2010年3月16日火曜日

”ミ・ノーチェ・トリステ“の誕生








                                     



この本格的歌唱タンゴはサムエル・カストリオタが1915年(楽譜登録)に作曲した“リタ”にパスクアル・コントウルシが,1916年半ばごろに“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(俺はあの女に捨られた!)”、、、の詩を付け『マル・デ・アウセンシア(留守の悪)』の題を付け歌い始めた。同じ年のある日、サン・フアンとパスコに店構えのカフェ『エル・プロテヒード(お気に入り)』にはピアノ弾きのサムエル・カストリオタ、バンドネオンのアントニオ・グッマンー、バイオリン弾き、アティリオ・ロンバルドのトリオがレパトリトーの一つにタンゴ“リタ”演奏により活気ついていた。この曲の楽譜は器楽曲のみでピアニスト・カストリオタの友人ニコラス・カプララ(他の説はやはり彼の二人の友人アマデオ・ぺッサーとアルマンド・ラフェット)に捧げられたもので、フアン・バレリオ商会から楽譜は発刊されていた。この表紙には美人が考え込む絵がデザインされ、何か思わせぶりなタンゴの世界を想像させられる。このカフェのステージにパスクアル・コントウルシ(1888年生まれ)が登場する。彼は、詩人で歌手、ギター奏者でもあり、年来から他人の音楽にその作曲家の同意ありなしに関わらず、彼独自の歌詞を創作してしまう習慣を持つ輩で、1914年半ばから1917年の初め頃に彼がモンテビデオの下町に存在する、タバコの煙に曇りがちなキャバレー『ムーランー・ルージュ』と『ロィヤル・ピガール』で出演し、演奏ごとに何がしかのチップを受けて居た頃はこの“タンゴ”は観客に程ほどに受容れられていて、歴史の鈍い幕が下ろされる場面である。




所と日が変わりブエノス・アイレスのエスメラルダ劇場で『エル・ソルサル』ことガルデルがラサーノとの二重昌でデビューの際の舞台の中休みに“その作詞”を手に楽屋に入って来たのは他でもないこの作者あり、時は1917年1月3日である。という説と、其の年の3月のエンピレー劇場での披露である説とはつきりしない。それに、コントウルシが付けた詩の歌い始めの“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(あの女に捨てられて、、、)”の言い回しに作曲者カストリオタは同意せず、ガルデルが二人の仲を取り持ち、名付けられた題名が即ち“ミ・ノーチェ・トリステ”に落ち着く事に成る。そして、本格的歌唱タンゴの誕生と成るのだが、ガルデルとコントウルシので出会いと“この詞”を彼に見せた時期が半年前のコントウルシがモンテビデオで活躍していた頃(とすると最初の本格的歌唱タンゴもウルグアイ生まれ)。だが、ガルデルはこの“タンゴ”を何故か公衆の前で歌う事を躊躇していたらしい。この“ミ・ノーチェ・トリステ”こそが歌唱タンゴの最初の幕上げをした事実は揺るぎの無い証拠だが、それ以前に歌唱タンゴは存在なきとの疑問が起こるのだが、ガルデル自身のレパトリーも民謡風の歌唱、最初の頃のビジョルドの歌、ゴビ夫妻の歌などがあるが、、、。しかしながら、この“詞”は今までに存在した全てのタンゴとは描写も違い、コントウルシは強い男(弱い?)の主人公が失恋に会い初めての孤独、落胆、嘆き、痛みをこの詩に与え大筋の成功をする。怪しい悩殺な会合の舞台において栄えた、ごく初歩的なうんざりしたタンギート“ラ・モローチャ”か平坦な終わり無き情景に登場する“ガゥチョ”がアルゼンチンと、この時期のヨーロッパ人の一般的イメージであり、“ミ・ノーチェ・トリステ”は全たく見解を瞬きする如く変化し、本質的市民の鬱積を暴き、都会生活がそれを描写形成した姿を表現している。ここでの参加者はその周辺にもうパンパも無く、それは各都会の住人各々のドラマ化が正面化する始まりである。多分、そこにコントウルシ・スタイルでは以前に実存した詩制作とは本質に主張を分ける。例えば、アンヘル・ビジョルドが歌う“カンタール・エテルノ”の初歩的、詩的霊感で表現をしたのでは無くて、パスクアル・コントウルシは純粋で最初の『ルンファルドの世界』を描写したのが、この“詩”であり、異なるタンゴの誕生と成る。では、この“詩”の世界を覗いて見よう。序幕は“我が夜の悲しき”は不快な“ひも”タイプの主人公が愛しい抱え“女”に見捨てられる情景から始まる。隠語体系“ペルカンタ(女)”を論じを企てるのを別にして、しかしながら失なった愛と孤独の苦悩をこの“歌”は単純に表すだけで、ドラマは同様な条件で男は単に苦悩し、愛の悲惨をタンゴに永遠のテーマとコントウルシが発見した事を我々は受け入れる。この作品に後を追う様にして雨の後の『竹の子』の如く、この様な“ルンファルド”の世界を描写したタンゴが表れる事になる。コントウルシ自身の作品の“フロール・デ・フアンゴ(泥濘の花)”、“イベティー”、“ケ・ケレス・コン・エサ・カラ(その顔で何が欲しい)”、“エル・モティーボ(動機)別名ポブレ・パイカ(悲しき女給)”、“シ・スピエラ(ラ・クンパルシータ)”、それに続く他の作詞家の名曲タンゴのサムエル・リニング“ミロンギ‐タ”、セレドニオ・エステバン・フローレス“マルゴー”、フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス“ソロ・グリス(銀ぎつね)”、マヌエル・ロメーロ“パテトロ・センティメンタル(悲しき遊び人)”、セレドニオ・エステバン・フローレス‐ガルデル“マノ・ア・マノ”などが登場する。



ガルデルはタジーニ商会の『コンロビア』レーベルから契約切れで自由な身であった時に、好都合な話がマックス・グロクッスマーン商会からのレコード録音の提供があり、上記した作品群を1917年4月から『ナシオョナル‐オデオン』レーベルに録音、まず初めに、“ミ・ノーチェ・トリステ”が最初の本格的歌唱タンゴとして彼の32曲目に、他の作品と共に録音される事になる。しかしながら、ガルデルはこのタンゴ『ルンファルド』に平行して、ビジョルド、ベティノティ・タイプも見捨てずに唄い続けていくが、、、。
パスクアル・コントウルシの他作タンゴの協力者は次の通り、①作曲:アグスト・ヘンティレ、②作曲:ホセ・マルティネス、③作曲:E.コスタ‐J.ロカ、④作曲:エドアルド・アローラス、⑤作曲:フアン・カルロス・コビアン、⑥作曲:ヘラルド・マトス・ロドリゲス、など。なお“ミ・ノーチェ・トリステ”は1918年2月2日に国立図書館に正式に版権登録されている。

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