右:フェミーナ劇場、左:この劇場のマーク、
左下:カルロス・ガルデルの公園広告
1928年10月、ガルデルがパリに登場する。この事件は歴史的に記念されるべき日なのである。それはアルゼンチン・タンゴが港町の場末の地で非合法的扱いから抜け出せない境遇に我慢している時、ヨーロッパ文化の中心地コスモポリタン・パリ住民の目を感嘆と魅了の虜に陥れたガルデルの歌うタンゴ。このガルデルの功績なくして、タンゴはアルゼンチンに逆輸入されず仕舞いのまま場末で細々と生延びていた事だろう。ガルデルの功績を讃えるべきパリ登場の場面を回想紹介してみよう。アルゼンチンタンゴの歴史上において数多くの記念日が存在する。しかし、カルロス・ガルデルとタンゴがパリの真ただ中のシャンゼリゼのある劇場{a}のパリジャンヌ達による満員に直面した。1928年10月2日;タンゴの日としての記念日も、この日と比べ重大さを見い出すのは難しいだろう。舞台上でその男が歌う言葉をフランス人は理解出来なかつたが、浄化されたカルロス・ガルデルの声、一つの歌の感傷無限な上演、不思議な声の魅惑に同じ様に屈し、歌たった内容など大切でなく、何故かって、その観衆達には歌詞の全ては唯一つのメロディーに溶明した。唯一つ、二つの歌の合間の波浪の拍手喝采が防げるのみ、その一宵は同様に他の粒さは構わない、何故?まつたくを持って全力を尽くし言い添える、断定的、最終的、な興行終了から断固として勝利を立証させた。ガルデルはたった四つの歌唱で観衆を征服した。-勿論さー、セダニ{b}は言い添える。その夜のパリに居合わせた90%のアルゼンチン人がセダニと同じ様に言い出せる、その舞台の後で成功を祝おうと、、、それは皆総出でフェミーナに駆けつけ、ガルデルの登場に共参して、そして、勿論、同時にパリに住んでいた全部の“ムチャーチョ”達の、ピサーロ兄弟、バチーチャ、フェレール、メルフィ、マテオ、ロムート、、、全員で歓待した。彼等の自家用車連はシャンゼリゼ大通からコンコルドへのロータリーに行き、次にオペラへ、そこからトリニーダー、直ぐに、ピガレー広場その急勾配の通りを右に坂を登って行くとその強烈な夜のモンマルトルに到着する。エル・ガローンにて、本物プチェーロ・クリオージョ{c}のコンサートを毎晩マヌエル・ピサーロが指揮演奏、何故か、それがフェミーナに続いて称賛渇采の最善に同調したタンゴと釣り合いしていた。あの夜、ガルデルが決して不足無しの上質な美食料理を準備する一方で、一人の傍観者の様に成果を話題にしていた。『ほら、彼らフランス人達を見ろよ! 誰がこの様にタンゴが進入できると断言できたかい! そう、タンゴ、“進入”パリに、、、』そのガルデルの凱旋はすでに過去15年の歴史が資格を認めていた。事実上、パリでのタンゴの歴史はカフェ・エストリボの存在した所、ブエノス・アイレスのエントレ・リオ通、インデペンデンシアの街角から開始されている。あそこでに演奏していた“ターノ・へナロ”、と下階にはバスコ・アインのタンゴ・ダンス・アカデミーが構えていた。タンゴの環境があり、どんな事でも起こりそうな形態が存在した。15人ほどの演奏家の小集団が召集されていて、それらの輩の中にセレスティーノ・フェレールがおり、或る日の事、誰かが興奮して思いつきに口に出す;パリに演奏に行こうぜ、、、如何したんだい?-フェレールが叫ぶ-さあ行こう、パリへ! その後、その同じパリで、入り口で、フェレールが語るには、その計画を全員同調、しかし、手段が真剣事になり次第、縮小し始め。最終的に-フェレールが言うには-残ったのはたつたの三人さ;ロドゥカ、モネロス、そして、俺だけ。その後で、その辺に、すでに我々の出立ち間じかの時になり、バスコ・アインが加入した。彼バスコは適切な理由ずけ、-お前達は若造の群れ、、、タンゴを誰も踊れなで、どうやって殴り込みをかけるんだい、いいかい?。俺が行くよ;俺が教えるさ、フランス野郎どもに“ケブラーダ”{d}をどんなものか、これに決めた。それで、四人でパリに行く事にした。バスコ・アインの躊躇いで蓄音機とレコードを持参、その蓄音機のおかげで、その後でパリにて、タンゴダンスの出前クラスを行う事が出来た。