2010年5月25日火曜日

パリのガルデル(3)ホセ・アギラールの回想から


フロリダ{a}のシーズンと多様ホールらの幾多の公演の後で、ガルデルは我々にパリに戻ろうと告げた。ドン・ルイスが事を用意してある、、、素晴らしい仕事しようぜ、、、これ気に入ったかい?勿論、我々は全部気に入った。誰か不都合があるか?“ベント(お金)”事なら、全部解決するさ、、、今、別の理由かい、やつ介から逃げ出せよ、どうだい。全員とも賛成だ、我々三人のギター、バルビエリ、リベロルと俺。良いな、それでは好いんだな-ガルデルが言い-リスト若造共と。我々の“コンテ・ロッソー{b}”のチケットは用意してあるぞ、、、“バカナソー(素晴らしい)”客船だ、、、この様にして我々は乗船、“コンテ・ロッソー”に、その同じ年に、別のアルゼンチン俳優達中の間で、ヨーロッパ行き旅行にはコロン劇場専属バレリーナ、ドラ・デル・グランデと同伴の妹、マイプー劇場の数人の首頭演技役者達と共に、我々の近くで仕事していた連中、パリにて近い内に再会する筈。

ラケル・メジェールの抗議:
我々はニースに到着、そこからパリへ向うことになり;ドン・ルイス・ペロッティーが待ち受け、で“エンピレー劇場で出演決定の知らせ。そのホールにはラケル・メジェールが出演中、彼女の終演次第でガルデルの出演の開始。いいかい、人生で快い事ばかり何時も出会えない。ラケル・メジェール、彼女の後にガルデルがデビューすると知ると、激昂した。興奮発作のような常態で激昂抗議した。あり得ないこと、、、私の後で、タンゴの軽蔑歌手!しかし意外な出来事が彼女に降りかかる。姿少なく“エンピレー劇場”のポスターに7ケ日間だけ留まり、カルロスは14日間公演、観衆は入場券の獲得に長蛇の列。にも拘らず、我々はラケル・メジェールは発言を修正したか知る事なきまま。

フランス語でリフレーン:
興味深いイノベーションは成功に多いに貢献-声以外と彼の歌唱の精神力-ガルデルが成し遂げた、完璧に操るフランス語。リフレーンで彼のタンゴをその言葉で歌ったら。
ある日、練習で、我々に言うには;
いいかい、ムチャーチョス、、、これ旨く行くか試そうぜ、、、
感心するほど上出来。ガルデルのクリオージョ・イントネーションと同じ様に演唱、フランス語語り、、、と同じ効力。そのほかはオリジナル歌詞と同様に歌う。
“エンピーレ”劇場の満員観衆は万丈拍手;上演の常時で立ち見の観衆もいて、同じ様に最初の一刻から最後まで熱狂して、拍手活采とアンコールの催促。その中で最良の成功はフランス語とカステジャーノ(西語)で歌つた“マノス・ブルハス(魔法使いの仲間)”。
毎夜事に絶叫の要求、寛大にいつも注文に答えるガルデル。他でもない無理強いであつても応じ、それは歌うのが好きだから。何故好きかと云うのは我々の歌唱を観衆が感受精通と言うこと。
スペインへの道(このあと直ぐにパリに戻る):
パリにて数ヶ月の公演のあと、カルリートスはスペインに招待される;エキスポ・セビージャのアルゼンチンパビリオンで歌うため。私が理解したことでは一部の展示品の到着遅れで、パビジョンは後日に縮小された。マドリードを通過して、この結末で最初にバルセローナの“パラ-セ”劇場で15日間にデビューで大成功。我々の到着に興行者曰く;初めて一人のクリオージョ・タレントがこの多額金額のペセタで出演料を受け、、、似たような前例も無い、、、これは幸福なシーズンの知らせと判断される。だが、此の事は幸福なシーズン告げるように見えたが、それにも拘らず、我々はドラマチックな場面を向える事になる。

ガルデル、唄え無くなる!:
デビューを果たし、大快挙とげた。ガルデルは多数曲をアンコールと殆んどプログラムされていた二倍ほどの曲を追加。彼のために掛け値なしの熱狂が起きた。よく夜の事、はじめの瞬間から、我々はデビューの日以上の大当たりとみなしたが、実は声がかれたのである、大観衆の中には座席券を入手できず立見席に入場した。ガルデルは数曲目を歌うが、不意の大惨事が起こる。その瞬間は決して忘れる事は出来ない。カルリートスはディセポロの“エスタ・ノーチェ・エンボラーチョ(今宵葉よいしれれて)”を歌つていた。
Y esta noche me emborracho bien …me mamo bien… こういう詩句についた時;
とたんに声なしになる、、、かろうじて、つぶやきで、我々に言いとどけ;
続けろ、、、君達続けろ、、、だめだ、歌えない!舞台には曲が終わるまで留まり、何が起きたか知らずの観衆の迷いの中で退場。我々ギターはその時に“ラ・クンパルシータ”、エスピーナの“トゥ・オリビド(君の忘却)”、パドゥラの“9・デ・フリオ”を演奏した。これらの演奏で上演終了をもたらした。翌日は我々にとっては恐怖の引き続き。彼の逗留場所に午後2時に我々は日毎にカルリートスに会いに行く、我々を無言で向え、我々は手振りと紙に書いて理解しあう、びっくりしては居なかつたが、どの位の時が続くか大変な迷い。専門医は欠声症と診断、確信はないが一、ニ週間の時間の問題と予測した。我々は気力ありと見せる様に節したが、本当に破滅とその時に感じた。ガルデルは身振りか紙に書き込みながら、まつたく痛ましさが我々には思えた。我々の間だけでだが、あえて口に出せる訳で無し、もう歌えない、これまでだ。

注:{a}ブエノス・アイレスのフロリダ劇場,1929年初め頃
   {b}当時のイタリー豪華客船、ブエノス・アイレス港(北ダルセーナ港)から出港。
        当時もう、ボーカ港は大型船入港に向かないため寂れていつた。
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