2010年6月20日日曜日

ガルデル、悲劇の公演旅行(1)ホセ・アギラールの回想から

今年も又6月がやって来た。あの6月24日、メデジンのあの飛行機事故、1935年(75年前)の余りにも馬鹿げた事故。この事故をテーマにした物語は毎々年繰り返されて、何も目新しいニュースは無いのだが、この事故の生存者の一人、ガルデルの伴奏ギタリスト、『インディオ』による回想を紹介しよう。パラマンゥトの映画撮影を終えたガルデルは南米興行旅行に行く計画を立て、ブエノスに置いてきたギタリスト達のバルビエリ、リベロールとウルグァイ人友人のギタリスト、ボナベティーらを手紙で呼び寄せる。ボナベティーはこの招待を辞退し、代わりにホセ・アギラールを推薦。アギラールは28年から3年間パリ公演の時代にガルデルと共演したが、しばらく彼の元から遠ざかっていた。ニューヨークで再会後、きわどくガルデルと運命を共にする境遇に至るのである。

インディオこと、ホセ・マリア・アギラール・ポーラス;1935年6月24日のメデジンにアギラールはガルデル達と共に居合わせた。ラテン・アメリカ諸国{a}をカルロス・ガルデルが為しとげ様としていた輝かしい公演旅行の途中で果せなった結末、彼とその相棒達の生命を阻んだ事故。後年、ガルデルの非劇を想い出して、アギラールが当時の雑誌“アルゼンチンの映画”に語った物語{b};(1935年3月28日、豪華客船“カオモ”に乗船)よくも無くニューヨークを我々は出発した、

左:サンフアン港にて、出迎人達と、
右:プエルト・リコ、トリオ・フエルナンデスと共に











(4月1日に)プエルト・リコ、サンフアンに朝7時に到着する。早朝にも関わらず、港には非常に驚嘆すべき群衆群が我々の到着を待機していた。大体2万~2万5千人の群集魂、多勢がガルデル!、、、ガルデル!、、、と絶叫、凱旋歓迎の敬意の証に市当局運行役員の間近の人々らが出迎えた。あそこで、市の役員等の熱望な要望の前で、ガルデル、非嘆にくれた視線を我々全員に向けるあいだ、一方の我々は一台の公用車の中にいたが、原文どおりに述べながら努力に勤め、決して経験豊でない演説を放ち;“親愛なる皆さん方、私は諸君達の盛大な歓迎を重ねかさねの感謝の思いです。そして、、、今夜の映画館で皆様方の来訪お待ちします”、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロールと私達は我慢しきれずに、腹を抱えて大爆笑。大体に計算して2万5千人の観衆群!その午後、別々のホテルに投宿後、練習の規定の時間に駆けつけると;彼とすでにレ・ペラ、バルビエリとリベロールも居合わせた。着いてから、注意を引くことはアルゼンチン仮設展示場に全旗が掲げてあり、良い雰囲気を醸し出していた。ある現地の青年に尋ねると、この状況出来事をなぜかの理由を尋ねたら、“なんだい!、、、知らないのか?-私に言い-、ガルデルのためだ、だけど、本当に知らないのか?世界一の歌い手を、、、しばらくの後で、カルロスに通知した時、信じてくれない、レ・ペラに向いながら、彼に言い、“いって来いよ、インディオが云う事本当か”、真実、本当の事と知ると、欺きで無いと、満足して、全員を見詰めながら、付け加え、“今晩、ムチャーチョス、我々自身各自も誇り高く振舞おうぜ”。

(同年4月25日)ベネゼーラに到着した時、ガルデルと契約した会社は、特別列車をチャーターしてくれた。グアイラ(港)から首都カラカスまで、平均45Kmの距離、鉄道沿線は群集の雑踏で歓呼が止まらない、女性庶民間の譫妄状態を刺激した。この時の共和国大統領のフアン・ビセンテ・ゴメス将軍{c}は、あの群衆騒ぎの理由を尋ねる命令を下した。“実はアルゼンチン歌手カルロス・ガルデル到来である”、と部下が連絡して、将軍はアチーストと親睦を結ぶのが好みで、その時個人邸宅のハルディンホテルにてリサイタルの実施するように招待。カルリートス、彼は大統領の闘鶏に熱中することを非公式に知り、(そのクラスの動物を百羽以上も飼う場所すら所持)ガルデルは機知の閃きで、有名なエスティ-ロ“ポーブレ・ガジョ・バタラス(安闘鶏)”を歌い始め、プログラムの終わりに当たり2曲多く歌い将軍の愛想ある歓迎を獲得する。即刻、私はギターで“クンパルシータ”を演奏、同時に告げたのは;“失礼します、我が将軍殿、ウルグァイ国歌を歌います”。終了させた時、満足な面持ちで褒めたもう、その夜にカルロスに手渡した、たつたの3曲で1万ボリーバルの贈り物。(5月2日、バレンシア)ベネゼーラには22日間滞在。(5月23日、客船でマラカイボを出港)キュラソー島に行く、行程を自動車で、彼の運転手、ロベルト、出発進行!、街道は全たくの狭い道、ほんの先まで運転しながら、崖の下に落ちる危険が無い様に注意深く街道に視線を向けながら、カルロスは私と一緒の後ろの座席から用心深く操縦を監視、彼は叫びながら;“注意しろよ、兄弟よ、我々を殺すなよな、オイ、二人の名誉民族を運でいるんだ、アルゼンチン人等は絶対に許さ無いぞ”。6月4日、(アルーバ島)その土地に3日間滞在、ティタ・メレーロと共演撮影の映画“ノーチェ・デ・ブエノス・アイレス”で公演を補充した。


