2012年5月27日日曜日

ペルリータとガルデル(2)



ペルリータとカルデル(2):余り気が進まないのだが,ここからカルデルの私生活に踏み込んでいく事になる。

曖昧だが1926~7年頃の時期にガルデルはアスセーナ・マイサーニを介してペリータと知り合う。ペルリータはエル・モローチョと知り会い間も無くお互い気に入り意気投合し合いロマンスに溺れていく。それは必然的だった様で“二人はボヘミオで陽気の似たもの同士。その上に生きる喜びと味を引き出す冒険を楽しむ人生観の持ち主”とペルリータは認めていた。それは夜毎事のブエノス・アイレス巷のレストランで夕食をしたり,バー・ロス・アンへリートスで二人がカクテルの杯を交わす姿が見られた。グレコはエル・モローチョの親友ホセ・アントニオ・サルディアス作のタンゴ“ムチャチータ・デ・モンマルトル(モンマルトルの乙女)”に歌われている人物“一時の相手”の其の役を演じた訳だ。カルロスは何時も彼女の公演仕舞いに待ち合わせてタンゴ、“ロ・アン・ビスト・コン・オトラ”の如くパレルモ公園を散歩したり,リンコン通り137番地に所有していたピシート・デ・ソルテーロ(青い部屋)に入り込む二人を見かけられた。このような噂は当時のタンゴ界では知る人ぞ知るという有様だったらしい。二人揃って音楽,演劇,映画愛好の外に競馬に気狂わせた。“私は軽快な良い血統の子馬を操るのが大好き”だと言うほどの騎手。それに“レースに強力に賭けるのが好み”で,競馬は感動的で秀麗な催し物とペルリータは言い切る。皆が反対する忠告にも拘らず自立のバドックを組織するべくガルデルはすでに有名な“ルナティコ”を手に入れていた。彼は1925~27年にかけてこの持ち馬で30~40レースを賭けたが勝負には余り恵まれなかったようで,この経験で受けたのは経済的に失地に負い込まれた事。カルロスと知り合った時にはすでに金に困っている様子だったとペルリータは語っていた。しかしながら何時も事ながらガルデルにはあの競馬“パレルモ”に夢中で心を奪われ勝ち,月並みな事だが翌日の朝早く行われる競馬レースに居る為に土曜の夜は早くベットに着くが眠れぬ夜を過ごした挙句パレルモのレースに遅刻。その同じ日曜日の夜の劇場に彼女を迎えに行くのを忘れ,たびたびのデートにも現われない機会も増した為に二人の関係は中断するに至る。そしてペルリータはバンドネオニスト,フアン・バウティスタ・デアンブロシオに誘われて歌手としてスペインへ,彼女はタンゴとは別の世界で活躍していたが余りにも誘惑的であったので誘いを受ける。それはカルロス・ガルデルと友人のセリア・ガメス等の助言か彼女自身の経験故かそのキャリアに跳躍を与えた。それは1928年8月の事であった。オルケスタ“バチィチャ”で最初のヒットはメロドロマティク風脚色のスペイン産タンゴ“シエギータ(盲目少女)”である。ペルリータはやがて祖国スペインの雑誌に彼女が途方もない評判と勝利を獲得した人物と記事が載る。それはマドリード界で知らない者もいないほどに、終わる事無く起こる真の暴露現象であつた。ガルデルとのロマンスから離れた様だがペルリータのスペイン以後の芸歴を述べる事にしよう。1931年にスター・フイルム製作映画題名“ジョ・キエロ・ケ・メ・ジェベン・ア・ホリウッド(ハリウッドに連れて行って)”俳優フェデリコ・ガルヒアと共演する。ペルリータは情熱的、陽気な、活動的な、好意的な、親しみ易く、素朴にキャリアを的とうした。又、フランスと北米でも活躍し、キャフィアスピリーナ・オーディーションでニューヨークNBC放送にも出演したり。又、“エル・モローコ”なる人物、アルサテ・ウンズエと知り合い、“エル・モローコ”のピアノ伴奏で唄い、ガルデルの作曲に協力したテリグ・トッチーの伴奏で唄う機会にも恵まれた。最終的にキューバに落ち着き住み着いたが、海外生活8年後にブエノス・アイレスへ母親孝行する為に探しに帰る。そして、ハバナの家に母親を連れて行くのを試みが成功したか否か、このレポートに明記は無い。又,彼女ペルリータ・グレコのガルデルとの果かない束の間の愛の存在も,何人の記憶の元にすら面影は残っていない。と前回の『ガルデルの恋愛遍歴』(2)(2010年3月29日)ではグアダルーペ・アバジェ女史の作品を参考にしたが。ところがガルデルとのロマンスは終わっていなかった。この物語はスペイン,フランス果てはニューヨークまでと続くのです。次回からマルセーロ・マルティーネス氏の『ガルデル・エス・コン』のコラムを編集した記事を載せます。

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村


0 件のコメント: