2014年10月10日金曜日

Enigmaの真相


「ガルデル一行が興行先のコロンビア、メデジンの飛行場で事故死した事件は多く語られているがほとんどが結末をぼかしている。小生は推理小説並みのとんでもない真相を見つけたのである」

  『事故原因の真相は』
 『フオードF-31機の搭乗は後ろの席からセレドニオ・パラシオ氏(プロモータ、バランキージャの映画館主)、その次はヘンリー・シュワルツ(コロンビア・ユニバサール・ピクチャーズのマネジャー)、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、コルパ・モレーノ、アンヘル・リベロール、ガルデルの英語教師兼マネージャー、ホセ・プラハ、前の席にカルロス・ガルデル、続いて私(ホセ・アギラール)、操縦席にエルネスト・サンペール(パイロット)と副操縦士ウイリアム・ホスター(18才)等の順で乗り込んだ。今思い出すが搭乗する瞬間に、カルロスが顔を振り向き際に-いいかい、インディオ、後1時間15分だ、その後、カリに着いたらこの奇怪な怪鳥を壊してやろう、もう絶対に乗るもんか-と私に言つた。可愛そうなカルリートス! ほんの瞬間の後に灰に変わる姿を夢にも想像できず !。最後にフリィンが搭乗する前に昨夜のガルデルの同時公演のフイルム12巻を持ち込み、彼が機のドアーを閉める。サンペール・パイロットはその運搬を頑固に拒否した。三発機に重量過剰だと言い切り強烈に反対したが、仕方なく決心をきめて持ち込ませた。運行係りフリィンは直ちに安全ベルトの装着を全員に課す。ただ一人私が抵抗したが;だから機から脱出に成功した。ガルデルの最後の言葉はキャラメルと耳につめる少しの綿を私に求めた。「おまえ何を噛んでいるだ」と警告気味に‐「インディオ、何を食べているんだ?」‐、私は‐チューインガム‐と答える。オーケー、それくれ。綿を持っているか?それを耳につける間もなく、飛行機は滑走路から動き初め、地面から中々離陸できず。ガルデルいわく、なんだブエノスを走るチンチン電車みたいだとつぶやいた。全員大惨事の虫の知らせを感じる不吉な予感がした。我々全員はお互い視線を合わした。』
 ここまではガルデルのギタリストの一人、ホセ・マリア・アギラールの回想である。

  エルネスト・サンペールは離陸するのに絶望的な努力したのだが、三発機F31は超大型飛行機マニサーレス号に向かい衝突した。衝撃音が耳を寸裂き、二機の“鳥類”は瞬間的に燃え上がった。
 ラ・プラジャー飛行場での自然現象の航空条件欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向けの強い突風に巻き込まれたのか、サンペールパイロットが離陸待機中のライバルSCADTA社のマニサーレス号へ目掛けて急降下で脅かしアクロバット飛行を試み、下からの銃弾が彼の喉から脳天に到達したために操縦できなくなり墜落したとか、ガルデルとパイロットと口論のための喧嘩騒動があった説など、これ等は全部真相をそらす為の作り話だった。

 ところが1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者のインタビューによると、
 『サンペール機は200m位の距離を滑走後右方向へ向かいマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。 とするとSACO機は離陸できずにエンジンを全開待機していたマニサーレス機に直接正面衝突した事になる。(アギラールは衝突直前にサンペールの絶叫を聞いたと証言していた)パイロットに何かの不都合な事態が起きたのだ。機内騒動の疑いは誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したらしい。その上に検死解剖で、ガルデルの肺に銃弾が発見されていたのは、メデジンの警察の正式な調査で公表されていた。アルゼンチンから態々事故処理に来たガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノは空港の事故の真相を闇に葬るために高額な金を使い警察を贈賄した。そうして証拠は焼却末殺されたのか、事件の真相は全て原因不明と処理された。そしてコロンビアでは迷宮入りとなった。
 サンペールの甥ダニエル(新聞記者)は“伯父がガルデル一行を地獄に落とした”と、ボゴタの有名紙に投稿している(*)

 そのうえ、ガルデル死後しばらくして伝記作者フランシスコ・ガルシーア・ヒメーネスが魔法使いのような巧みな文章を駆使して書かれた次の物語を小生はまんまと信じてしまい、次の様に書いたのである。「ガルデルから嫡出された銃弾は彼の青年時代のある夜に友人達と誕生日祝い後にキャバレー・パレー・ド・グラスを出た時に後を追いかけて来た人物にいきなり拳銃で撃たれた時の銃弾で、医者が摘出せず放置した為である」とガルデル物語(2012210日)の「パレー・ド・グラス」で詳しく書いたが、考えてみれば20年以上に亘り肺近くに異物が埋まる体であの声量と美声を保つなどはいかなる頑丈な肉体でも無理な話。この文は飛んでも無い捏造記事であつた。要するに事故の時に死体から発見された銃弾の証拠隠滅の為に一つの物語をデッチ上げたのである。

 ではガルデルの肺に食い込んでいた銃弾とサンペールにあつた銃弾貫通の痕をどう説明すれば良いのか。(銃弾はサンペールの喉から貫通していた説はマニサレース機から発砲された様に見せかける為と判断する)それは後部席から誰かが拳銃を発砲した殺人に由り起きた事故だったのである。一発はガルデルの肺に食い込み、ニ発目はサンペールのうなじに命中して脳天を貫通。では誰が犯人だろうか。生存者のホセ・プラハ、ホセ・マリア・アギラールとフリィンと三人居たがフリィンは無傷だったが行方をくらました。プラハは頑なに口をあけなかった。アギラールの証言はころころ変わり誰かに口封じされた疑いが見届けられた。

  ホセ・アギラールは事故直後、メデジンとボゴタの病院を転々とした後、長旅の果てに帰国したが、ショックで錯乱状態から抜けられなかった。いつも「奴は頭にきてる」といわれるタイプの輩で、目の前で殺人、そして事故という断末魔を見た為に、精神的にも肉体的にも、打ちのめされ、やけどの後遺症で手も不具になりはて、ギターもままにならず、ほとんど目も見えなくなっていた様だった。自宅に長い間隠れていたのだが、或る日、あのデフィーノが約束を果さないから「カンズメ(秘密)の蓋を」開けるぞとばかりに逆キレしたらしく、アギラールは興奮・混乱して、ガルデルの自称婚約者であるイサベル・デル・バージェにあの呪わしい事件の犯人を明かしていたのである。それは事故後一年目の19367月の雑誌にインタビュー記事として載つたのである。

 


イサベルが雑誌「カンシオン・モデルナ」に語ったアギラールの証言は:
『アルフレッド・レ・ペラはボゴタ最後の公演でカルロスをボリーバル広場の野外で歌わせた。音響装置の無い時代の事ゆえ、後方の観衆はガルデルの歌が良く聞こえず、騒ぎを呼び起こした。この出来事でガルデルはレ・ペラに悪感情をもった様で彼と訣別する決意をしたらしく、その事で機内で口論になった際にレ・ペラが行き成り拳銃を発射した。
銃弾はパイロットの後ろ首に命中。 機はコントロールを失い、右前に離陸待機中のマニサレース号に衝突炎上したのである』(*)。


参考データ:
(1) La Cancion Moderna Julio 1936
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Tomado del libro “Repatriación de Gardel”, de Ricardo Ostuni
CAPITULO XX

(2) LA TRAGEDIA Y EL MITO
TANGO Reporter --- Nro 157 - Junio 2009.               
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Aquella tarde de Junio
Por Ricardo Ostuni

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