ただし、彼の別に若造と図体の大きい奴(機械)を持ち行かねば成らなかった。それは1913年の出来事、その後、1914年にフィリポトーが到着、直ちに、(一次世界)戦火の痕跡のための長い合間があり。だが、1918年になるとこのタンゴの為に援軍が到着の開始がされる。ある日、アローラスがやって来る;別の日に、ペトロッシ、その後でタンガ達、ロバッティ、フィオラバンティ・ディ・シッコー、バチーチャ、メルフィ、ターノ・へナロ、カナロ、マヌエル・ピサーロ、、、ピサーロと彼の物語、その他多勢を巻き添えて、理由は運命がパリにての一種のタンゴの発起人番に変貌させられた。エル・プリンセサ、働いた最初のキャバレーにて、一種の夜間アルゼンチン領事を務め、エル・ガローンと呼ばれ;その後でもう我々には見覚えがあり、彼のオルケスタとオペラ劇場の舞台まで到来、、、それが全部で、15年の果て、所定のタンゴの交互にエル・ワン-ステップ、エル・フォクス、エル・バルスらで補足して、その時期のパリ好みのダンス向き多種多様に振るまい、戦後ヨーロッパに関して、あのおざなりの風潮と緩慢な官能性のリズムと調子合わせた。1928年にガルデルが到着した時、それでもその時のタンゴはいつたいどうなって居ただろう。だから、あの時のフェミーナでの称賛は決定的な背後承認;あの唯一の10月2日のあの夜はパリのタンゴにとつて15年前と合わせてあまりにも重要だ。ガルデルがいく時かの日々で徹庭的に無頓着に歩き回る頃、その期間モンマルトルのかの夜を整えるのに都合よく;ピエロティーが全て首尾よく行い、それで十分と言い渡した。しばらくの間からあそこに定着して居た友人に助言され、ピガレー広場のあの一直線から伝説監修下されたあのモンマルトル地帯での欠かせない地名を習う。初めから、フォンテーネ通り、エル・ガローンとパレルモ;バー・コスタの向かい前、ビドゥ食前酒をもてあそぶ;再び通を横切り、レ‘アレサッシィエン、そこで朝の6時に夕食がとれる場所;その後で、通り角、7番目の通りを交差して、斜めに交差したマンサルー通りとフォンテーネ、そのタイプの大きい酒場、チェス・ボウドン、名物の“l’oignonスープ”;反対側、ピガレとチャプタル通り、沢山の赤いバイル地を見せる嗜好を与えた、一つの“brasserie”ガルバニ;もつと上の方、並木大通り、有名なグラフッ、“choucrout garni”;マンサルッ通り、“a la Cloche d’Or”、皆有名店。そして、そうこうする内に、“coquille St,Jacques”、”platesu de St,Antonie grille“、と“roti de veau aux endives”、卵フライをのせた極上のビーフ、あそこのフォンテーネ通りの居酒屋、私が彼の痕跡に出会った場所、20年後、、、勿論全部のメニューではないが。パリの正真正銘その初日にての多くに一ぺつ注ぐ時間があり;“タ-バ-リン”へ、ビクトル・マセー通りにて、出会った-私の様に-デル・カリールに、モンマルトルに33年も住んでいる一人のウルグアイ人、あそこの半マネジャーになっていた、医者になるべき、専攻に、そのためにパリに来たのだが、カバニャ・クバーナに同様の常連になり、ブランチェ広場直ぐ近くのフォンテーネ通りのもう一つの末端。今の様なムーラン・ルージュ映画館ではない、あそこの同じムーラン・ルージュを見るのに間に合った。サクレ・クール聖堂に上り、オ・ラパン・アジル{e}を通り過ぎ、モンパルナスでのカポレーまで行き、バチーチャが彼のオルケスタの前に居たところ、そして、とうとう、そのモンマルトレでの流行している夜の9時から翌朝のどんな時間のパリ生活に編入された;又は午後に、何故かつてトルテロールの馬が走るアウティエルに行かねばなら無いから。
半数が調子はずれでない、両目の上に落ち込みと左側に傾いたつば広帽子、二本の指で彼の感触確保そのまさに傾き;ポルテーニョ・スタイルと屈託ない自身の歩調、全てそれらが彼のスタイルに変容し、その日々のパリに調和した、今日の様に調和した、大物殿方“コンパドロン”の風貌。
フロリダ・キャバレー
