2010年6月30日水曜日

ガルデル、無言の帰国


















ガルデルの遺体の到着、1936年2月5日、
ブエノス・アイレス市ダルセーナ・ノルテ港
前回のブログにアギラールの回想から1935年6月24日の生々しい事故現場の様子を報告しましたが、ここではガルデルの遺体がメデジンからニューヨーク経由でやつと1936年2月5日に故郷へ帰り着き、翌日の2月6日(木)にルナパークでの葬儀から7日オエステ墓地(チャカリータ)に埋葬された経緯を報告します。

ブエノス・アイレス2月5日の朝明けは強い日差しに暑い日呈が予告された。早朝から人々は小グループごとに港に集まり始め、午前11時ごろには約3万人の群集が埋め尽くしていた。その日の夕刊紙には“警官大配置”の報道されたが、市警察管区から25名の警察、騎馬隊から15名の兵隊だけが散らばって、ダルセーナ・ノルテ(北ドック)埠頭の群集を遮ぎ警備していた、。百名ほどの出迎え人グループの、その中にソフィア・バサン、ピエリーナ・デァレッシー、ティト・ルシアルド、セレドニオ・フローレス、チャルロ、イリネオ・レギサモ、フランシスコ・マッチオらの顔も見られた。何かの儀式が予告されていたが11時30分に船が接岸する時に騒動が起こり、騎馬隊が制止に入り静剰が取り戻された時点で棺が荷下げされた。一時間後に税関を小グループが棺を運び出すのが見られ、再び新しい騒動が起きて、ラサーノとルシアルドの間で何事か激しい争いも起こり、警官が仲介に割り込む。群集の見物人達は早急に棺へ近ずこうと試み。“民衆の手で”と多勢が叫ぶが、しかし遺体は豪華馬車に載せられ、ホセ・ラサーノが通夜の行われるルナパークへの行進の命令をとる。



右の写真は1935年6月25日ルナパークで祭られたガルデルの為に祭られた御通夜に参列する人々、当然にこの時点ではガルデルの遺体はここに無く、事故現場のコロンビア、メデジン市サンペドロ墓地に埋葬されている。





壊れて取っ手も無い棺に近ずこうとする奮闘する民衆達、付き添う行列に加わる人が増すばかり、幾人かは国歌を歌おうとしたが“静かに”と制止された。その代わりにガルデルのタンゴを唱える。レティーロ、レアンドロ・ノルテを過ぎ、ルナパーク、午後1時30分ごろ、スタジオに遺体が到着する前にと数千人が観覧席の良い場所を確保する為に走り始める。午後2時に銀色と暗色のオーク材で覆われた、新しい柩の前方で間断無く動く二つの追悼碑パレードが始まる。満員の為に夜の9時に正面玄関の扉が閉ざされ、ひとたまりの群集が、入り口の鉄格子前で焚き火を起こし、バニックに至らない小騒動を起こす。11時から演説が開始され、エンリケ・ガルシア・べジョソ(劇場協会長)、セグンド・ポマール、パキート・ブストス、ロベルト・セリージョ(作曲家)、クラウディオ・マルティネス・パイバ、らの面々と続き、歌手アスセナ・マイサーニはガルデルと映画共演した女優ロシータ・モレーノがハリッウドからの手紙を読む。

その後、“演奏者強化された”フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタが“シレンシオ”を二度繰り返し演奏した。ガルデルが録音したレコード会社が奉納した花輪は円形の中央にレコードはめ込まれ赤いレーベルにはカルロス・ガルデルと大きく記されていた。その他多数の花輪、花輪で埋まる。翌日午前10時に盛装された真新しい柩はイリネオ・レギサモ、ホセ・ラサーノらが先頭に八頭立て豪華馬車に積み込まれ、ルナパークを出発。コリエンテ通りを進み入る。馬車の列の監視は警察乗馬の騎兵中隊が追悼委員会メンバーか特定の私的友人のみが近接許可された。カジャオ通りにつくと、あるバーの前を通り、そこには歌手の巨大な肖像写真が掲げられバイオリン、ギター、バンドネオンのトリオがタンゴを奏でていた。

プエィレドン大通りに差し掛かると、劇団主アルベルト・バカレッサがガルデルに捧げた大きな花輪を携えた馬上のガウチョ姿の一団に出会い、行列は一時停止する。その花輪は蹄鉄形をし、その中心には歌手の肖像が敬意に飾られていた。ガウチョ一団は葬儀行列の最前に入り進む。ガスコン近辺で別グループが編入する、このグループは牛車に乗った地方衣装姿のガウチョとチーナス{a}等達で、アルベルト・バカレッサのサイネテ一座に所属すると大きく見出し書きされていた。



右の写真はチャカリータ墓地の入り口、1936年2月6日ガルデルの遺体が墓地に入るところ、ただただ群集のみが見える。








午後2時、30度と温度計を示し暑さは益々上がり数多くの気絶する人が出る。その時間にチャカリータに着き、そこで又演説の聴衆。群衆連の混乱が起こり再び警官らの騒乱統制。誰とも無く視界を確保するために周囲の納骨所によじ乗り其の内の何人かは天井の採光穴から霊廟の中に転落する輩まで出る騒ぎ。イレネオ・レギサモが押し合いに巻き込まれ気絶し緊急所に担ぎ込まれた。公衆救護は25失神者に至り、多数の打撲傷と足を骨折する者もでる。5人の女性は神経発作に襲われる。
それでも演説は続行された。バラレッサは宣教師と共にこれらの言葉で祈願を初める;
“神の名において全ての歌い鳥達は朝明け中に神に合掌。ソルサル・クリオージョは空高く舞い飛び、太陽の炎が翼を焦がし、歌い全とう死の最善の死をとげた!”これに引き続き何かしらの追悼語を続けたが、、、葬儀は午後1時30分に終了、人々は解散する。各夕刊紙のベスペルティーノ(、クリティカ、ノティシア・グラフィカス、ラ・ラソン紙等の見出しと多数の情報競争を広げた。全ての紙面は同じ様に感動的なかつ明解な記事の上にそれは大衆支持呼び覚まし、それにしても垣間見に扇動的を暴露した。“その大衆支持証明の出来事の間で‐夕刊紙で公告された‐フローレス街のラモン・ビティモーレの件について触れる価値がある。この青年はガルデルの友人で、最後の冥福を捧げるのを妨げる様な事はせず、歩行困難ゆえの難儀を克服しながら家を昼時に発ち疲れきり夜の8時にチャカリータに到着した。

注:1936年2月6日のガルデルの葬儀の様子をレポートしたが、この遺体はガルデルのものではなかつたらしいと言う説もある。
{a}チーナスとは南米諸国では少女達を呼ぶ、普通チーノとは中国人をさすが幼児、少年の意味もある。
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