小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2010年6月15日火曜日
ガルデルのギタリスト達
上:ガルデルのギター伴奏者達
左からホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、ネグロ・リカルド
1928年ごろパリにて
ギジェルモ・バルビエリ:
(1933年10月11日、モンテビデオにて雑誌“カンショネーラ(詩集)”のインタビューによる);ギジェルモ・バルビエリはバルス“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”の作曲者、ガルデルの元で14年間も同伴している。“カンシショネーラ”のためにインタビューを初めよう、、、もうしばらく間にバルビエリとの誠実と心からの親交を我々は育てている。文通は水溜り(大西洋)を事細かに交差し、ニュースの相互交換と我々の間でこのミロンゲーロ環境の絆を狭めた。ガルデルの来訪の繰上げ結果となり、“カンシオネーラ”にニュースを送るのを急いだ。
カエルの子はカエル、、、
ギター奏者の息子、ギター奏者は当然だ;バルビエリは何故かつて、リボンで飾ったギター奏者のアルペッジョにあやされ、男盛りに目標を達成への集中の力で、“ホビエ(おやじ)”に気に入られる程に研磨した。1908年生まれのバルビエリには平静と笑いが続く、何かギタリスト経歴の試金石の最先端に行く様。彼のプロ最初の一歩をその時を経過した。記憶しているがあの時に“フエジェ”フェリクス・ロドリゲスとバイオリンのペドロ・バジャリーノと彼のギターでトリオを編成、、、ポルテニョの町並みのセレナータや洗礼式の興を添えにダンス場を歩き回る、、、後ほどロドリゲスがモンテビデオで仕事を手に入れて、バルビエリの元を去っていき、彼はブエノス・アイレスにそのまま留まる、それは感動的な同調者のダンス夜間興行に参加しなければ成いため。
ガルデルと知った動機は?;
バホ・ベルグラーノ{a}でパレルモ競馬場の“ピンゴ(競走馬)”勝利祝い大集会があった。彼らはバステリーカの馬舎の連中、あるTurf(競馬)グループとミロンガの人達の歌囲みとカクテルの集会。ガルデルがラサーノと歌い、多分に興味深く聞いていた彼のバルビエリに注目を向ける。パーティー集会が終わり、話し合いの機会を約束し、我々は別れを告げた。後日にラサーノがエスメラルダ劇場(今日、マイプー)に現れる、私が出演していた場所、私に話し、待遇をきめその時から私の仕事に就いている。それは1919年。次の2月18日で“マゴ(魔法使い)”のギタリストとして18年間勤めを果たす。私に同伴したギタリスト達はホセ・リカルド、ホセ・アギラール、そして現在の仲間はペトロッシ、リベロール、ビバス。
”ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”はバルスのクンパルシータ“:
ギジェルモ・バルビエリはリオ・デ・ラ・プラタでの高く評価される一人の作者、豊な成功の微笑みの時間が流れからなる、60曲以上の作品のレコード録音を発行。彼のより素晴らしさの全ては、“ロサ・デ・オトニョ”全時代のそのやり方で、かのバルスは15年の間“ラ・クンパルシータ”と競り合う。“ロサ・デ・オトニョ”は歌手達、女性歌手達には、いつも鮮やかに成し遂げられない防火テスト。バルビエリの際立った成功は“クルス・デ・パロ(棒切れの十字架)”、“ビエホ・スモーキング(古い~)”、“アンクラオ・エン・パリ(パリに繫がれて)”、“トローバス”、“オリビダオ”、“バリオ・ビエホ”、“トゥ・ビエハ・ベンターナ”リオプラテンセの歌手達の間の唇に浮かぶ歌、今丁度タンゴ“ラ・ノビア・アウセンテ”を創作中。我々が概要をきめしている間、バルビエリのこの音符をギターを“カチョ(つかみ)”、カディカモ作詞のこっけいな風タンゴ“エル・ケ・アトラソ・エル・レロホ(彼が時計を送らした)の最新曲を我々に聞かせてくれる;カルデナス、リアル、フローレスらの作詞が彼のお気に入り。
将来の計画は?:
もしガルデルがヨーロッパに行き不在中は、バルビエリは同僚とモンテビデオに出演希望。ウルグァジョかアルゼンチンノかまだ分からない、マゴのギタリストが同伴する歌手。唯先行できるのは我々の“ポージョ(若者)”を“ビチャド(監視された)”、候補者は今日の“歌手達中の歌手”の位置を占める者のようである。いつたい誰だろう?。
アンヘル・ドミンゴ・リベロール
1930年3月20日にホセ(ネグロ)リカルドの脱退により、ガルデル、新しいギタリストを編入した。バルビエリとアギラール一緒に練習テスト試みかけるために、新しい候補者をジェアン・ジャレス735に呼びつけた:“こいつに決めた”ガルデルが言い、アンヘル・ドミンゴ・リベロールを指差して、愛想のよいカナリア島からの移住者両親の息子で36歳になる。アギラールがカルリートスが雇いたい関心があると知らせ行ったとき、コリエンテ通に在る有名なタンゴ演奏家アジトのカフェ・ビジャーレス36にリベロールは室内装飾とペンキ屋として、そこの修繕に従事していた。その上、リベロールは二重唱のフェラーンディ二とコンテ等のところで仕事していたが、それはガルデルと彼の同僚達が高く評価する微候を感じて、彼らは自由にするのに抵抗。ドミンゴ・コンテは後日に語る;“リベロール、脱退しなければ成らない事情を心配しており、残念だがこの機会では満足し、だけれども我々は彼(ガルデル)の様なギタリストになる重要性を持つことを理解できる、それはきわめて重要な一歩で、ガルデルと活動を共にするのは我々は幸福に思う”。“エル・フラコ”とあだ名をつけ、ガルデルはこの新しい伴奏者を直ぐに親愛を抱く。フアン達は、特別に女性フアン達は公演連の後でガルデルに事細やかに花束やチョコレートを捧げたが;ガルデルは花束をドニャ・ベルタにとつてお気、しかしそれからはチョコレートを子沢山のリベロールに渡す習慣にした。
ある時期にリベロールはスピーカー役目を引き受ける、それはガルデルが歌った個々の題名を司会役。1930年3月20日、カルロス・ガルデルはギタリスト達のアギラール、バルビエリ、リベロールらの各テーマの“フベントゥー(青春)”、“コラゾン・デ・パペル(紙の心)”、“パロミータ・ブランカ(白い鳩)”、“アロマ・デル・カイロ(カイロの香り)”を取り上げ録音し、4月1日にピアノ、ロドルホ・ビアジ(ピアノ)とアントニオ・ロディオ(バイオリン)を加えて再び録音した。リベロールはギター教師でもあり、ガルデルに4年間同伴。“ビオレーロ(ギタリスト)”として尽くしきった業績が認められ、経験をつんだ音楽家扱いされ上昇志向の芸術を開発。創作者の資格は、リベロールもまた栄冠獲得し、各作品の少なく無い利率を得ている;“トローバス”、“ロサル・デ・アモール”と“マニャニータ・デ・カンポ”らの曲が、コンサートで満足にガルデルを堪能させた。
注:
{a}バホ・ベルグラーノはブエノス・アイレスの北側の街区でパレルモ競馬場に隣接している
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