2010年4月4日日曜日

ガルデルの恋愛遍歴(4):フラメンコ界の歌姫













インペリオ・アルヘンティーナ(本名:マグダレーナ・ニレ・デル・リオ):この文を書き始める前にタンゴのFM録音テープを整理していたところ、彼女のグラナダ・タンゴ・フェステバルで歌うサンバ“カンシオン・デ・インカ”(1997年87歳?)を聞く事が出来たのは何かの偶然か。 フランスで撮影された映画“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”にガルデルの共演女優を勤めたインペリオ・アルヘンティーナの物語。彼女の父はジプラルタル生まれのフラメンコ・ギター奏者(生粋のアンダルシアの血統)、アンダルシア生まれの母との間に1910年(‘06年説もある)12月26日、亜国ブエノス・アイレス市サンテルモ街に生まれる。芸名はノーベル賞受賞したスペイン文学の大器劇作家ハシント・ベナベンテに彼女がまだ早熟女優時代にフラメンコ歌手パストーラ・インペリオとフラメンコ踊り子アントニア・メレセ“ラ・アルヘンティーナ”らの半分の名を取り“インペリオ・アルヘンティーナ”命名された。 ブエノス・アイレスでスペイン系修道院女学校に学ぶが、歌、踊りに成を出し過ぎ、退学処分と成る。が、両親は芸の道に進ませる。誰かにカスタネットの手ほどきを受け、パーティー、フェエステバルに出演し始めてピティツ・インペリオと呼ばれる様に成る。その時期に父はテアトロ・コロンのマエストロ、リカルド・ネマノフが教えるクラシック・バレーのクラスにインペリオと妹を通わせた。1920年家族4人でアルゼンチン地方、ボリビア、チリー諸国を巡業し、ペルーのリマでエウへニア・スホリ一座に参加してリマ市のコロン劇場出演。盛大な成功、当時のペルー大統領、アグスト・レギアに官邸へ招待される。同時期ロラ・メンブリベス一座に誘われ興行に参加。1924年マドリード、ロメア劇場にデビュー、1927年映画製作者リカルド・ムニェスはフロリアン・レイ監督指揮下によるアルマンド・パラシオ・バルデス作の小説を無声映画化『サン・スルプシオ姉妹』を撮影開始、インペリオを少女役にスカウト出演させ、この役も大成功。1928年、ドイツで“コラソンネス・シン・ルンボ(迷う心達)”撮影、つかの間の出演。トーキー映画‘30年“エル・プロフェソール・デ・ミ・ムヘール(我が妻の教師)”出演、翌年“シネポリス”を撮影、‘32年パラマントはジョワンビル・スタジオでスペイン語編映画製作開始、若き彼女と4年間契約を結ぶ。そして、“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”にカルロス・ガルデルと共演し“マニャニータ・デ・ソル(朝陽)”、“メロディア・デ・アラバル”をニ重唱で歌う、“ス・ノーチェ・デ・ボーダ(貴方の新婚初夜)”、俳優マウリセ・チェバリエルと“クリエンテ・セデクトール(魅力的なお客)”に出演。歌手ギター奏者ラファエル・メディーナとパルロフォーン・レーベルに録音、他にドイツで映画“ノブレ・バトゥーラ”、“モレーナ・クララ”で花形マルレーン・デイトリッチと共演。スペイン内戦時代に入りフランコ政治結社のイデオロギーを信奉する。フランコ総督に党員として認められる。不吉なドイツナチス宣伝大臣、ジョセップ・ゲべッリスに招待され、ヒットラーに紹介される。ヒトッラーを魅惑した冒険好きなアイルランド女性ロラ・モンテに関する映画に出演を説得されるが受け入れず。ある伝記家によるとヒットラーとのロマンスをとなえたが彼女は否定している。ナチス政府との気紛れなこの噂により40年代初めに米国、メキシコ、亜国において深刻なポィコット問題を引き起こし、最とも顕著にナチス、フランコ党との関係を拒絶したのは俳優及び知識人たちが彼女の出演先のニューヨークのカーネギ・ホールの前でのデモ抗議であつた。再び50年代には最良の歌手として“ラ・ヒエギータ(盲目女)”、“エレガンテ(優美)”、“エンセンディーダ(燃えついた女)”の歌唱でキューバ国民から上品な礼儀賛美と深く注目され大成功、挙句の果てに若きフィデル・カストロから絵画を送られる。インペリオ・アルヘンティーナは観衆達とまた人生に交差した紳士達を魅了し続けた。彼女は1997年スペイン帰化、2003年8月21日,マラガの孫娘の家で没、行年92歳。

ガルデルとの映画共演の件は後編で詳しく解説しようと思う、かのタンゴ歌手との恋愛関係につては殆んど資料らしき物が無く謎に包まれたままである。

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