壁塗り労働をこなし、夜は近辺のカフェーで歌う生活を負う内に、ここでパジャドール達のアルトゥーロ・デナバ、ホセ・ベティノティ-らに知り合う。
1902~3年:ガルデル少年(18~9歳)“モローチョ・デ・アバスト”と綽名される。ヴィクトリア、アポロ、エル・コリセオ、エル・ポリテアマ劇場の楽屋道具方や拍手喝采する“さくら役”を務めている頃にオペラ劇場でイタリーから初めてブエノス・アイレスに公演に来たオペラ歌手ティタ・ルフォに知り合い、彼からオペラ歌唱法の初歩の手ほどき受ける。また、アバスト街のトラベルソ家のカフェ・オロンデマンに姿を現すようになり、毎晩のように何かしかの歌を唄い、其の代償に夕食をとる約束を取り付けていたが、やがて、ボーカ地区でアルトゥーロ・デナバ、ホセ・ベティノティーらのパジャドール達に再会する。彼等と共に頻繁に政治会合の夜会にギターを抱えて歌う姿が見られる様になる。
1904年5月、社会主義者アルフレッド・パラシオスの勝利の際にボーカ地区のジノ・ガリバルディーの店にホセ・ベティノティーとアンブロシオ・リオスに伴われ、ピアノ奏者アルフレッド・ベビラカも合流して会合を盛り上げた。前年、トラベルソ家の息子アグスティンが殺人事件を引き起こし、ほどほど仮釈放された機会に彼をモンテビデオからタクアレンボーにある叔母のエロディーナの農園に連れて行き、従姉妹アマンダ、マヌエラらを紹介している。ガルデル自身はとんぼ帰りにブエノスに戻るが、間もなくウルグアイはアパレシオ・サラビア左翼団体により革命暴動の政治混乱に巻き込まれる。
1905~7年:ガルデル出生の秘密の後期で述べたように、彼はウスワイアの刑務所で2年間ほど牢獄生活を負う。

1908~10年:刑務所を釈放された後はモンテビデオ、タクアレンボー、パイサンデゥー(叔母の経営するカフェーで唄う)に出没するが、この時期のガルデルの行動は謎の霧に包まれたままである。
1911年(27歳)ホセ・ラサーノとの出会い:ガルデルはアバスト街のそこの持ち主で地元の政治ボス、トラベルソ兄弟の一人のコンスタンティノはある日、政治会合の席にガルデルを連れて行く。そこにはパジャドールの面々が居揃う中で、その一人旧知のホセ・ベティノティーからギターを渡され、彼の持ち曲“Mi Madre Querida(ミ・マドレ・ケリーダ)”を披露したら、満場の喝采を受けた。そのころホセ・ラサーノは既に南バルバネ―ラ街(アバストより少し洒落ては居たが、何れも同じ様な貧しい街)のCafé del Pelado(カフェ・デル・ぺラード)で民謡を歌い活躍し、人気を得ていたが、ガルデル人気の噂をそれとなく聞きこみ、友人ルイス・ペジセールにガルデルとの出会いの場の機会を頼む。そこで、ペジセールはガルデルにラサーノとの歌合戦を仕組み、その場所を提供したのが、ピアノ奏ひきのジエーナと言う人だったわけだ。その後、エンリケ・ファルビオの家でラサーノに再会する。
“カサ・スイサ”の慈善興行でラサーノと再会の末に合同し、マルティーノとの三重唱を始める。ホセ・ラサーノは直ぐにこのトリオを抜け出してしまう。

1913年初め:ガルデル、マルティーノは二人で開通したばかりの鉄道を使い、パンパを西へ150kmのチリビコイから500kmの行程をパンパのど真ん中に位置するヘネラル・ピコまで三ヶ月かかりの巡業に出るが、技巧も無い初歩的なグループであつたため完全に失敗に終わる。やがて、サウル・サリーナ(チリー人でクージョ地方の歌い手)に知り合い、カルロス・ガルデル、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノ、サウル・サリーナらでクァルテート(実際はデゥオの二組)を組んで、首都ブエノス・アイレスから西へ50kmのサラテのカーニバルにデビユーするが、ここでも興行は完全な失敗となり、それでも巡業はパラナー川沿をラス・パルマ、①サン・ペドロまで行くが、ここでサリーナが脱落、グループを脱退する。 
1913年6月頃から、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノとの三人で巡業を続けて行き、7月11日、モレーノ:①へネラル・ピコ:①サン・ニコラス・デ・ロス・アロージョス(パラナ川畔、ロサリオから50kmほど首都より):①ペルガミ‐ノ(200km)と続き、


