2009年12月15日火曜日

(5)ガルデル、フランスで映画撮影:

フランスで映画撮影をする:ニース、パリ、8ヶ月に及ぶ滞在:

1931年5月1日、パリ:パリの郊外、ジョワンビルにある、パラマウント・スタジオでマヌエル・ロメーロ,ルイス・バイロン・エレーラ、ガルデル共同作映画ストーリーの“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”をアデルキ・ミジャール監督の下で、音楽担当はヘラルド・マトッス・ロドリゲス、その上、フリオ・デカロも参加し、ドラマの構成はブエノス・アイレスのサルミエント劇場専属レビスタ・ポルテーニョ劇団メンバーによる協力により、参加主演俳優はグロリア・グスマン、ソフィア・バサン、ペドロ・クアルトッチ、加えてフリオ・デカロ、ビセンテ・パデゥーラ、カルロス・バエスらの豪華な面々、ガルデルはマヌエル・ロメーロ作の映画題名を歌い、“トモ・イ・オブリーゴ”、“エル・ロサル”などのタンゴを歌う、この映画の撮影は22日間に及ぶ。
1931年5月9日、フランス、パリ:パレセー劇場、アルメノンビル・キャバレーにも出演、
1931年5月25日、フランス、パリ:放送局に出演、この番組はブエノス・アイレスでも放送される、“マノ・ア・マノ”、“アマルグーラ”ほか数曲歌う。
1931年5月28日、パリ、ジョワンビル:フランス・オデオン・スタジオでギジェルモ・バルビエリ、アンへル・リベロールのギター伴奏でタンゴレコードを10曲吹き込み、其の内の二曲はフランス語で歌う、そして、“アンクラオ・エン・パリ(パリに繋がれて)”はエンリケ・カディカモがマドリード滞在時(1931年初め頃?)に草案作詞した、ニースで公演中のガルデルの元に手紙で送り、ギジェルモ・バルビエリが曲を付けたものだ(エンリケ・カディカモが後年ラジオのインタビューで語るところによると、マドリードに滞在した頃、パリに長年住む同胞の心境を想像して、この曲のテーマの作詞をしたと語る。 
ボゴタのFM放送がガルデル50年追悼番組でカディカモのインタビーを流した時の録音が小生のコレクションにある)
1931年6月、パリ:テアトロ・パレセー、アルメノンビルにも出演、



1931年8月1日、フランスを後に、
1931年8月20日、ブエノス・アイレス着、二人のギター奏者と女優グロリア・グスマ
ンも同船していた。帰国後直ちにアギラールの空けた穴埋めをギター奏者のバルビエリの仲介でフリオ・ドミンゴ・ビバスを招きいれる。 フリオ・ドミンゴ・ビバスは優秀なギター奏者だけでなくバンドネオンも賞賛に値するほど技巧的な演奏をもし、すでにヨーロッパで活役の経験者でもある。ガルデルもかなり好感を受け、新しいギターとスモーキングを贈る。ビバスの参加はグループの練習時に効果的に協力した。
1931年9月1日、ブエノス・アイレス:『LP6』アメリカ放送局の番組でビバスがデビューする、
1931年9月3日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、フランシスコ・カナロと“コンフェション(告白)”レコード番号18850Aを録音、
1931年9月4~16日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・リバスのギター伴奏で6曲レコード吹き込み
1931年9月11日、ブエノス・アイレス:ガルデルはバルビエリ、リベロールにビバスを加えてブロドウエイ劇場にデビユー。
1931年9月12~14日、モンテビデオ:アルティガ劇場でギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらのギター伴奏で出演。
1931年9月21日、グレゴール楽団とフランス歌唱を5曲吹き込む、
1931年9月23日、三人のギター奏者と4曲を吹き込み。
1931年10月6~11日、モンテビデオ:レクス劇場。
1931年10月13~21日、モンテビデオ:アルティガ劇場、
1931年10月26日、ブエノス・アイレス:フランシスコ・カナロと4曲をレコード録音。
1931年10月27日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでレコード4曲吹き込み。
1931年10月~12月、ガルデル一人でフランス行き2ヶ月ほど滞在する。



