2009年12月15日火曜日

(4)ガルデル、フランスにデビュー:

ガルデル、いよいよフランスにデビュー:


(*)1928年6月、ブエノス・アイレス:ガルデルのギター伴奏にもう一人、ホセ・ラサーノの仲介でベテランのホセ・マリア・アギラールが参加する。
彼はゴメス‐ビラ、イルスタ‐フガソッとの両二重昌のギターリツスト及びアスセナ・マイサーニ、リベルター・ラマルケ、プリンシペ・アスールらの伴奏者も務め、ガルデルはアギラールのプア技巧(PUA爪をつかった技巧)に優れているので気にいったらしい。 
その上作曲もする、“アニョランサ(郷愁)”18262A、“テンゴ・ミエド(恐れ)”18934A、がある。
1928年6月20日~7月6日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリとレコード録音開始、27曲録音
1928年6月18日、ブエノス・アイレス:マジェスティク映画館にてホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールを新たに加えてギター三重奏でデビュー
1928年7月6日から約2か月間、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラールを加えて、ラジオ・プリエトに出演、
1928年8月23日~9月6日、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラールが参加し、レコード録音は“エスタ・ノチェ・エン・ボラチョ”から開始される。16曲録音
1928年8月27日~9月3日、モンテビデオ:ソリス劇場



1928年9月12日、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールの三人のギター奏者らとルイス・ペッロティー・マネジャー及びアントニオ・スマジェー運転手とガルデルの自家用車グラハム・パイジェを積み込み、客船“コンテ・ベルデ”に乗船、パリに出発、バルセローナで下船、グラハム・パイジェでパリまでドライブする。
待望のパリにデビユー、当時既にパリには、マヌエル・ピサーロ楽団、ビアンコ・バチ―チャ・タンゴ楽団が活躍していた。

1928年9月30日、フランス、パリ:フェミーナ劇場(シャンゼリゼ大通90番凱旋門の近く、現在も存在するか?)にデビュー、
1928年10月2日~1929年2月5日、パリ:フロリダ・キャバレーに出現、最初のジャズ公演で騒々しい場内はガルデルが“アディオス・ムチャチョス”を歌い始めると、場内は以瞬静粛になり観衆から唖然とした空気とため息がもれ、ガルデルの“アディオス”が終わると場内の観衆の万来の拍手はやりしずまず、ガルデルは次の歌に入れず、場内は騒然の繰り返し、(そこに居た“アディオス・ムチャチョスの作者セサル・ベダーニの証言)“エル・カレテーロ“、”カミニート”、“マノス・ブルーファ”、“ケハス・デ・アルマ”、“ラス・ マドルセルバ”、“ラ・クンパルシータ”らをヒットさせる
1928年10月11日~1929年4月6日、パリ:フランス・オデオンにレコード吹き込み録音開始、“ピエダー”18250A番から”プリメーロ・ジョ”まで56曲録音した。

1929年1月、イタリー行き、ルイジ・ピランデージョ氏案内同行の旅で数週間の休暇をとる、
1929年1月末~2月5日、パリ:オペラ劇場、“BAL DES PETITS LITS BLANCS”
フェスティバルでマウリセ・チェバリエル、ライムー、ルシエン・ボジェール、リッ・コツイらと、そして、オスバルド・フレセド楽団も共演、このショーの観客にガストン・ドーメルメ・フランス大統領が観席に居て、“エル・カルテーロ”をアンコールする、ガルデルは丁重にこの曲を数回繰り返して歌う。 フロリダ・キャバレーにも出演した、
1929年2月8~19日、カンヌ:カジーノに出演、
1929年2月22日、パリ:エンピレー劇場の公演、オデオン・スタジオで四曲レコード録音する
1929年3月8日、パリ:フロリダ・キャバレー、
1929年4月23日、バルセローナ:プリンシパル・パレセー劇場(現存するが1983年に建物封鎖される、(Las Ramblas de Cataluna #27)出演,
1929年5月5日、マドリード:インペリアル劇場、この後ギター奏者ホセ・リカルドはガルデルの元を去る事になる、14年間も共演した。ホセ・リカルドはヨーロッパに残留。
1929年5月16~26日、マドリード:アベニーダ劇場、
1929年6月17日、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールと共に客船コンテ・ロソーでブエノスに向う。
1929年6月20日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでレコード録音に専念する143曲録音した。
1929年10月6日、ブエノス・アイレス:メトロポール劇場、