8月10~13日、ロハス:ソシアル・クラブ、プログレッソ・クラブ(新聞の来訪記事にはガルデスとある)、8月18日、①フニン(ペルガミーノから西南75km):クリスタル・パラセ映画劇場に出演、8月27~29日、①メルセデス:コンフェテリア・サン・マルティン(Calle 26 y Esquina 25)、①チャカブコ~①アルベルティ~①ブラガード、の各地に至り、9月18日、①バイア・ブランカ:ソベス,カルロス映画館に出演、ヘネラル・ビアモンテ:Cuarenta y Tres(43)映画館と続き、そこでマルティーノが病気になり首都ブエノスに戻る破目になる。

ホセ・ラサーノと二重唱の始まり:
決局はまたまたホセ・ラサーノとの二重唱に舞い戻りとなる。今までの巡業で歌ってきたレパートリーは数も増えて、クリ―オジャ、エスティーロ、シフラ、バルス、そして、作曲家であるマルティーノ、サリーナ(クエッカ、トナーダ)クリスティーノ・タピア(サンバ、チャカレーラ)らから習得した収穫は多く、よりいつそう歌法に富さを増して行く。 
1913年11月6日(別のデータによると1912年8月13日):ガルデル‐ラサーノ二重唱およびギター伴奏は彼ら自身により、タジーニ商会にコルンビア(アトランタ)・レーベルによる、初めてのレコード吹き込み(機械式アコースティク録音)をする。1:Sos Mi Trador Pratiao(estilo),2:Yo Se Hacer(cifla),3:La Mananita(estilo),4:曲名不明、5:A Mi Madre(estilo).6:Me Dejaste(estilo),7:Mi china Caburera(estilo),8:El Sueno(estilo),9:Pobre Flor(estilo),10:La Mariposa(estilo),11:Es En Vano(cancion),12:Brisas De La Tarde(cancion),13:El Almohadon(vals),14:A Mitre(vals)15:Mi Madre Querida(vidalita),全15曲。7枚のSp盤で発売される。

1913年12月28日:フランシスコ・タウロに“マダム・ジェネネッティー(怪しい家)の家でのパーティーに招待され、この集まりは年をあけて新年1日の朝まで続き、其の時に俳優パプロ・ポデスターに知り合う。その彼にナショナル劇場の出演を一日70ペソ(ガルデルはこの報酬が週か月払いとかと思い一日分と知りビクツリ仰天)の報酬で約束される。

1914年1月8日にガルデルとラサーノはキャバレーArmenonville(アルメノンビリャ)に出現する。そこにはロベルト・フィルポ、エドゥアルド・アローラス、ティト・ロカッタグリァタと当時の怱々たるタンゴ楽団のマエストロらに巡り会う。




1914年1月9日、ブエノス・アイレス:ナショナル劇場でホセ・ラサーノとの二重唱でフランシスコ・ドゥカーセ、エリアス・アリピー劇団に共演。
1914年3月、日付け不明、ブエノス・アイレス:アポロ劇場、アルセニオ・ペルディゲーロ,ロベルト・カサゥクス劇団と共演、“Café de los Angelitos”に頻繁に出没する。
1914年6月日付け不明、①ロサリオ:コロン劇場、ホセ・ラサーノとエンリケ・アレジャノ、パンチート・アラナス劇団と共演
1914年7月11日~8月3日、①コルドバ:ノベダー劇場でホセ・ラサーノとビトネ‐ポマール劇団と共演
1914年8月日付け不明、①サンタ・フエ:チャルマン劇場
1914年9月4日、①ロサリオ:グラン・カフェ・ボルサに出演
1914年9月21日、ブエノス・アイレス:タンゴ“インテルナード”で有名になった、医学生イーンタン達の第1回目のダンス・パティーが始まる。 このパティーは毎年9月21日に行われ、11回目まで続く(有名タンゴ楽団、歌手の作曲参加、後年当然ガルデルも関係した)。
1914年10月15日、ブエノス・アイレス:オルフィリア・リコ‐フアン・マンジアンテ劇団とモデルノ劇場(現在リセオ劇場、1872年に落成Rivadavia 1495 Bs,As)
1914年10月、日付け不明、ブエノス・アイレス:グラン・スプレンディー劇場出演、

1915年の活動:ホセ・ラサーノとの二重唱、“ナショナル”レーベル・レコードの吹き込み録音の続きと地方巡業の後、ブラジルへ初の国外巡業へ、
1915年1月7日、①ラ・プラタ:デル・ラーゴ劇場、
1915年6月、①サン・フアン:サルタ、フフイ
1915年6月10日、①サンティアゴ・デ・エステーロ:ぺティト・パライス劇場、から