1932年7月22、23日、バルセローナ:フアン・クルス・マテオ(ピアノ)とソルソナ(ビオリン)の伴奏で10曲吹き込み録音、ピアノとギター(イリアルテ)で“エル・ロサル”他二曲吹き込み録音。

(*)アルフレッド・レペラとの出会い: 
ガルデルはレペラとジョワンビルのスタジオで知り合う、彼はブラジル人で新聞記者が本職だが、
ガルデルと組み数々の有名タンゴの作詞を手がけることになる。
1932年9月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオで”ESPERAME(エスペラメ)”映画撮影、ゴジータ・へレーロ(Gojita Herrero)、マティルデ・アルテーロ(Matilde Artero)、ロリータ・ベナベンテ(Lorita Benavente)らの共演女優。   
1932年9月~10月、フランス、ジョワンビル:ガルデルが映画撮影の合間に近所の墓地を訪問した際、第一世界大戦当時の犠牲兵士の墓の中に五人同じ苗字を見届け、その母の心境を想像して、それをテーマにレペラに作詞を依
頼、ガルデルとオラシオ・ペトロッシが作曲して出来た曲が映画“メロディア・デ・アラバル”で歌われた、タンゴ“シレンシオ”である。
1932年10月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオで“ラ・カサ・エス・セリア”短編映画撮影、この映画原フイルムは第二次大戦のときにフランスを占領したドイツ軍に破壊されてしまったらしい。
1932年11月、フランス、パリ:パラマウント・スタジオ“メロディア・デ・アラバル”撮影をする。
1932年12月15日、客船ギーリオ・セサーレでオラシオ・ペトロッシを同行してブエノス・アイレスに向う。
1932年12月31日、ブエノス・アイレスに到着、

ガルデル、アルゼンチ、ウルグアイ最後の公演:
1933年の活動は:ギター伴奏はギジェルモ・バルビエリ、オラシオ・ペトロッシ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスの面々で行動する。
1933年1月、④フニン:ジアナスタシオ・サーカス(Calle 12 de Octubre y Ramon Falcon)
ホラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらのギター四重奏で出演。
1933年1月13~23日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでオラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバス達のギター四重伴奏でレコード吹き込みをする。
“スエニョ・ケリード“18883Bから“レンコール”18876Aまでの10曲。
1933年2月14日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、前者達のギター伴奏とフェリサ、アデラ・バルビエリ(ギジェルモの妹たち?)のコーラスを入れて“シレンシオ
“を吹き込むが、気に入らず没にする。
1933年2月15日~11月6日、オデオン・スタジオ、4人のギター伴奏でレコード吹き込み、“クリオジータ・デ・ミス・スエニョス”18879Bから“ロサ・デ・カルナーダ”18950Bまで57曲。
1933年4月21~23日、⑧ロサリオ:『LT3』放送局で実況放送に前記のギター四重伴奏者と出演。
1933年4月25日、②ペルガミーノ:レイナ・ビクトリア映画館(Calle San Nicolas 367)、
ローマ・ホテル(Hotel ROMA、 Calle San Nicolas 570)に宿泊、
1933年4月26日、アレシーフェ:コリセオ映画劇場、
1933年4月28日、②サン・ペドロ:ラ・パルマ映画劇場、
1933年4月29日、バラデーロ:コロン劇場、
1933年5月1日、カンパーナ:モデルノ映画館、
1933年5月5日、②ヌエベ・デ・フリオ:ロシー二映画劇場、
1933年5月6日、②ブラガード:コンスタンティーノ劇場、
1933年5月7日、②メルセデス:ソシアル映画館、
1933年5月8~11日、⑧ラ・プラタ:アストロ映画劇場、
1933年5月13日、レメディオ・デ・エスカラーダ:イデアル映画館、
1933年5月14日、アドロゲー:イデアル劇場、
1933年5月16日、④アスール:エスパニョール劇場、
1933年5月17日、②オラバリーア:パリス映画館、
1933年5月19~21日、⑤バイア・ブランカ:パラシオ映画館、
1933年5月20日、コロネル・プリンゲル:
1933年5月22日、②プンタ・アルタ:エスパニョール劇場
1933年5月27,28日、⑤タンディル:セルバンテス劇場、
1933年5月29日、コロネル・ドレーゴ:イタリアーノ映画館、
1933年6月3,4日、②サン・フアン:セルバンテス映画館、“ナイペ・マルカード”、”テンゴ・ミエド”などを歌う。会場満員でガルデルは劇場正面扉を開放するようにして、外の観衆にもガルデルの歌が聞こえる様に配慮した。
1933年6月5日、ブエノス・アイレス:アストロ劇場(Av Santafe 1860)
1933年6月12日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、レコード吹き込み、
1933年6月13日、マルティネス:アストロ劇場、
1933年6月29日~7月2日、②メンドサ:パレセ・シャアター映画館、
(1933年7月3日、ニュー・ヨーク・タイムスに1932年9月にフランスで撮影された“エスペラメ”の映画紹介記事がのる、“ESPERAME”『Musical Romance in Spanish』Goyita Herrero(ゴジータ・エレーラ),Matilde Artero(マティルデ・アルテーロ),Lorita Benavente(ロリータ・ベナベンテ)らの共演女優)。
1933年7月3~4日、③サン・フアン:セルバンテス映画館、
1933年7月29日~8月3日、③メンドサ:セルバンテス劇場、
1933年8月3日、⑤フニン:クリスタル・パラセー劇場、
1933年8月4日、②チャカブコ:プエイレードン劇場、
1933年8月5,6日、チリビコイ:メトロポール劇場、
1933年8月10,11日、⑦コルドバ:ヘネラル・パス映画館、
1933年8月12日、ビジャ・マリア:キャピトル劇場(現在、ベルディ劇場)、8月9日”エル・ティエンポ紙にガルデル公演の紹介記事が載る。



