我々のタンゴ音楽と歌がパリを征服する:
何かを欲するのと発言するのは悪い事ではない;
野心を評明する過剰な傲慢も自惚れなく、
パリにタンゴを教える最初の瞬間から憧れを告白したガルデル。
思い出すが出発前に我々に言った事:
ムチャチョス!、、、
タンゴとは何か我々は教えようぜ、、、
彼らは全て踊る、、、そして彼らは全て歌う、、、
我々のタンゴの評判に、パリはすでに虜になっていた。
バンドネオンの嘆きとギター弦のうなりにすでに虜になっていた。
ガウチョの声をすでに聞いていた、我々の故郷より全てを引き抜く様な余りの完全無欠で勇壮な、湧出るクリオージョの信憑性と共に。しかしタンゴは引き続き珍しきもの。
マヌエル・ピサーロ{a}のオルケスタ:
前回の章での適用から、すでに指摘したように、同房達がその様な場所を探し、当然ながらタンゴを知っている、アルゼンチン人や南アメリカ人の多くが訪問する“パレルモ”と名前を変えていた、あのカフェ“ラ・ガローン”に出演しているマヌエル・ピサーロのオルケスタに我々は出会った場所。しかし、的確に言うと、とはいえ同様に多くのフランス人も通い、多数派ではないが彼らにとつてタンゴは流行事、それらをただ聞くのみ、単にそれだけ。おそらく、実を言うと全体の好みで無い様子と解釈できる;けれど本当に実は、あの日々の彼らの印象である。
タンゴには歌手が足りない:
何故タンゴは“パリ全体に”普及しない?
かの問題は熟考の末に、この解明は我々自身がもたらした。
ムチャーチョス、どの様に思うかい、これ“フランス人達”は気に入るかな?
この意見を述べるのは易しくはない。
我々にとつてタンゴは好きな事、だけれどもここでは我々はよそ者、
多分バルビエリが発言し、より優れた回答を見出す;
如何したってタンゴには歌手が足りないんだ、、、あんたの様な歌手、カルリートス、、、
それは別問題だろう、、、関係ないさ、、、
関係あるさ、カルリートス、、、この音楽のみで道を開けない、、、
人々はタンゴを意識した時、その本質を心に留め、そして言うだろう。
だからその為に、あんたの歌を聞くのが最上さ、、、
真先に耳を傾けるだろう;そうタンゴは進入し、彼らを躍らせ、いずれ分かるさ。
だけれどガルデルは-沈黙-我々よりも確信を持ち。
彼はタンゴに忠実だ。特有なクリオージョ歌唱群とタンゴに対し遭遇する困難を付き添う成功の間で完璧に見分け知っていた。
ガルデルによる説明:
ガルデルはタンゴは必ず、何時かの夜に大当たりすると思うと余りにも確信し、我々の出演する直前にこう言い渡した、、、見ろよ、ムチャチョス、、、単に一瞬で無く、これらは定着しなければ成らないんだ、、、さらに何かである、さらにより多く重要な、、、ちょつと考えれよ、、、都市間は互いに理解しあって、人々は、結局、こことあそことは同じ、、、あそこが心に感じれば、ここも同様に感じなければ、、、ブエノス・アイレスがパリを理解すれば、パリがブエノス・アイレスを理解出来ない事は無いだろう? この信頼と共に、いずれも同じ、唯その彼の声、比類無い条件で歌う、タンゴの位置において、ガルデルはパリの良識に直面した。それにこの言及は我々が待っていた様に起き、この場合についてまだ我々が告白してないのだが。
パリはタンゴ歌い、そして踊る:
ガルデルの成功は決定的だった;何らかの場合で、実に見事な、オペラ劇場フエステバルで起きたような、数回にわたる数曲のアンコールの求めを受けた場所、何故かと言うと歌い続ける要求をする観衆が立ち上がる。数日後に我々は気付くのだが、ガルデルによるタンゴ歌唱の内のいずれかをメロディーをとる口笛が、アルゼンチン人や南アメリカ人ではない歩行者達の間で聞かれた。夜半になると、フロリダでのガルデル出演後、それらはさらに現れ、淡き光の中でオルケスタがタンゴを奏でると、踊りに立つ人々はもうアルゼンチン達ばかりでは無かった。多くの場所の夜の娯楽施設ではオルケスタがタンゴ演奏を試み順調な傾向を示した。
ガルデルの人気の反響は:
これらの全部の即時反響はガルデルの人気により、これらを我々とアルゼンチン人達総てが同行した。フランス人、アルゼンチン人にとつても、タンゴは同じ道を行き、アルゼンチン人がタンゴを踊れない人物が存在するとは不可能と考察した。アルゼンチン人に向けた多大な共感の流れが同様にあった。その時代にパリに多く存在し、有名人や評判人の姿が彼等達の中に多く見られた。しかしながら、我々、ギタリスト達の話を引気合に出すと、バルビエリ、リカルド、と私、いまだに言葉の悪い決果をもたらしていた。我々はあるレストランにいた、直ぐに皆は我々を知っており、彼等の好奇心の的、それでもなお、我々の注文か注文したい物の獲得に深刻な問題だった。ここで本来のテーマから横道にそれるが我々の悩みにお付き合い願いたい!
