2012年4月5日木曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-3/10曲目

⑩:アィ,アィ,アィ /カンシオン/作者:オスマン・ペレス・フレイレ(チリー人)/歌:ガルデル-ラサーノ/1918年8月28日録音/レコード番号#18013A/ガルデルはオスマン・ペレスとは1913年の夏に“アルメノンビジェ”のマネージャ,ドン・パンチョ・タウレルの紹介により彼と知り合い,そこで彼のピアノ伴奏でガルデルは“アィ,アィ,アィ”を歌う。そして,ペレスはガルデルの歌唱を指導した極少ない師匠として,この曲の極意を伝授している。だが,この録音においてガルデルはペレス作の“コモ・アゴニサ・ラ・フロール(花が萎れるように)”の様に自前のスタイルにアレンジをしている。内容はセレナータ(セレナード)で恋人の住む家の窓際かその下に近ずき切なく愛を打ち明ける歌なのだが,この歌の場合は空しくも彼女の心をとらえられずして,失恋の憂き目に終ったらしい。

Si alguna vez en tu pecho /お前の胸にもしこれまでに
Ay , ay , ay , /あぁ(嘆き),あぁ,あぁ,
mi carino no lo abrigas .. /俺の慈しみが報えない...
Si alguna vez en tu pecho /お前の胸にもしこれまでに
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
mi carino no lo abrigas . /俺の慈しみが報えない...
Enganalo como a un nino , /おさな子の如き惑わせろ
pero nunca se lo digas . /しかし決して他言しないこと
Enganalo como a un nino /おさな子の如き惑わせろ
ay , ay , ay , /あぁ,ふぁ,ふぁ,
pero nunca se lo digas . /しかし決して他言しないこと
El amor mio se muere , /かのわが愛は衰え果てて
Ay…. ay… ay… /あぁ,あぁ,あぁ,
y se me muere de frio . /そして寒さに衰え
El amor mio se muere , /かのわが愛は衰え果てて
Ay… ay… ay… /あぁ,あぁ,あぁ,
y se me muere de frio . /そして寒さに衰え
Porque en tu pecho de piedra , /なぜかってお前の心は石の如く
tu no quieres darle abrigo . /お前は温き保護の捧げを拒絶する,
Sone que el fuego se helaba /炎は冷えつき夢に見る
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
y que la nieve te ardia . /そして雪はお前に緊伯する
Sone que el fuego se helaba /炎は冷えつき夢に見る
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
y que la nieve te ardia /そして雪はお前に繋伯する
y por sonar imposibre , /そして叶わぬな夢にみる
sone que tu me querias /お前が俺を愛する夢に見る
y por sonar imposibre , /そして叶わぬ夢に見る
Ay, ay , ay . /あぁ,あぁ,あぁ,
sone que tu me querias . /お前が愛する夢にみる



注記:オスマン・ペレス・フレイレ/ピアニスト,作曲家/1877年1月29日生~1930年4月2日にスペインで没。彼は19世紀末から20世紀初期に活躍したアンデス音楽家。彼の母方の祖父はチリー大統領を勤めたラモン・フレイレ将軍である。その娘メルセデスは医者のコメリオ・ペレス・ブストスと結婚した。母親メルセデスは音楽趣味として息子オスマンの教育に強く影響させた。1891年に家族はオスマンを連れて内乱状態のチリーを脱出してメンドサに移住した。彼は博学者であり,また音楽的インスピレーションは万能かつ幅広く伝統血統のフォークロア歌集を創作して活動家でもあった。またタンゴも創作している。ひとつの例として,彼の活動は上流階級全般はタンゴを侮辱していなかった明白な証拠としての彼のテキスト的に裏ずけラれる。オスマン・ペレスはタンゴの演奏と音符解釈の容易にする為の独自なシステムを考案した。あの時代では彼のピアニスト家系には相当な悪理解を受けていたが,これは微弱な垂直線(16分音符)の対称的にコンバスの連結を中間に挿入するに成り立っていた。しかしながら,彼の並外れた重大さはインターナショナル的反響に由来するタイトル“アィ,アィ,アィ,”にいつも結ばれるが,このメロディーの詞句は民衆に強く印象付け,多くのアティスト達のインスピレーションへも影響さえ及ぼした。例としては同胞のビクトル・ハラ作詞“エル・シガリート(タバコ)”とビオレタ・パーラの“ケ・エ・サカード・コン・ケレールテ(愛するのはやめた)”やメキヒコ人キリーノ・メンドサの“シエリート・リンド(美しい空)”である。アルゼンチンに長く滞在時ウルグアイ娘マリア・アデラ・デ・ララと結婚して娘二人が誕生。その後1914年11月の事だが,彼の娘達リリィとメルセデスは幼少の頃“モデルノ”劇場にてカルデル-ラサーノ達の向こうを張り,父親オスマンのピアノ伴奏により公演を共にした。そして,彼女達は卓越した二重唱を組んでブエノスアイレスとサンティアゴの各高貴なサロンの数えきれないほど夜間興行で観衆を魅力の虜にさせた。また,レコードも録音している。オスマン・ペレスは後にスペインに移住。そこでも熱心に音楽界で活躍したが若くして1930年に他界した。 

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