左:キュラソー島からアルーバ島に行く飛行機に搭乗するところで、
右:コロンビア、バンランキージャのガルデルが出演したアポロ劇場(現在はメトロ劇場)










補充記事:マラカイボから海路にてベネゼーラの対岸にある、オランダ領アンティル諸島に属す、キュラサソー島へ;そこで5日間の夜公演。その時代に島にはフアン・ビセンテ・ゴメスの長期に亘る独裁政府に不満のベネゼーラ人の大グループが滞在しており、彼の政府への抵抗する組織を組んでいた。ガルデルはグループの彼等達の愛国の努力を賞賛し、ベネゼーラ国家元首の賞与1万ボリーバルを亡命者達に寄贈した。キュラソーでも重要な状態が生じる、カルロス・ガルデルは交通機関としての飛行機の利用を避けていたが、理由は恐怖を抱いていたからで、アルーバでその機会に巡りあった。航路をとるより筋道がたつので飛行機で旅をするのを受け容れた。初めての空路経験{d}と成る。アルーバ島からは海路を取り、汽船“ゴメス大統領”でバランキージャへ移動した。コロンビア港には6月4日に到着。デル・プラド・ホテルに投宿、この都市ではアポロ劇場で公演をお行なった後にそこからカルタヘナへ(6月6日)向う、極端な暑さを我慢しながら幾つかの田舎地方を通り過ぎ、午前11時にこの土地に到着。カルロス、この気候に完全に疲労尽くして、下着姿に成り代わる、勿論我々全員も同じ始末で誰も面会しない事に決めた。その様に一休みの我々に、ホテルの看守役が知らせるには、ある学校の全校生徒達が歓迎の挨拶に来ると、カルリートス、十字を胸に切り、“何、全生徒!如何しよう?突さに、衝動で、応じて;“ちょつと待たせてくれ”と。我々全員は可能な限りに服装整えて、迎えに玄関まで出る。3百人ほどの女生徒達。あの時何か驚嘆すべき出来事。カルロス、私を見詰めながら、“オイ、インディオ、遠ざけてくれ、、、”、一瞬言葉を交わした後と耐え難き暑さの為に自筆サインを尻込みながらも、私の介入のお陰で彼女達は別れ告げながら去っていく。たつた一人、もう成熟気味の女生徒、紛れも無く大胆な見つめ留まり;“私はサインもらって無いの、失礼だけど握手して”、カルロス、微笑み返し手を出しかけた瞬間、彼女素早い動作で、頬を両手で支え素早くキス、あっという間に駈け去る。仰天する物腰に、出来事を楽しむ暇な無く;可哀想に彼女は余りの不美人、、、!

注:()内の日付けは著者が補足した
{a}興行旅行先のラテン・アメリカ諸国はプエルト・リコ、ベネゼーラ、オランダ領アンティージャ諸島(キュラサソー、アルーバ)、コロンビア(バランキージャ、カルタヘナ、メデジン、ボゴタの各都市)を訪問。カリからブエナベントゥーラ港からパナマ市、キューバ島、メキシコヘ行く予定だった。この公演旅行はニューヨーク出発前3月20~25日の間にガルデルの肉声でこの旅行予定が972曲目のレコードに録音されている。ブエノス・アイレスへ帰る途中ではなかった事になる。
{b}事故後15年、1950年の時期
{c}当時のベネゼーラ独裁大統領
{d}1935年5月28日、ロイヤル・マーツチャピー・エアーラインのフォッカー三発機に搭乗、アルーバ島へ(写真あり)
写真の解説:
右上:ガルデルがプエルト・リコ島に着いた時の歓迎者と共に、
左上:プエルト・リコのトリオ・フエルナンデスと共に、
中右:キュラソー島からアルーバ島へ行く飛行機(フォーカー三発機)に搭乗するところ、
中左:バランキージャ市公演先、アポロ劇場、

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