ニューヨークのエル・モローチョ(ブロードウエイのタンゴー2)
1935年1月に“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”が新しい監督、北米人ジョン・リチャ―ルドにより撮影が遂行された。彼は又ソルサルの最終映画となる“タンゴ・ばー”の撮影の任務を託される事に成る。これらの二つの制作と“カサドーレス・デ・エストレージャス”は同時に1935年6月24日、メデジンでの飛行機事故発生で“歌手”の夭折後に上映された。“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”はメキシコ女優ロシータ・モレーノが準主役を演じ、多くの場面に関し避けられない思い出に向けさせたレパトリー、“ボルベール”、“スス・オホス・セ・セラーロン”、そして、勿論“エル・ディア・ケ・メキエラス”、この最後のテーマはその瞬間に強烈な衝撃の原因になった。イタリア人ディレクター、マルコ・フェレーリの映画『Nitrato d'argento(1996年)』この観衆反響の背景源を再現した{a}。又、この映画のガルデルの幾多の映像の中の一つに、少年アストル・ピアソラが登場し回想に残る一場面もあり、この未来のアルゼンチン大バンドネオンニストは合衆国で無声映画と多少接触していた{b}。“タンゴ・バー”は‘35年2月にロング・アイスランドにて前回制作と同じ仲間キャストとディレクターでより少ない悲劇主張で撮影された。この映画の配役にあの‘20年代にエル・モローチョといくつかの演劇披露をした俳優エンリケ・デ・ロサの参列が勘定に入れられていた。ガルデルの不慮の死を越えて、おそらく何れにしても“タンゴ・バー”の関わりは外国での最後の映画になった公算が高い。“人は常に初愛に戻る”とはいえ、ガルデルが出演した全ての長編映画は外国制作である。想定だけれど国内映画のためにアルゼンチンでは封切りと同時に途方もない推進力をもたらした。アルゼンチン映画の歴史において、ドミンゴ・ディ・ヌビラはこれらの映画は“アルゼンチントーキー映画初期時代において最終的に決定的な普及助力の構成要素をなしたと”断言する{c}。ガルデルの確信はこれらの情勢を無視せず、“タンゴ・バー”撮影の終了のあとに、外国での国内芸術のアイデンティティ維持をする事の困難を知ってから、南米公演旅行開始した後に、彼自身の映画を作るためにブエノス・アイレスへ戻る考えで、“共同制作映画を作る大映画撮影スタジオ”建造する望みであつた。又、アルゼンチン映画のよりポピュラーな監督として横顔を描いた彼の“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”書いたシナリオライター、マヌエル・ロメーロのオーダーのフイルムを作る為に、ルミントン・スタジオと契約調印をしていた。あのコロンビア悲劇でこの帰還は阻止されたが、何れにせよこのフイルムは若いフアン・カルロス・トリーが主人公役で作られ、-多分商業方針で-運命の巡り会わせか“エル・カバ―ジョ・デル・プエブロ(大衆の馬)”は“タンゴ・バー”の一週間前に上映が行われた。カルロス・ガルデルの演技適性について多数が議論したが、モナ・マリースは“彼自身俳優として多くの困難を自覚し、又羞恥心無しでそれを認めた”と断言した。彼自身の行動は全で完璧主義者であり、エル・ソルサルは映画撮影演技の向上を追求したが、しかし、時には彼の自己制御から逸する事情状況と衝突した。“俳優達と仕事しながら私自身がより最善に優られると信じ、誰でも駆け出し側にいて怖気尽きる酷い思いを君は想像出来ないだろう、自己成長するためには過不足なき習得が必要である”とディフーノ・マネージャーに手紙で話していた。しかしながら、完璧な演唱歌手としてのガルデルの映画への出現は俳優の様な質を探求しなければ成らない事は無く、彼の才能は唯一の声だけでなく、単に、詩歌讃賞感覚をする表現才能、この特性はモレーラの短編でディセポロにより強調されている。何故ならば歌詞の語義を深く理解した、ガルデルが“見事な”フォームで歌うタンゴ“ジーラ、ジーラ”を賛美したからだ。唄った各テーマにおいて、この息を呑む心を注いた発声美質は同時に演唱抜粋の際だって洗練されている。一つの模範はこのタンゴ“シガ・エル・コルソ(行列に続く)”で声域の調子を変化させる事により、二人の人物を登場させ、歴史に心に焼きつく主役が演じられた。彼は達人と言う事で作品を描き出すための意義を深く把握でき、この理由のため異なる言語で歌いたがらなかったが、にも拘らず時にはそれをも実行した。英語発音で歌う事を説得された時に“どうして、感じられない言い回し、理解できない言葉で歌うのか”こう断言した。ガルデルが得た異なるディレクター達は映画でこの天賦の才を生かす知識を持たず、大演唱者がミュージカルテーマにて登場し、歌わなかった時の舞台で変貌させられなかつた。-例として-、悲痛な嘆きの“スス・オホス・セ・セラーロン(閉じられた瞼)”、映画芸術は全ての解釈的次元を救出する成すべき術を知らず終い、だが今日我々はソルサル・クリオージョの(比類のない芸術を音響と映像で観賞ができる事を感謝すべきである。
