2012年7月12日木曜日

77年前の飛行機事故



当時の新聞記事【事故の見出し】

不運な事故の発生:
1935年6月の時は過ぎ去って行く...その夏の24日,アントケーニャのアブラー渓谷に囲まれた丘陵に位置した都市メデジンは涼しい春が終り告げ,夏の季節に入り,むっとする風が南から北へと時折流れ込むラス・プラジャス飛行場(現在名オラージャ・エレーラ)。そこへガルデル一行はコロンビア最後の巡業地カリ市に向かうべき、ボゴタを正午ごろスタンレイ・ヘビー米人パイロットの操縦するSACO便で出発した。(別のデーターではサンペールが操縦幹を握っていたとある)機は午後2時ごろにラス・プラジャス飛行場に着き、ガソリン補給とカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルと同時公演する映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機する。一方、エルネスト・サンペール氏はグランッ・フリィンと共に双発機でボゴタを先に出発、メデジンでガルデル達を出迎える。その後にサンペール氏に操縦を任せたフオードF-31機は、カリのバランケーラ飛行場に向かう為に滑走路の南端から北へ滑送を開始した。その後、機は最後の100メートル位滑走中に突然機後部を横すべりさせながら右側の車輪の跡をくっきりと描きながら滑走路中心を右へ30度の方向へそれた。機は上昇できずに真っ直ぐ待機していたSCADTA便三発機F-11“マニサレース号”の真前から衝突炎上した。時は24日午後2時56~8分ごろ。SCADTAの乗員7名全員とSACO便の乗客と乗務員の内8名は即死。アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡。アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に入院した病院で死亡。 

*事故の生存者:
SACO便の乗客の中で生存者が三人いた。ギタリストのホセ・マリア・アギラールは安全ベルトを締めていなかった為に直ぐに機外への脱出に成功して助かった。彼はウルグァイ人でメデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長い期間滞在している。そして、ホセ・ラサーノと電報での連絡のやりとりの上、ガルデルの遺体をモンテビデオに送る手配を試みたが失敗した。この人アギラールは不運な人で1951年にブエノス・アイレスの中心街で交通事故のために60歳で命を落としている。(別項でアギラールの語りによる,生々しい回想を載せてある)二人目のホセ・プラハスはガルデルの英語教師とマネージャーを勤めていた。彼はスペイン国ムルシア出身。フランス、シェルブール港から1929年5月11日出航、5月27日にニュー・ヨーク到着後,弟と商業に従事していたが事業に失敗して、ガルデルに仕える。故郷アンパルダン・デ・へローナに帰る。プラハス氏は40年後のあるラジオ番組へのコメントでは、『あの事故はもう時効になった。何も話たくないと』かなり素気のない返事をしている(当筆者はその時のインタビューでのプラハス氏本人の肉声を録音したテープを所持している)。彼は1982年9月11日82歳で死亡した。 三人目のグランッ・フリィンは米国人で1904年12月22日生、当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていたので、墜落の際にすぐ飛び降り、無傷で命拾いした。彼は身を隠し、関係者の誰もが彼の行方を探した形跡もない隙に、9月3日にカリブ海岸の都市バランキージャの隣の港町プエルト・コロンビアから脱出して、9月11日にニュー・ヨークに帰り着いた。後 にフロリダ、ジャクソンビルに住み着いた末に、1983年10月26日に79歳で死亡している。この人の証言が全く無いのが残念であると前章で書いたが。この時点ではフリィンの書いた【ガルデル生存説】を発見していなかった。 この暴露は50年後にされるのである(2012年6月25日付けの当ブログ記事を参照ください)。

*事故の原因の真相は:
この事故の原因については、ラス・プラージャス飛行場での自然現象の航空条件の欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向け強い突風に巻き込まれたか、サンペールパイロットがマニサーレス号へ目掛けて急降下のアクロバット飛行を試み、失敗して墜落したとか、機内で喧嘩騒動があり、誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したという憶測が語られていた。しかし、後年アギラールとプラハス両氏らはそれらの“ドラマチィクな騒動”は起きていないと否定している。また事故後50年経ってグランッ・フリィンが刊行した著書の中で“そうした騒動は無かった”と証言しているが。彼は機の下の方から強い衝撃のショック音を受けた時に機から飛び降りて無傷で生存した。この衝撃音は離着陸装置の車輪を支える機構の右側が破損した為の音と思われた。その為に機は急に滑走路の中心から右側へ進路を反れた。事故後の焼失したF-31機の操舵ハンドルが極端に左側一倍に回されていた現象はオバンド氏の撮影した写真による検証で判明させられた。それはパイロットが機の滑走進路を立て直そうと努力した証拠の形跡が認められた。SACO航空F-31機はエルネスト・サンペール・メンドサ(33歳)が操縦幹を握り,アメリカ人ウィリアンム・ホォスター副操縦士(18歳),運行係のグランッ・フリィン(29歳)達の乗務員。乗客はガルデル,レペラ,チリー人興行師のバラシオス,映画プロモーターのスゥワチィズ,ギター奏者達のアギラール,バルビエリ,リベロール,秘書アザフ,モレーノ,マネージャープラハス等の10人。乗客席配置は右側7席左側6席となっていた。積荷は通路に楽器類,舞台幕,数不明な(60個余り?)スーツケース,その上にカリ市の映画館で上演する映画フィルム12個の数巻と燃料450ガロンの総て800kg。これらはサンペール機は荷物の積みすぎと乗客定員過剰が疑われている。1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者とのインタビューによると、『サンペール機は200m位の距離を滑走後,進路を右側にそれてマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。これらの数々の原因を上げられているが、二つの航空会社のライバル的紛争から事故は起こるべきして起きたのではないかと思われる、その騒動が4日前に起きている。それは、重要な観客(ガルデル達)を横取りされたSCADTAのドイツ人ハンス・ウリッチ操縦士がサンペール機に向かって急降下飛行を行い、脅かした事件がそれだ。SACO社の関係者の中には、サンペール氏が仕返しをメデジンではなく、カリのパランケーロ飛行場で行う積りでいたと予謀していたらしい。1969年、丁度24年後に雑誌記者がプラハス氏にインタビューした際にSACOのモーリソン氏が事故の前日に『カリへ行くにはアンデス山脈の樟高4000m級を越えるために燃料を満タンにして、霧の出ない朝早く出発する必要がある。もし、遅く出発する場合は燃料を半分にして、メデジン経由でカリに向かう空路をとる予定』との報告を受けていたと、コメントをしている。この証言は重要で、SACO便は何故、ボゴタから最短距離(510km)の南南西方向のカリに行く空路をとらず、北北西方向の399km先のメデジンに向けて空路を取ることにしたのか理解できる。まず、何かの理由で出発が遅れた(前の晩にサンペールは友人達とトランプのポ―カー賭けに熱中していたらしい)。パイロットは既に霧の発生しているアンデス山脈越えが不可能だと判断し、霧の出ていない方向のメデジン経由でカリ行きルートを選ぶ。メデジンから真南方向へ456km先のカリ行きはカウカ川の上空を上流に向けた空路をとれば、由り安全であると判断したわけだ。(現在もボゴタからアンデス山脈を越えてカリ、ネイバ、イバゲの各都市へ行く小型航空機は霧の出てない朝早く6~7時ごろに出発する)。このコース変更がガルデルを事故に巻き込んだ、運命のいたずらだったのだろうか。



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