(*)再びスペイン公演:
1929年11月23日、バルセローナ:プリンシパル・パレセ劇場
1929年12月6日、バルセローナ:インペリアル劇場、
1929年12月31日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでホセ・ラサーノと最後の録音、“クラベル・メンドシ-ノ”18801A、“セラーナ・インピア“18804Aの二曲、
ガルデルは“ネグロ”リカルドが抜けた後、必要に迫られて新しいギター奏者を追加するための候補者選びをバルビエリとアギラールに託す、数人の候補からガルデルが選抜したのはアンヘル・ドミンゴ・リベロールである。リベロールは“マガルデイー‐ノダ”二重唱を三年間の伴奏経験があり、その上に美しい喉をも備え、ギター奏法では特別に低音トーンのボルドーネのテクニックに優れている、
1929年9月から、リベロールはガルデルのギタートリオに参加し始めるが、オデオン・レコード録音には、契約上の問題で直ちには参加できず、しばらくは劇場などの興行公演のみの参加が続く。
アルゼンチン国内巡業、ギジェルモ・バルビエリとホセ・マリア・アギラールとのギター二重伴奏でロサリオ、コルドバ、フニン、マール・デル・プラタ、タンディル、バイア・ブランカ、と廻り、ブエノス・アイレスに戻る
1930年1月3~7日、⑥ロサリオ:バリエテー映画館
1930年1月9~12日、⑥コルドバ:パレセー劇場
1930年1月14日、①カニャダ・デ・ゴメス:ベルディ劇場出演、駅の近くのウニベルサル・ホテルに宿泊する。駅から徒歩でホテルまで行く途中付いてきた少年に荷物を持たせ、あとで新聞を買いに行かした駄賃に5ペソを与える。貰った少年はその多額に驚いたらしい。また、ガルデルは舞台に上がる前に一人でホテルの食堂に入り、大好物のパスタ(スパゲティ)ーをモソ(給仕人)エレステ・バルベジョ氏に注文する、食事のあとダイニングに挨拶に行き、劇場の入場券を数枚配る光景をダムアーノ夫人(ガルデルの絵を描いた人)が思い出をのべている。その日のベルディ劇場は超満員、公演が終わるとバルコニーに出て、入れなかつた群集に向かい数曲タンゴを歌う、バルコニーの前には通り向こう大木には鈴なりの人だかりと化したと言う。
1930年1月18,19日、③フニン:クリスタル・パレセ劇場、
1930年1月25日、アベジャネーダ(ブエノスの隣):エル・プロベニール映画館、
1930年2月7日、⑤マール・デル・プラタ:オデオン劇場、
1930年2月19,20日、④タンディル:セルバンテス劇場、
1930年2月21~23日、②トレス・アロージョス:プラサ・ホテルに宿泊
1930年2月24~27日、④バイア・ブランカ:パラシオ映画館
1930年3月20日、ブエノス・アイレス:アンヘル・リベロールの参加した、ギジェルモ・バルビエリ、ホセ・アギラールのギタートリオの伴奏でレコード録音が可能になり、タンゴ“フベントゥー”18995B番がこのトリオの最初のレコードとなる。
1930年4月1日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、ロドルフォ・ビアジ(ピア
ノ)とアントニオ・ロデオ(バイオリン)及びギタートリオ、バルビエリ、アギラール、リベロールらの伴奏でレコード録音をする。 曲は“ブエノス・アイレス”18808B番を初め6曲録音した。“ビエホ・スモーキング”も録音したが、ガルデル自身気に入らず没にした。
1930年4月10日~12月1日、ブエノス・アイレス:ホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロールのギタートリオでレコード録音、76曲録音。
ベルグラーノ放送に水曜、金曜の夜9時に歌う、エンピレー劇場、エルジー・シャアタ―映画館に出演
1930年6月3~12日、⑦ロサリオ:ルイス・アラタ劇団とホセ・アギラール、アンヘル・リベロールと共演でコメディア劇場出演、
1930年9月8日、ブエノス・アイレス:グラン・フロリーダ出演、
1930年10月4日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場出演、

(*)アルゼンチンで初めてのソノーラ映画撮影:
1930年10,11月~1931年? ブエノス・アイレス:エデゥアルド・モレイラ監督のもとで、フランシスコ・カナロ、フェディリコ・バージェとの共同作品をバージェ氏のスタジオにて、アルゼンチン最初の音声付短編映画撮影に入る、この映画の中でガルデルはセレドニオ・フローレス、エンリケ・サントス・ディセポロ、アルツゥーロ・ナバらの作曲家のテーマをギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール達のギター伴奏で“マノ・ア・マノ”、“ジーラ・ジーラ”、“テンゴ・ミエド”、“パドリーノ・ペラード”、“アニョランサ”、“カンチェーロ”、“エル・カレテーロ”、“エンフォンダ・ラ・マンドリーナ”、カナロ楽団の伴奏で“ビエホ・スモーキング”、“ロサ・デ・オトニョ”の10曲を歌う。
1930年11月22日、ブエノス・アイレス:ラジオ・スプレンディーの番組“オーラ・へ二アル”に出演、“ジーラ・ジーラ”、“テンゴ・ミエド”、“エル・キニネーロ”、“カプリチョサ”、“マニャーナ・デ・ソル”らのタンゴを歌う。


















1930年12月5日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、フランシスコ・カナロ・ イ・ス・セステートとレコード録音、“ラ・マリポサ”18858B他四曲録音、この録音セッションが終わると、ラヂオ・リバダビアの番組に出演、

(*)再びフランス行き:
1930年12月6日、客船コンテ・ロッソーにて、リカルド、バルビエリ、アギラールを従えフランスへ向う、まずニースでデビューの後、
1930年12月26~30日、パリ:エンピレー劇場に出演、
1931年1月15日~3月、ニース:メディテラーネー・カジノでグレゴール楽団とデビュー、ここで無声映画時代の名俳優チャールズ・チャプリンと知り合う
1931年3月、ニース:ギター奏者ホセ・マリア・アギラールがガルデルと意見合わずグループを去る。

(*)謎のスコットランド行き(この公演は歴代の伝記には登場していない):
1931年3~4月、スコットランドのエジンバラ、グラスゴー:同行したのは二人ギター奏者のリベロール、バルビエリだけで9箇所の都市を訪問したが、滞在した日付けも公演した劇場の名も宿泊したホテルの名も全然不明である。 
Haddington,Dunbar,Galashiels,Kelso,Maffat,Clovenfards,BowmoreIslay、各地を訪れた。




ガルデル、フランスで映画撮影をするに続く:

1 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

カルロス・ガルデルがスコットランドに公演していたと言う。
ガルデルの伝記を書いた、イギリス人、シモン・コリエール氏もご存知なかた?コレも彼ガルデルの知ざれるもう一つの謎の謎です。