ペルリータ・グレコ:
カルロス・ガルデルとロマンスを宣告した数々の女性の内の一人。“幻想か真実か?”単なる想像か唯宣伝の為の策略の産物か彼女のみ知るのだが。いや、確かにかの偉大なタンゴ歌手との愛惜関係に束の間に生きたのである。しかし、カルロス・ガルデルと絆で結ばれた名の見誂えれた彼女のデータを詳しく知る価値が出てくるが、ではこの人物は何者かその経歴は?彼女、ペリータ・グレコはわが国(アルゼンチン)及び外国で人気を博した演劇界の女優で歌手であり、サンタ・ウニオン女学校生徒時代に始めて演劇に出演する。母はポルテニョ街のカフェーの花売りで彼女が演劇に入る当初からの良き理解者あつた。又、幸運にも芸能界に置いても同僚より歌唱能力が優れており、彼女の“ミロンギィータ”、”マレバヘ”の歌は人気があり、4~5年間名声を維持した。ガルデルとは‘30年頃の以前にブエノス・アイレスで出会い直ちにお互い気に入り意気投合し逢い、カルロスは何時も彼女の公演仕舞いに待ち合わせてタンゴ、“ロ・アン・ビスト・コン・オトラ”の如くパレルモ公園を散歩するとか、時にはキャバレー、バーに二人の姿が見掛けられた。しかしながら何時も事ながらガルデルにはあの心の虜にされた競馬“パレルモ”があり、持ち馬ルナティコの心配事があり、心も上ずり真間にならず、“ポル・ウナ・カベサ”の如くの結末になる如くデートにも現れない機会も増し、ガルデルのフランス行きも迫りこの関係は自然消滅の道を辿る事になる。では彼女の芸能経歴を述べよう、30~38年は海外で活躍、スペインで大成功の獲得する。スペイン雑誌に彼女が初めての途方もない評判勝利を獲得した人物である。それはマドリード界で知らない者もいないほど、終わる事無く起こる真の暴露現象であつた。1931年にスター・フイルム製作映画題名“ジョ・キエロ・ケ・メ・ジェベン・ア・ホリウッド(ハリウッドに連れて行って)”俳優フェデリコ・ガルヒアと共演する。ペリータは情熱的、陽気な、活動的な、好意的な、親しみ易く、素朴にキャリアを的うした。又、北米でも活躍し、キャフィアスピリーナ・オーディーションでニューヨークNBC放送にも出演したり、又、“エル・モローコ”なる人物、アルサテ・ウンズエと知り合い、“エル・モローコ”のピアノ伴奏で唄い、テリグ・ツチーの伴奏で唄う機会にも恵まれた。最終的にキューバに落ち着き住み着いたが、海外生活8年後に故郷ブエノス・アイレスへ母親を孝行する為に探しに帰る。そして、ハバナの家に母親を連れて行くのを試みが成功したか否か、このレポートに明記は無いし、又彼女ペリータ・グレコのガルデルとの果かない束の間の愛の存在もなに人の記憶の元にすら面影は無い。
注:(*)グアダルーペ・アバジェ女史の作品を参考にした。
上の写真:マダム・サディエ、中央:ガルデル、左:チャプリン
マダム・サディエ・バロン・バックフィールド:
彼女の父はドイツ人、母はロシア人、1878年バルティモーレに生、父親のイギリスでのタバコ業の“カルバイン”で残した遺産は当時の5百万ドル以上とか、ガルデルのフランス滞在中に多大な経済援助をした女性。パラマウント映画“カサ・エス・セリア”、“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”の撮影はパリー郊外ジョワンヴィルで行われたが、彼女の存在は陽に影にガルデルの許について回る、謎的存在である。映画資本を援助しただけで無く、ガルデル個人に貢ぎ物は白い‘31年型クライスラー・クーぺ(1)に始まり、金製のタバコケース、金製の花瓶、花びらに“金粉を塗した”にクチナシを捧げたり、‘33年2月19日『カフェ・デ・パリー』で行われた彼の誕生日(彼の自白で49歳誕生)の晩餐豪華パーティ、ガルデルと喜劇俳優チャプリンとの出会いをアレンジした、ガルデルがニース在在中宿泊した、彼女のニースの邸宅でのパーティー。と数々の豪華な贈り物は当時のパリー滞在の南米人界の唖然とさせている。
注:(1)クライスラー・クーペは‘33年11日7日に公証役場でレギサモに譲るための名義代え登録している。(あの怪しい遺言状の書れた日とされた同じ日)
0 件のコメント:
コメントを投稿