その同じ週にサントリーニの妙技を確認した。提供されていたガルデルのある全ての契約でその一つを選らぶ羽目になり、その中で最も興味深いと判断されたそれを選択した。-3ヶ月の契約、、、キャバレー?-そう、エル・フロリダ。モンマルトルにある、、、クリシ大通り、、、別世界のキャバレーでもない、モンマルトル通りに隠されている、その数あるただ単の一つ。アポロ劇場のその上に位置し、主な評判にも恵まれる事無く。ガルデルはピエロティ-と一ぺつを投げに行き、すんでの所で魂が足の下に落ち込むのを感じた。そこは結構な場所だった、十分小奇麗、全ったくビロードに覆われて、全てロココ様式、“着飾り風”、、、チェ、、、しかしここは客筋“過ぎさった”、、、ガルデルが非難する。でも、旨くいつて無いな、ここのバナナは旨いぜ、黙れ!だから凄い契約できたんだ。俺は言ったろうサントリーニはやり手だ、、、それ見ろよ!こうこうしている内にデビューの日が来る。あの初めの夜、フロリダで、再びパリに居るアルゼンチン人全員の会合がもたれ、ガルデルは言いふらす必要なく、何故ならばかろうじて一つ数え終わり、なじみの声々の紛れもないブエノス・アイレスのアクセントらの知った要求行為;-マノ・ア・マノ!-ビエホ・スモーキング!-ムニェカ・ブラバ!-、みんなポルテニョと疑えるか!、、、その後で、ピエロティ-と話題にしていわく;しかしここは唯一勢ぞろいはアルゼンチン人!じゃあ何故パリに歌いに来る?何か言いたい?サントリーニに任せとけよ、彼承知さ。お前に注文したあの歌をリハーサルしているかい?ok、だけど笑わせないでくれよ。それ唯一つ欠けてるんだ。フランス語で歌えば!タンゴを聞きにやって来る連中はうんざりするさ。ピエロティーそうだろう?抑える口調とともに、頭でリズムを強調して、思い出す;見ろよ、、、知っているよ常連客達を、、、サントリーニの依頼でガルデルは幾つかの歌唱曲をフランス語で歌う練習していた。その事の見るべきはそれはフランス人観衆には大変好感が持てるだろう。このサントリーニは何でも出来るお墨付き、俺に言ったろ、いや?とピエロティに質問してた。そう、勿論さ。お墨付き?、、、逆行の?フランス人観衆は俺の何を話題にしている?、、、、、しかし、素早くガルデルが取り決めを望んだとき、フロリダはフランス人達で満員だつた。それだけでなく、単に人々の扱いは、彼等の様相はより上等。淑女達は高級香水、紳士方は正装の、、、ピエロティーが楽屋にて彼に推薦した;あれらのフランス歌唱を今日歌えるかね、カルロス、、、-それで、いいかい、、、彼特有のしぐさしながら、何にも理解して居ない素振りで。その後策略を認めた;--だけれども、ここはいつたいどうなってる?俺に言うにはサントリーニは魔術師かい?いいや、魔術師じゃない。いいや、お前に保障するけど奴は利口者。行けよ、ガルデルお前の当番だ、、、その宵、パリジャン観衆達の前で初めてフランス語で歌う、彼のタンゴのレパトリーと順繰りに、轟きわたる拍手渇采と異口同音ということ、それからその先、3ヶ月の間ずっと毎夜フロリダに彼らフランス人は聴きに行った。
{a}フェミーナ劇場、シャンゼリゼ大通りの凱旋門のロータリー当たりに存在した。
{b}セサール・セダニ、アディオス・ムチャーチョスの作詞家
{c}プチェーロ・クリオージョ、アルゼンチン郷土料理:ここではアルゼンチン風を強調する為の言葉。肉とトリ肉などと野菜類を煮込みスープを取り出し、肉野菜だけ皿に盛る料理。
{d}ケブラーダとはタンゴ・ダンスのステップの種類:ジグザグに踊る。
{e}オ・ラバン・アジル;シャンソニエ、昔懐かしいシャンソンを聞かせる店。現在も存在している。
3月31日のガルデルの恋愛遍歴:『滅亡ハンガリーの貴婦人』も参考ください
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1 件のコメント:
パリにデビューしたガルデルの活躍のこの記
事とキャバレーパレルモで知りあったハンガリー女性との恋物語の記事。3月31日のブログ記事:ガルデルの恋愛遍歴『滅亡ハンガリー帝国の貴婦人』編をも参照ください。
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