注:
{a}観衆達はフイルムに注意を向けず、彼ら同士の間で討論始める始末。しかし、ガルデルが歌い始める瞬間に全員平静になる。
{b}ガルデルが住んでいた建物にアストル少年が彼の父親の以来でガルデルを訪問した時に偶然エレベータで会ったアルベルト・カスティジャーノに頼まれて窓からガルデルを起こしに侵入した時のエピソード。ナタリオ・ゴリン著『A Manera de Memorias』80ページより
(c)ドミンゴ・ディ・ヌビラ『Historia del cine argentine I:La epoca de oro』
映画データ:
映画エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)
製作社:パラマゥント
撮影:ウイリアム・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
閲覧技術:サムエル・ピサ
ディレクター:ジョン・レインハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月:1935年1月
上映時間:82分
出演俳優:カルロス・ガルデル{フリオ・アルゲジェス/フリオ・キロガ}、ロシータ・モレーノ(マルガリータ/マルガ)、ティト・ルシアルド(ロカモーラ)、ホセ・ルイス・トルトサ(セニョール・ダビラ)、メヌエル・ペルホ(サトゥルニーノ)、デル・カンポ(ダビラ)、フエルナンド・アデランタンド(アルケージャ、父親)、スザンネ・ドゥリエル(ペピータ)、セリア・ビジャ(フアニタ)、アグスティン・コルネホ(ギター奏者)、アルベルト・インファンタ(警官)、アストル・ピアソラ(新聞売り子)
ガルデル歌唱テーマ:
“スエルテ・ネグラ”、“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”、“スス・オホス・セラローン”、ギターラ・ミア”、“ボルベール”、
全曲作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全曲作曲:カルロス・ガルデル
“ソル・トロピカル”作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:テルグ・ツチィ
撮影所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1035年7月16日、グラン・ブロドウエイ
映画タンゴ・バー
制作社:パラマゥント
撮影:ウィリアン・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
検閲技術:サムエル・ピサー
ディレクター:ジョン・レイハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月1935年2月
上映時間:62分
出演俳優:カルロス・ガルデル(リカルド・フエンテス、ロシータ・モレーノ(ラウラ・モンタルバン)、ティト・ルシアルド(フアン・カルロス・プチーニ)、エンリケ・デ・ロサス(セリージョ指揮官)、マヌエル・ペルホ(マヌエル・ゴンサレス)、ホセ・ルイス・トルトサ(キャプテン)、フアン・ディベガ(ラモス)、スサンネ・ドゥリエル(ラウラの養女)、ホセ・ニエト(アギラール捜査官)、ウィリアン・ゴードン(ミスター・コーエン)、カルメン・ロドリゲス(ミセス・コーエン)、
ガルデルの歌唱テーマ:
“ポル・ウナ・カベサ”、
“ロス・オホス・デ・ミ・モサ”、
“レハーナ・ティエーラ・ミア”、
“アラバル・アマルゴ”、
全作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1935年8月22日、スイパーチャ映画館
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