2010年6月25日金曜日

ガルデル、悲劇の公演旅行(2):ホセ・アギラールの回想から












左:メデジンのガルデル一行、(小生、1975年5月コロンビアに到着、その当時の新聞の切抜きから)
右:SACO便機内でモレーノが写したガルデル生存最後の写真?

 (1935年6月10日)メデジンに4日間滞在、カルロス・ガルデル一行はこの都市の最とも重要な闘牛場で歌い大快挙をあげ、そしてボゴタに向う事になり、6月12日に到着後8日間滞在(注:アギラールの記憶違い、実際には6月14~24日、10日間滞在)。
 

 旅の途中にて、ガルデルの秘書役としてのコルパ・モレーノ(ニューヨークでボクシングをしていたアルゼンチン青年を助手として、この躓く旅のメンバーに組み込んだ)が千メートルの高さの機内で和やかな雰囲気になったところで全員の写真を撮影(この写真は本当にコルパが撮影した、多くの憶測では誰か他の人物が写した、とあるが真実で無いとアギラールが断言している)、我々の恐怖に苦しむ顔々。コルパ・モレーノはガルデルに悪戯偽で“見ろ、飛行機落ちているみたいだ”と告げる、ガルデル、飛行機に乗るのに恐怖を抱いていたから、たまらない、激高して上に強く叱責した。  

 ボゴタに8日間(10日間が正しい)の賞賛に値する公演の結果後、到着に至らないカリの土地に我々は進路を向けた。おそらく積荷の過剰重量に違いない三発機の不調の時、強制的にメデジンに我々は降下しなければならず、パイロット、エルネスト・サンペール・メンドサの熟練のお蔭で、機の安定を成し遂げる{a}。
 

 その時に我々は墜落を免れた。これはあの事故を引き起こす、せいぜい一時間前のこと。再びメデジンで、昼食をして一休み(6月24日、午後2時50分出発?)、その後すぐ、カリへ続く進路をとる事にする。その様に我々は行動を始め、次の順序で座席位置の選択を開始して;まずはセレドニオ・パラシオ氏(プロモータ、バランキージャの映画館主);その次はヘンリー・スワルツ(コロンビア・ユニバサール・ピクチャーズのマネジャー)、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、コルパ・モレーノ、アンヘル・リベロール、ホセ・プラハ(副操縦士?、及びガルデルの英語教師{b})、カルロス・ガルデル、続いて私、操縦席にエルネスト・サンペール(パイロット)。今思い出すが搭乗する瞬間に、カルロスが顔を振り向き際に-言いかい、インディオ、後1時間15分だ、その後、この奇怪な奴{c}壊してやろう、もう絶対に乗るもんか-と私に伝える。可愛そうなカルリートス!ほんの瞬間の後に灰に変わる姿を夢にも想像できず!、最後にフリィン氏{d}が搭乗、その前にその夜のガルデルの同時公演の12巻のフイルムを持ち込み、彼が機のドアーを閉める。
 サンペール・パイロットはその運搬を頑固に拒否、三発機に重量過剰だと言い切り拒絶に反対したが、だけれども決心きめて持ち込ませ。フリィンは直ちに安全ベルトの装着を全員に課す。ただ一人私が抵抗したが;だから機から脱出に成功した。ガルデルの最後の発言はキャラメルと耳につめる少しの綿を私に求める言葉。おまえ何を噛んでいるだと警告気味に‐インディオ、何を食べているんだ?‐、私は‐チューインガム‐と答える。オーケー、それ譲れ。綿を持っているか?耳につけるときの殆んど間もなく、飛行機は始動初め、地面から中々離陸できず{e}。全員大惨事の虫の知らせを感じる異常な予感の為のように思われ、我々は視線を合わした。
 