1915年6月15日、モンテビデオ:キャバレー・ローヤル(Bartolome Mitre y Reconquista)でデビユー、友人マヌエル・バルカがガルデル‐ロサーノをローヤル・キャバレーの経営者のビスコンティ・ロマーノに紹介し、ローヤル・キャバレーに彼等の出演が実現する
1915年6月17日、モンテビデオ:ローヤル劇場、ラサーノとの二重唱で“ラ・パストーラ(サリーナ作)”、“エル・パンガレ”、“アイ、アイ、アイ”初め数曲歌う
同日夜、“ディシオチョ・デ・フリオ”劇場でエンリケ・アレジャーノ主演劇団と共演
モンテビデオでリオ・プラテンセ・ドラマティク楽団と合同し、ブラジル行き興行を決行する。
1915年8月15日、客船インファンテでブラジルに向う、船内でオペラ・テノール歌手エリコ・カルーソに知り合う、
1915年8月25日~9月14日、サン・パウロ:ムニシパル劇場、(9月4日、コンセルバトリ・オムシカルにも出演)
1915年9月14日~19日、サン・パウロ:パレセ・シャアター劇場
1915年9月24~29日、リオ・デ・ジャネイロ:ムニシパル劇場、観衆多く入らず、あまりヒットしなかつた。(この時期まではガルデル、ロサーノ自身がギター伴奏をも受け持っていたらしい)
1915年10月23日、ブエノス・アイレスに戻る、サン・マルチン劇場でフアン・モレイ劇団と共演。
1915年11月9日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場でホセ・ゴンザレス・カスティージョ、エリアス・アリピッ監督の興行"FUAN MOREIRA(フアン・モレイア)”劇団と共演、ホセ・リカルド、オラシオ・ペトロッシの二人が指揮いる20人のギター伴奏でガルデル‐ラサーノは歌う、彼らはホセ・リカルド、オラシオ・ペトロッシらの技巧に感嘆し、ホセ・リカルドを伴奏者に誘う(鼻髭を落して貰う条件で)。
1915年12月11日、ブエノス・アイレス:パレード・グラス(シャンパンとタンゴで有名な場所)公演のあと、友人エリアス・アリピィとカルロス・モルゴンティらと馬車でアルベアール大通からパレルモへ向う途中、跡を付けて来た3台の馬車うちの一人、ロベルト・ゲバラ(チェ・ゲバラの祖先とされる人物)が『もう二度と歌わせないぞ!』と叫びながら、いきなりガルデルの背後から発砲し、ガルデルは背中に銃弾を受け負傷する。傷の手当てをした医師は肺の近くに進入した銃弾を適出せずに放置したために、(後年のメデジンで飛行機墜落事故の遺体からこの時の銃弾が発見された)機内で誰かに打たれたと誤報報道された。傷の治療にウルグァイ、タクアレンボーの農園に退き込む。 

1916年の活動:ホセ・ラサーノとの二重唱でホセ・リカルドをギター伴奏に迎えブエノス・アイレス及び近郊とモンテビデオでの公演。
1916年1月、日付け不明、モンテビデオ:ポリテアマ劇場に出演、ラナタ・ホテル、セルバンテス・ホテルに宿泊、レストランMorini y Stradella(モリニ・イ・ストラデーラ、モンテビデオの中心地にあり、今でも営業している?)によく通う。
1916年1月25~30日、②ラ・プラタ:、オリンポ劇場、
1916年2月10~24日、①マール・デル・プラタ:、オデオン劇場とマルコーニ劇場で女優オルフィリア・リコ、トナディジェーラ・テレシータ・ササ及びパストーラ・インペリー・ダンサーらと共演、
1916年2月1~6日、③ラ・プラタ:デル・ラーゴ劇場、
1916年5月、ブエノス・アイレス:ムィニョ-アリピィー劇団と共演
1916年6月、モンテビデオ:ムーラン・ルージェ・キャバレー(Cabaret Moulin Rouge)でパスクアル・コントゥルシ(1910年ごろからギター弾き歌いで活躍していた)がガルデルの前で“リタ(サムエル・カストリオタ作)”を披露する。ガルデルは後日エンピレー劇場(?)で、この詩を“ミ・ノーチェ・トリステ(Mi Noche Triste)”としてサムエル・カストリオタの曲を歌う。最初の本格的歌唱タンゴとしてレコード番号18010Bで吹き込み、二回目(出だし歌詞が違う)は‘30年4月24日、レコード番号18812Aで吹き込みされている。
1916年8月、ブエノス・アイレス:同劇団とヌエバ劇場に
1916年7月19~27日、②ロサリオ:パレセ・シャアター劇場、
1916年10月、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場(現在の名前はマイポー)
1916年12月2~4日、④ラ・プラタ:、オリンポ劇場
1916年12月、モンテビデオ:ロへリオ・フアレス、ロラ・メンプリペス主演俳優のサルスエラ劇と共演でウルキサ劇場に出演。



ガルデル、タンゴを唄うに続く。

1 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

ガルデル少年が出生地タクアレンボーで知るパジャドール元租的人物ビジャルビこそカルロス・ガルデルの未来を授けた人物でありましょう。そして、あれ程までまで故郷タクアレンボーを頌着していたかにより彼はウルグアイ生れに違いないのです。