魚、魚、又魚料理:
ホテルからいくつかのブロックにある典型的イタリー料理屋、オリンピックに我々は入りもむ、バルビエリは彼とリカルドがイタリー語を-少しばかり、だけれども十分に理解させられる-と言うので、そこえ我々は行くことにした。最初の仰天は、このイタリーレストランでは全員フランス人、彼等イタリー人の姿は何処にも見かけられず。リカルド、さらに決心して、“マイトレ(主事)”が持ってきたメニューを求め、それがフランス語のメニュー!リカルド、しかしながら、動揺せず、チラッと探し、さらに決意して、注文した;“ポワソン(魚)”手まねで全てに事まかせ。給仕が来て料理のサービス、フランス女性だけれども、我々の一人一人の前に魚料理を皿に盛り、、、我々は平らげた、給仕が戻る都度、リカルドが決心して、いいかい、これ良いじゃないか、、、これ以上悩みの種に入り込むのはよそう、同じものを続けようぜ、、、それを言い実行、繰り返しの注文、その上、三皿の魚料理がテーブルに来る。我々の三皿目、バルビエリと私の非難、別の給仕がテーブル脇を通った時、捧げていた盆はビーフとバタタフライ、エンドウ豆の様に見えた。それを見たバルビエリは、絶望の上に立ち上がり一度に、そこで、食堂ホールの真ん中で給仕に我々もビーフが欲しいと説明する。どう言ったんだい?どうやって?思い出せない一瞬に、結果は次の通り、その後で給仕が持って来たものは各一片のチーズと一瓶のソーダ水!挙句の果てにバルビエリは途方に暮れて、椅子に崩れ落ち、、、諸君!では本題に戻ろう。
ガルデルのレパトリーは:
あの時代のガルデルはどんな曲目歌ったかって?それに触れる切り抜き記事の類を保存してあるが;その上に、練習の時をどうして忘れられる、カルロスの成功を、大渇采で観衆が迎えた曲目数? フロリダにての彼のデビューあの宵夜、ガルデルは“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”、“エル・カレテーロ(荷馬車の御者)”、“テンゴ・ミエド(私は怖い)”、“マノス・ブルハス(悪女の腕)”、“マノ・ア・マノ(五分と五分)”、“ラモーナ”、“バリーオ・ビエホ(古い街)”、“ダンディー”、“アディオス・ムチャーチョス”多くのこれらの曲目は、一、二回繰り返しが続けて起こる現象、彼の公演は、だから、それは極端に消耗的な、しかしガルデルは尽力が好きで、観衆が熱狂するのが見られる時は全力を挙げて演唱した。
ガルデルの寛大な態度:
もしガルデルがこんなに寛大と親切な心でなかつたら、彼の様に、もし自分本位を抱き、もしかしたら多くの立場で我々がそれをやっていたら。真実は、彼は成功者、我々は単に謙虚な同伴者。しかしながら、ガルデルは常に我々を彼の高さと同類に扱い、我々の名を挙げるのをけして忘れる事無く、重要視し我々が何者かと紹介し、転換して、彼の従属的扱いに用いるのを拒否した。ある機会に私の曲を歌い、彼は私も彼と同じ様に作者であるとすでに語っている様に、観衆達に紹介し本来は彼に向けられた称賛が、私へ向けられる様にした。成功が益々広大した時、さらに違う振る舞いを示した。彼のギタリスト達(即ち我々)も、同様にプログラム中で何か独自のレパトリーを演奏する様に、‐これらをルイス・ペロッテーマネジャーとこれらの手はずを整え-我々に要約した。一つの独自の好機を我々に申し出でた。リカルドとバルビエリ、その時、大きな反響を受けた、幾つかのレパトリーナンバーを我々達は演奏した。あの宵夜の出演のフロリダで“ラ・クンパルシータ”、9・デ・フリオ”、と“レ・ファ・シ”この最後のタンゴはエンリケ・デルフィーノの曲で感嘆すべき大当たり受けた。
ガルデル、マヌエル・ピサーロ・オルケスタと歌う:
ある夜、成功の真只中にフロリダを出る、祝うために、我々全員でドン・ルイス・ペロティーと店舗の持ち主パゥル・サントス氏の招待で夕食に、レストランに入り少し経つと、彼が観衆の面前に現れると、歌を歌えと求めが始まる。拍手、叫び、余りの執拗さ、挙句の果てにガルデルは微笑みながら、食事の半端で立ち上がる。いいかい、ムチャーチョス、、、候補者にされた様だな、、、ギターをむき出しにしな、もし後で我々の食事終わらせて欲しいもんだ。幾つかのレパトリーを歌い終わり、我々は引き続き食事に取り掛かる。晩餐の後で、、、何をしようかな?キャバレーに流れ込み、ピサーロが出演中の、、、そこで本物の騒ぎになる、、、
そこには多勢のアルゼンチン人、南アメリカ人がいて、、、ガルデルの存在を知る処になり、全員が叫び始め;ケ・カンテ(それ、歌え)!、、、ケ・カンテ!、、、ケ・カンテ!、、、
ピサーロはテーブルに来て、同じく我々を招く。最終的に我々はガルデルが拍手の嵐の中をパルコ(舞台)に向うのを見入いてた。何を歌ったら好いかい?
まずは“マノ・ア・マノ”を歌い、、、あそこは爆発的な熱狂になり、再び歌い、そして三曲目、微笑みながら、その一層自前な天性の魅力を振り撒いて、ガルデル曰く;
友人達の皆さん、ありがとう、、、これは私の心に染み込ます、、、今、ここで一杯のワインとタンゴを踊るのが必要です、、、ピサーロのオルケスタの奏でるメロディーと観衆達の拍手渇采の中、多分ブエノス・アイレスのカップルと一緒にホールに一人で踊りに出て行く。我々のパリ滞在はこの自然に富んだエピソードばかり。
注:{a}マヌエル・ピサーロ:バンドネオン奏者、
1895年11月23日、ブエノス・アイレス、アルマグロ街生まれ
1982年11月10日、フランス、ニース没
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