2010年5月19日水曜日

パリのガルデル(1)ホセ・アギラールの回想から















左写真はガルデルのギター伴奏者達、右写真はホセ・アギラール
1928年9月のある日、ガルデル一行を乗せた、ニースからのブルートレンは朝10時にサン・ラザール駅に到着した。長い年月が過ぎさり;殆んど4分の1世紀が過ぎた。{a}あの当時の手紙や書類を捜していると、我々の旅の出来事の形跡が見出せられる。あの小グループのクリオージョス若者達に再会する。希望の、期待で占める、ギターを抱え世界全体のアトラクション中心の関心地、ヨーロッパの街へ乗り込んでいく。あそこで我々は何にができる?我々は何を征服するんだい?もし我々にあの親方が居なかつたら、事実上の上司はガルデル、その上に全体の友人と同僚、導く我々を、多くの出来事で威嚇萎縮させられた我々、その企てはあまりにも過大に思えた。我々熟望はしなかったが、疑う余地のない、征服するパリ。けれども我々が企てた我々の音楽をもたらしを、我々のカンシオン(歌)、報いに信じる相応しい場所。けれども、これらを話す機会は後にも多くあるだろう。まあ、物語を続けよう。

パリ、フォンテーネ通り19番地
列車が停止して窓を開ける、誰かが私に近ずいて、なにやら意味不明に叫ぶ、当然立ち止まる、にも拘らず、“黙れ”と聴こえたような感じだが、本当は“レ・バガジュ”、それは”エキパヘ(荷物)”の事を言っていたのだ。驚いた、同遼の所に戻り-これどうしたんだい黙り込んでて?我々に一人が(ガルデル)、口はさみ判断に従って、自分自身を偽視して、フランス語の口数少なく、通訳し、元に戻して事情を明白にしながら、説明した;黙れ、いや黙るな-スーツケースを運んでチップを儲けたいのさ。そら渡して置けよ、そう、クルマ(タクシー?)ヘ乗せて置いてもらて、、、これらの始末をやり遂げるに従い、カルリートスは興行の代表者と誰か友人を待ち、行われる幾つかのインタビューを前にして、我々から離れていった。彼はその様に、疲れを知らず、彼は好き好んで対処した。我々はクルマに近ずいて、プロモーターが行き先番地をくれる、Rue Fontaine 19(フォンテーネ 19番)、オリンピックホテル、、、パリにて我々の始めての落ち着く場所。

我々は“パレルモ”を発見する。
サン・ラザール駅到着で災難が我々に降り掛かり、とりわけ最初の日々に、頻繁に起こったのだ。オリンピックでは逗留を請うのに難儀させられ、値段の交渉と、他でもなく、我々の希望する快適ランクと我々の希望部屋の位置などを理解させること、其の事全部、後ほどに、笑いと冗談半分で解明したが。我々神経過敏と気が転倒した行動と度々ブエノス・アイレスを思う事に耽っていたのは否定できない。だけれども、見るべき多くして、、、そんなに慌ただしく出来事が生じたので、、、宿泊に関する事が全部の解決した都度に、ほんのひと時を断念していたポルテニョの習慣に欠かせないコヒー飲みながら休養できる場所を探すことにして、我々の感銘を吟味した。その様にして“コスタ・バー”にたどり着く、カステジャーノ(スペイン語)の名前に引き付けられて。我々の一人が、念のためガルデルによる提供に、関連データを手にして、叫んで;見ろよ、、、行こうぜ向こうがよさそう、そして、指差した別のバー、、、それが“レ・ガロン”名前を代えたたった今、“パレルモ”と付け替えて、“間抜けども”の様に我々はあそこのムードも確かめずに、何故かつて、“パレルモ”の名前はインターナショナルだけれども、我々には特別の意味がある。

