2009年12月16日水曜日

(8)ガルデル、コロンビアに到着:



時は6月4日、バランキージャでコロンビアでの興行を受け持つセレドニオ・パラシオ氏とユニバーサル映画会社マネージャー・ヘンリー・スチュウール氏らと合同。 
パラシオ氏所持のアポロ(現在メトロ)劇場でデビュー、当時ここの土地の人達にとつてタンゴもガルデルも末たく未知のものにも関わらず、公演は超満員と先ず先ずのスタートをきる。ここはカリブ海に面し、気候、習慣もすべてトロピカルでサルサ、バジェナートなどの、可なり騒々しい動きの激しい音楽ものが好まれる処で、ガルデルのタンゴが受け入れられた事は驚きでもある。6月6日、ガルデル一行はSCDATA(*)便でカルタヘナに向う、6,7日と二日間バリエダー映画館で公演。この映画館は天井が無く、外の群集らは、ガルデルの姿を一目見ようと街路樹に鈴鳴りとなる始末。ここでも満員の入場者で、ガルデルは“トモ・イ・オブリゴ(Tomo y Obligo)”を三回も繰り返し歌う破目になり、ともかく公演は大成功を収めた。(バランキージャ、カルタヘナともガルデルの歌の資料が無い)


一行は再びSCADTA便でメデジンへ向う。メデジンには6月10日にラス・プラジャ(現オーラジャ・エレーラ)空港に到着した。ガルデルが行く後を付ける群衆や車の行列が出来る始末ほど、前代見聞きしない多数の群集が出迎えたとか。11~13日と三日間、エスパーニャ・サーカス風テント劇場に出演、4千人以上入場者が入る。フニン劇場でも公演、その後14日はエコー・デ・モンタニャー(山のエコー)放送局で番組に出演した。 
ただ残念なことに公演の内容の記録が無いのです。

ガルデル一行、ボゴタに向う: 
ガルデル達は6月14日午後2時にドイツ人ベルナルド・グルテリング操縦のSCADTA便でボゴタ市の小さなテチョ飛行場に到着。2万人ほどの群衆は飛行場内の柵を乗り越えて滑走路まで進入し、F-31機を降りてくるガルデル達を取り囲み車に乗るにも難儀の始末。

その上宿泊先のグラナダ・ホテルまで群集の行列が続き、町は熱狂した群集に沸き返る。
ガルデルのデビューはレアル劇場で映画”La batalla(ラ・バタジャ、闘争)との同時公演(当時の習慣による)レアル劇場の公演は15~17日まで、18~22日にオリンポ、ナリーニョ劇場にそれぞれ出演。合間の日にコロンビア民謡作曲家、エミリオ・ムリージョ氏宅に招待され、バンブーコ、“エル・トラピチェ(El trapiche)”の披露を受ける。
23日午後再びレアル劇場での公演、夜はボリーバル広場の脇にあつた“Voz de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。”シン・ソン(Sin son)、クエスタ・アバホ(Custa abajo)“、“エル・カレテーロ(El carretero)”、メロディア・デ・アラバル(Melodia de arrabal)、ノ・テ・デヘス・エンガニャール(No te dejes enganar)“、“シレンシオ(Silencio)”、”ルモーレス(うわさ、Rumores)“、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ(Tomo y obligo)を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(Mi Buenos aires quierido)”を歌ったという記録もあるが確かではない。別の記事では、“クエスタ・アバホ”,“エル・カレテーロ”、“メロディア・デ・アラバル”、“ノ・テ・デハス・エンガニャール(*)”、“シレンシオ”、“ルモーレス、別名“トラス・デ・ラス・ベルデス・コリーナス”(コロンビアの民謡)”、“シン・ソン(*)“,“テンゴ・ミエド・デ・ツス・オホス(*)”、“カタマルカ(*)”、“アガーラ・シ・ポデイス(*)”、“テンタシオン(*)”らの数曲を続けて歌うとありますので重複した曲もあると思いますが追加します。 
ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです。そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。 
私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、絶句に値します』との言葉を最後に、
“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で(*)印を付けた曲は、小生の手元にある、彼の7百曲ほどのSPレコードリストには見あたら無い、また、当時の公演での録音は無いようだ。ただし、“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”1928年12月15日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである)  




















ガルデル、再びメデジンへ行く:

1 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

ガルデルの訪れたボゴタ市の劇場、放送局、ホテル、飛行場の場所を探したが今はこれらの場所は跡形もない。考えてみれば75年にも成ろうとしているのだから、当たり前かもしれない。ホテルは国立銀行の巨大なビル、劇場は場末の映画館化してが今はされ摺らない。飛行場は競馬場だったが市営住宅化されたリ、唯とんでもない北の住宅街にガルデルの銅像がある、探した訳でもなく偶然のようにこれに遭遇した。この写真をプロフィールにのせました。メデジンには彼の慕漂もあるし、記念碑、銅像も二箇所ある。これも当然かもしれない.34年前に亜国から陸地ずたいにたどり着いたカリの映画館でガルデル"エル・ディア・ケ・メ・キエラス"を見た。感激でした。その後直ぐにメデジンに着き、ガルデルの記念碑に巡り会い、何かの糸に引きつずられた気がします。ボゴタの銅像も探した訳でもなく、、、最近は少なくなつたとわいえガルデルの追悼番組放送を耳にして、それを記録に残している内に彼の物語を避けて通れないと思い始めたのが“ガルデル物語”です。