1933年8月13日、マルコ・フアレス:イタリアーノ映画館、
1933年8月14日、②カニャダ・デ・ゴメス:ベルディ劇場、ここでもエピソードあり、劇場のマネージャ・マトローネ氏とサロンで立ち話中に入ってきた少年達の入場券をガルデル自身が払う。ガルデル自身が二階のバルコーニの扉を開放させ、外の群集に彼の歌が聞こえる様にした。 パラセー・ホテルに宿泊。
1933年8月16~18日、④サンタ・フエ:アポロ映画館
1933年8月18日、②グアレグアイチュ:同名の劇場
1933年8月19、20日、パラナ:マジョ劇場、
1933年8月21,22日、コンセプシオン・デ・ウルグアイ(亜国):アベニーダ劇場
1933年8月24日、サン・ホセ(ウルグァイ):カタルーニャ・ホテルに宿泊する、
1933年8月25日~9月26日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオでオラシオ・ペトロッシ、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、フリオ・ビバスらの4人のギター奏者と巡業の合間に14曲録音、“ラ・ウルグァジータ・ルシア”18890Aから“ラ・ロサ・エンカルナーダ”18950Bまで。
1933年9月11日、ロマス・デ・サモーラ:エスパニョール劇場、ロス・アンデス・クラブにも出演、?



1933年10月12日、10日間に亙り、モンテビデオ:“ディシオチョ・デ・フリオ”劇場に出演、フェルミン・フェレイラ病院に慰問公演を行う。
1933年10月13、16、19、21日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、
巡業の合間にテアトロ・コロンの合唱団と公演、
1933年10月22日、ウルグアイ各地に最後の公演に出る。モンテビデオ、パイサンデゥー、メルセデス、モンテビデオのラジオ・カルベなどに出演
1933年11月5日、モンテビデオ:各劇場で最後になる公演をする。観衆全員席を立つのを戸惑ううちにガルデル姿をけす。
*地名の前に丸数字①~は其の地に訪問した回数


 

ガルデル、ニュー・ヨークに行くヘ続く:

1 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

パリ郊外ジョワンビル撮影所近くの墓地にあった、大一次大戦の犠牲者、5基の同姓の墓漂、これがあの“シレンシオ"のモチーフ、作詞:アルフレッド・レ・ペラ、作曲:オラシオ・ペトロッシ‐カルロス・ガルデルらの作品です。