 サンペールは離陸するのに絶望的な努力したのだが、三発機F‐31を超大型飛行機マニサーレス号に衝突を防げず。衝撃音が耳を寸裂き、二機の“この鳥類”は瞬間的に燃え上がる(現地時間1935年6月24日2時58分)。不滅の本能的に、何時どうやったかも分からずに、もう更に炎に包まれた三発機の亀裂から逃げ出した瞬間の出来事。ガルデル、レ・ペラ、とリベロール達の叫びを認めたが、彼等達のなんと悲痛の絶望に私は発狂しかねた。上着の切れ端で防御しながら救助の手を貸すべく炎に飛び込んだが。しかしながらその甲斐も無く目的は果たせず。コルパ・モレーノの無残な姿を見届けるのみ、あの状況はダンテ風の地獄と化し;我々は生きたバーベキュー、我々の肉体が燃えており、恐怖に茫然として多勢の民衆群は全然助けの手を貸さない。私は48時間も失心の上、気を取り戻した時“タクシーを呼んでくれー”と大声で叫んでしまう。人々達は混乱した、何も手につかず、私の叫びが分からずに、応対にいっそう困難にした。かなり後の自力で立ち上がれた時、この土地の人々はタクシーを“カーロ(車)”呼ぶと悟り、それが混乱の元。マニサーレス機(の乗務員と乗客7名)は全員死亡;我々では僅かにグラン・フリィン、ホセ・プラハと私が生き残る。私への報告によれば、彼(リベロール)は腕が落ち、盲目と化し、おまけに気が狂い、彼ギタリストと私は別々の病室に入院させられ、よき同僚の恐ろしき苦悶を受けた。死なさ無いでくれと私に頼む、たとえそれが可能ならば!リベロールが受けた悲惨を目撃した、その原因の印象は絶対に抹殺できないだろう。アギラールよ、8人の子供と妻がいるんだ;医者の診察を頼んでくれよ、なあ、、、死なさないでくれ!、、、すべては無駄と化し;二日後、即ち26日の朝がた3時、精神錯乱発作を起し、べットを飛び起き上がり病院内を駆け回り。ひどい出血多量の上、病室につれもどされたがそこで死亡した、、、

左:ボゴタのテチョ飛行場でメデジンへ行くSACO便に搭乗する前に写された写真                                   
右:事故現場、火災で破壊されたSACO機、
ヘンテ誌1969年ごろの記事、ガルデルの事故は謎ばかりで新しい疑問が推測されたと見出しにある。この雑誌に切り抜きは小生が1970年にブエノスに滞在中に古本屋で見つけたもの。



注:()内の日付けは著者が補足した。
{a}ボゴタ~メデジン航路のF‐31の操縦は米国人パイロット、スタンレイー・へビィーと副操縦士ウィリアン・フォスターだった筈だがアギラールの記憶違いではないか?
メデジンでエルネスト・サンペールが操縦幹を握り、重量過剰の原因による離陸に失敗した(追い風で離陸開始したとも言われている?)。これが事故原因の真実らしい。後年(1982年)に現れた新聞記者だったエナオ氏はオラシオ・フェレールに“フオードF-31機は離陸せずに直接マニサレース機に衝突した{e}”と語っている。この証言はアギラールの証言と一致するので、これが真実の事故原因と成るのではないか?機内で喧嘩紛争や発砲事件は全然話題にものっていない。マニサレース号の副操縦士が発砲した銃弾がサンペールの頭を下から貫通したとか、色々な憶測が語られているのだが、、、
{b}生存者の一人、ホセ・プラハ(スペイン、マラガ生まれ、ガルデルの英語教師)。
{c}SACO社F‐31機その物をさす。
{d}グラン・フリィン(米国人)はSACO便の運行係り、彼はかすり傷も受けずに生存、事件後,姿を晦まし、バランキージャから出国して、フロリダの故郷へ妻マルタ(コロンビア人)と帰還する。
{e}この呪われた事故の衝突時間は現地時間で1935年6月24日午後2時58分(別のデータでは午後3:05~07分とあるが?)日本時間では6月25日午前4時58分(時差14時間進み)となる。
写真の説明:
左上:メデジンで
右上:SACO機内のガルデル、生存最後の写真となる?
左下:ボゴタのテチョ飛行場で、
右下:事故現場の飛行機と、
下中央:
現在のメデジン、オラージャ・エレーラ飛行場(当時の名はラ・プラジャー)右側上の方向にある白い高い建物はコルテヘール(紡績会社)ビル、ここにガルデル一行が宿泊したホテル・ヨーロッパがあった。
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