メヌエル・ピサーロの宣伝ポスター
あそこでもう一つの驚き。バルビエリ、叫んで、感嘆の声を上げ、
見ろよ、、、ムチャチョス、、、見ろよ誰がここで働いている!
一つの大きなポスターを指さして、
そう間違いなくマヌエル・ピサーロ!
我々の、おやじ!
いって欲しいかいタンゴはパリで流布しているんだ!
そして彼、感銘だ、その通り。マヌエル・ピサーロと彼の“オルケスタ・ティピカ・アルへンティーナ”の公演宣伝。ピサーロはパリにオルケスタ・ティピカと到来した最初のアルゼンチン人の中の一人。四分の一時間でタンゴを物に事実に成し遂げた彼にとつて、十分な四分の一時間で、評判と人気を。我々はしばらくそこで休む事して、その後で午前中を利用して床屋に行くことにした。
そこでまたまた困難に直面する。我々のうち、リカルドだけがフランス語を話せたのだが、“uit(ウィ)”と“poissons(ポワソンヌ、魚)”を言うのを知っていた。私とバルビエリはひげを擦ってもらう、しかし散髪屋はリカルドにはサービスを申し出し始め、リカルドは全部“uit”と随一の言葉で答えるのみ。お指は?-ok-、マッサージ?-ok-、時間が過ぎていく、我々はもう全部リスト、リカルドまだ散髪屋に手をとられたまま、バルビエリたまらず大声で“フィニサユ(終われ!?)”、、、散髪屋はなっとく、五分後にやつとリカルドは解放されたのだが、髪型は“バレンシアのカニーバル”の始末、この祭り騒ぎは100フランコの支払い。この全て、もう午後の一時過ぎ、なにも食べていなかった。カルリートスを待つ必要はなし、彼は多忙の上、我々だけで食事所を探すために歩きだす、、、そして、“我々の行為のため”我々の判断は全たくふさわしいやり方が成っていない。探し探し、通りを過ごす事、何処にも入らず。あるレストランを発見、バルビエリが叫ぶ、見ろよ、“イタリー語はなす”ここにしよう。-リカルド曰く-凄い、、、我々店内に入る。俺はバルビエリとリカルドはイタリー系の息子だろと考えた、話せたその言語を、だから安心した。もう災難はごめんだ、ところがバルビエリとリカルドのイタリー語と来たら、全たく、我々のフランス語と同じたぐい。

ガルデル、パリにデビュー
我々のフランス語の無知識によるレストランとホテルで起こした爽快な愚発事件-バルビエリ、リカルドと私{b}の我々が主人公の遇発事件-、最初の日々のパリでの我々の生活が経過した。奏効するうちと規則正しく、それはガルデルが並み外れな責任意識を持ち合わせており、我々は公演の支度していた。ガルデルは毎日練習を欠かせず、練習は時間延長が常であつた。演目ごとに一回一回と確かめ;決果が満足しないのでなく、より良い効果可能を成し遂げるのと曲か詞の最良の決果を達成するまで、単にいつも最良の芸風を演じ様と精出しに努める;カルロスと契約した一方のパゥル・サントスは、カントール(歌手)の披露を完全な成功させようと同じ様に心配していた。

有名なプレジュール・ホールにて
パゥル・サントスはそう言う訳で、“フロリダ”、“パレルモ”、“エンバシー”と他のホールなどのパリの権威ある気晴らし場所の経営者、ガルデルの披露のために、その年に伝統的で非常に有名なプレジュール・ホールを手に入れた。アルゼンチンポピュラーカンシオンと彼らのギター演奏を宣伝した。ガルデルはコンデション周りの広大な形容を望まず、いつもポスター広告やラジオ放送とか過度な名調子の誇張広告を嫌がった。それに関しては多くの逸話がある、それでこの稿以下の流れに連れていずれかを物語ろう。プレジュール・ホールでの披露は音楽的価値と抒情詩全時代では最も優れていた。ガルデルは天性の彼の歌唱は例外的要素をなしていた。でも、ホールが与えた最高のポピユラー音楽表現での例外の様に考慮された。-記憶-に集中させると、上級席は200フランコ、パルコ(桟敷席)一千フランコの料金の入場料。

ガルデル、17曲を歌う
披露する日が到来して、最初の瞬間から、すでにホールでは、舞台登場に負う大変な責務を我々は感じた。我々はアルゼンチン・ポピユラー音楽の代表者:より選択された観衆達の興味を裏切るべきではない。我々は出現し、カルロスを監督に、厳粛正装の身なりで。ホールでは好感の拍手で我々を向え込み、プログラマ進展開始された。なんと多くあの時を思い出す、、、あのホールに反響するガルデルの勇壮な声とわれわれのギター・クリオージャ、賛美に添える幾多の動機!、、、一曲目が終わり、可なりの束の間に延長した大喝采が響き渡る。我々自身見詰め合い、ため息を憑き、、、カルリートス笑顔で答え、落ち着いて、冷静な、彼は、自然に、境遇の掌握者、そして歌い続けた。より多くを続けなければ為らず、曲目終了毎に拍手が繰り返され、ただちに絶叫、bis,bis,bis,!カルロスはあの宵夜17曲の作品を歌つた。それ以上言い添える事あるかい?
この出演は全て成功さ。

{a}四分の一世紀とはホセ・マリア・アギラールがメデジンの呪われた事故から生存し、ブエノス・アイレスでインタビューに答え、彼の回想を語った頃からふりかえた時期。
{b}他でもない、この回想証言者のホセ・マリア・アギラール本人、彼は負傷回復後ブエノスで交通事故に巻き込まれ、併発した肺炎で死亡した。
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