小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2010年5月22日土曜日
パリのガルデル(2)ホセ・アギラールの回想から
キャバレー“フロリダ“でデビュー
公演は-偉大な功績を約束した様に-パリを感動させた。この都市は常時世界中の如何なる場所から来訪する全ての芸術表現を誠心誠意の受け入れ準備できていた。
ガルデルは単なる目新しさより優れていた;ラテン大都市の純粋な魂の表情の様に、彼はパリ住民の為に登場した。念のためチェバリエルも同様ではないか?
しかしあの詩唱歌の都市、ここで歌うのは必要不可欠、ここで歌と共に全てが同伴、特別な流儀で述べる人物の到来の存在が反響を抱かない筈はなく、ジェスチャーや音合わせも同じ様に特別な、ニュータイプの歌唱法?その様に述べるべき、声を流しながら、全ての出来事以外にキャバレー“フロリダ”にデビューした。ホールに頻繁に出入りする国際人、真夜中のパリでの生きた流儀、あそこではインド王子、アメリカ人大富豪、-剥奪されたか否かの-お忍び王様、商工業界の大物、名声ある俳優達、全ての家柄人種、全ての旧家や全ての職業家達に出会う可能性もあり。一人の、成功と神話的人気に祝福され、また、彼自身の沈黙の神秘に包まれて。最初の宵夜から舞台の戦いに勝ち声のガルデル。そして彼等達への最上な魅力を植え付ける姿に変描した。
ガルデル、オペラ劇場で歌う:
狂喜の日々だった、夢物語、全生存中に追憶される日々。ガルデルは彼の成功意義に酔いもせず縮小もせず。全ての意識に控えめで、成功ごとに新しい可能性を暗示する様であり、又都度に考え込む時のまま、計画をもくろみ、それらを口の中でもぐもぐ言い;彼自身の招待に外出する:“-ムチャチョス行こうぜ、、、一杯飲みに招待するよ、、、我々働き過剰だからな、、、”心の中で袂を分ける夢を抱く努力をして、全ての影で我々は察知した。理解できた、疑いも無く、終わりなき前途の道は開かれ。ガルデルのマネジャー、ドン・ルイス・ピエロティ一が用務していたある日の時に、オペラ劇場で開際される巨大なフェスティバルに参加する“Jour blanche(ミルク一杯の日)”コンクール発表の招待がある事を知る。ガルデルは快く引き受けた。その時期の大きなアトラクションとの世論だから。
フランス大統領の頼み:
前に言った様に、巨大なフェスティバルに関連した。彼等芸能人達はステージの上に張り出した舞台タイプの“銀色ブリッジ”の上に登場しながら、ホール全体の場所から演技し続けて行く様式が準備できていた。カルロスが歌い出演するまえのこと、ある紳士が近ずいて“貴方はカルロス・ガルデル様?”ガルデル、何時もの様に微笑して、フランス語で応答した。はい、貴方の“ご用件を受けたまりましょう、、、”それから会話は続くフランス語で、ガルデルの完璧に話すべき言語。かの訪問者はフランス共和国大統領の秘書官の、フエスティバルに随行し、アルゼンチン歌手がナバスの“エル・カレテーロ”{a}を歌唱の中に含むようにと希望を託すべきにやって来た。大変光栄です;承知しましたとガルデルは応答、その曲がその夜の最初の開始の初演となる。
我々の出演は:
その夜の我々の盛装した服装の非常に印象的に関係ある、その粒さを頭の上に通り過ぎさせる訳には出来ないし、そうなっても欲しくも無い。それをしよう、だから、“銀色ブリッジ”に我々が登場した時、とてつもない観衆で埋めたホールに拍手活采が轟音ごときにわたり響く、アルゼンチン万歳と轟叫。ガウチョ・アルゼンチン!、ガウチョ・アルゼンチン!、、、明快にするべき、現実は、我々はガウチョの服装はしてもなく、単に一般人のまとい、(ガウチョの)腰布も付けてなく、ガウチョの様な装飾の独特な性格衣類でもなく。我々のまといはボンバチャ(ニッカーズに似た{b})、短いブーツ、男物ブラウスと肩にかけたネッカチーフ。ガルデルは黒装に赤いネッカチーフ、我々バルビエリ、リカルドと小生は灰色ずくめに白いネッカチーフ。
”ラモーナ”{c}の歌唱:
それと共に、我々の演技が始まる前に、バリトン歌手のサンクラニェールがガルデルに近かずいて、我々に挨拶した後に自己紹介、彼曰く;お願いがあるとの申し出、迷惑が無い様期待します、、、それと言うのも、“ラモーナ”を歌わないで欲しいのですと願いでた。
ガルデル、笑顔で、その頼み理由を聞きただす、サンクラニェール答えて曰く;私はもう少し後で歌います、貴方のすぐ後で、“ラモーナ”は私の得意曲、、、そう別の言い回しでは、多分私の十八番。ガルデル曰く-承知しました、勿論歌いません-、、、
しかしながら最初の曲の後に“ラモーナ“を歌えと要求する声が聞こえ始まる。
何が起こる?、、、ガルデルが流行りの“ラモーナ”をフロリダで歌たけれども、それはそこでの毎夜の注文に答えたもの。このホールにて、この歌を聞いた人達がいて、再び聞くのを欲しがつた。ガルデルは別の曲目を告げ、その曲を歌う。それが終わると、“ラモーナ“の要求が激化する。如何しよう? 観衆は要求曲目を哀願する、ガルデルは次の曲を歌えず、こうして観衆は強く主張、、、ガルデルは最終的には受け容れて“ラモーナ”を歌う。思い出すけれども6曲も歌った。他のすべてのアティーストより彼はより多く演じ、多勢は2~3曲のみの歌演のみ。ガルデルが舞台を退場したところ、バリトン歌手サンクラニェールが近寄り言う事には:私の得意曲を歌うなとお願いをしたでしょう、、、今、貴方の後で、如何しよう、私は? (ガルデル曰く)、しかしお爺さん、、、貴方の方が旨く歌うでしょ、より良く、フランス語で、、、私のはクリオージョ風、血色悪くしなさんな、、、
パリには6ヶ月滞在した。脳裏に残る6ヶ月、-カルロスに我々は近接-歌手との演技で人気と魅力に釣合いで多くの観衆達の歓迎する満足感の一部を分かち合い間の中に我々が到達した。しかしながら帰途を考慮する必要がある。
-ムチャチョス-、ある日の午後にガルデルが言う、我々の報酬の検討をどう思うかい?
全員、沈黙、我々も同様に考えるべきである。途轍もない喜びでその申し出を受け入れた。
ブエノス・アイレスに戻る?、、、でも、勿論さ!準備のために次の日々は短く過ぎる。
我々はブエノス・アイレスに居るのを切望して、何故それを口に出さない? 多くの友人達に我々の話を運んで知らせた。
1929年4月、リオ・デ・ラ・プラタに向かい出航。ガルデルは習得した、的確に断言するが、例外的な経験を。インターナショナル観衆との出会いのあの月々にふさわしい、時には困難な、彼らと共に何時も興奮させた。ブエノス・アイレスではその上昇した成功に相応しく即座に周囲に反響が伴った成功の広いニュースが待つていた。
注{a}エル・カレテーロ(カンペーラ)作者:アルトゥーロ・ナバス
{b}土建作業にはくズボンに似ているが両足部分にはポケットはない。
{c}ラモーナ(バルス)作詞:エンリケ・カディカモ、作曲:マーベル・ウワイネ
フランス・オデオンの録音がある、1928年10月11日録音レコード番号#18252B
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