2012年6月7日木曜日

ペルリータとガルデル(3 )


ペルリータとガルデル(3)


“我々の愛は益々激しく”ここ古きスペインでペルリータ・グレコの最良の運命を知る事になる。
ガルデルはペトロッシの紹介斡旋の手紙によりフランス興行(アギラールの回想より)が実現する。そこでギタリスト達のアギラール,バルビエリ,リカルドとその弟ラファエル及び公演代理人ルイス・ピエルティーと共にブエノスを出発。1928年9月24日にバルセローナ港へ到着下船後フランスのニースへ向かい,同じ月の30日にグアダラルペ島の台風災難者向け慈善コンサートに出演。その後パリのフロリダキャバレー,オペラ劇場にそれぞれ出演。1929年2月8~9日はカンヌのカジノ,2月22日~3月7日はパリのエンピレー劇場,4月にはバルセローナへ23日にプリンシパル・パレセー劇場で歌う。1929年5月,カルロス,四度目のマドリードでペルリータと再開する。そして彼女は芸能人生の苦い酒(最大な危機)に見舞われたカルロスを励まし助ける役を果たす事になる。ペルリータ・グレコはレアル劇場に4月15日から出演中。一方のガルデルは通りの直前のアベニーダ劇場に出演。レアルとアベニーダの両施設のディレクター同士は商業的冷戦状態にあったので,“両者にとっては当然その人達のロマンスの宣伝をする訳には同意できなかった。彼等アティーストは公衆へ尽くす事欠かせない約束の義務がある”とばかりに二人のロマンスは公衆の目の届かない所で楽しんでいた。“ブエノスで始まった二人の隠されたあの愛は楽しかった。快楽,ボヘミアン,賭け,それに魅惑な愛惜の奪還,我々独自な甘く親密な秘密事”とペルリータ自身によるロマンスの告白により巷の人々は知るに至るが,その上にコーラスガール二番手のアンパリート・サラが舞台装置の裏で彼等二人が抱擁している現場を見ていた。その挙句マガジン“エル・タンゴ・デ・モーダ(流行のタンゴ)”のパパラッシー攻勢に遭っていた。ところが迷い誘う意外な状況が彼等の再会に異なる状態に落とし込む。既に述べたようにガルデルはアベニーダ劇場で5月16日にデビューしていたが,驚くべき成功。彼等観衆の熱狂に応えて各ショーの予定より二倍に近い歌をこなす羽目になる。そして20日の舞台中“イ・エスタ・ノチェ・メ・エンボラチォ・ビエン,メ・マモ・ビイエン...”と歌い始めたところで...次の歌詞を続け無くなる...声が全くでない!突然予期せぬ事態になる。ギタリスト達は即興に“ラ・ンバルシータ”を演奏始めガルデルの様子を見届けるが,やはり歌えない,全く声が出ない!。ここで演唱舞台を退場する事態になってしまった。当然残りの出演予定は全部中止。同伴の皆心配と悲しみに巻き込み,本当の大惨事だと感じられた。アギラールはガルデルを元気づけ様と試みたと白状していたが...我々仲間では“厚かましくも無く,これでお仕舞い...もう歌えない...”と断言したが(アギラールの回想より)。一方のペルリータは何時もの陽気さでカルリートスを励まし二人の絆を強化すべくその危機から救い出す手を差し伸べている。次の金曜日にギタリスト達が見舞いに行くとカルリートスは顔を下向き加減に迎え出て何時もの陽気な表情も無く,陰気な沈黙と共に我々に向かい椅子に座れと身振りで示した。そこで我々は部屋の中へと一歩踏み込んだ瞬間...“メ・マモ・ビイエン・ママオ...パ’・ノ・ペンサール!”とばかりに強い声で歌い始めた。そこで一瞬,皆は安堵と歓喜の叫びを挙げる!。と言う訳で25日(土)26日(日)の両日とも目出度く公演の幕仕舞いを果たしてスペインを後にする。そして我々の愛も別離の運命となるかのように“ガルデルは映画撮影の為にフランスに経った”とペルリータは述べている。







0 件のコメント: