2010年6月30日水曜日

ガルデル、無言の帰国


















ガルデルの遺体の到着、1936年2月5日、
ブエノス・アイレス市ダルセーナ・ノルテ港
前回のブログにアギラールの回想から1935年6月24日の生々しい事故現場の様子を報告しましたが、ここではガルデルの遺体がメデジンからニューヨーク経由でやつと1936年2月5日に故郷へ帰り着き、翌日の2月6日(木)にルナパークでの葬儀から7日オエステ墓地(チャカリータ)に埋葬された経緯を報告します。

ブエノス・アイレス2月5日の朝明けは強い日差しに暑い日呈が予告された。早朝から人々は小グループごとに港に集まり始め、午前11時ごろには約3万人の群集が埋め尽くしていた。その日の夕刊紙には“警官大配置”の報道されたが、市警察管区から25名の警察、騎馬隊から15名の兵隊だけが散らばって、ダルセーナ・ノルテ(北ドック)埠頭の群集を遮ぎ警備していた、。百名ほどの出迎え人グループの、その中にソフィア・バサン、ピエリーナ・デァレッシー、ティト・ルシアルド、セレドニオ・フローレス、チャルロ、イリネオ・レギサモ、フランシスコ・マッチオらの顔も見られた。何かの儀式が予告されていたが11時30分に船が接岸する時に騒動が起こり、騎馬隊が制止に入り静剰が取り戻された時点で棺が荷下げされた。一時間後に税関を小グループが棺を運び出すのが見られ、再び新しい騒動が起きて、ラサーノとルシアルドの間で何事か激しい争いも起こり、警官が仲介に割り込む。群集の見物人達は早急に棺へ近ずこうと試み。“民衆の手で”と多勢が叫ぶが、しかし遺体は豪華馬車に載せられ、ホセ・ラサーノが通夜の行われるルナパークへの行進の命令をとる。



右の写真は1935年6月25日ルナパークで祭られたガルデルの為に祭られた御通夜に参列する人々、当然にこの時点ではガルデルの遺体はここに無く、事故現場のコロンビア、メデジン市サンペドロ墓地に埋葬されている。





壊れて取っ手も無い棺に近ずこうとする奮闘する民衆達、付き添う行列に加わる人が増すばかり、幾人かは国歌を歌おうとしたが“静かに”と制止された。その代わりにガルデルのタンゴを唱える。レティーロ、レアンドロ・ノルテを過ぎ、ルナパーク、午後1時30分ごろ、スタジオに遺体が到着する前にと数千人が観覧席の良い場所を確保する為に走り始める。午後2時に銀色と暗色のオーク材で覆われた、新しい柩の前方で間断無く動く二つの追悼碑パレードが始まる。満員の為に夜の9時に正面玄関の扉が閉ざされ、ひとたまりの群集が、入り口の鉄格子前で焚き火を起こし、バニックに至らない小騒動を起こす。11時から演説が開始され、エンリケ・ガルシア・べジョソ(劇場協会長)、セグンド・ポマール、パキート・ブストス、ロベルト・セリージョ(作曲家)、クラウディオ・マルティネス・パイバ、らの面々と続き、歌手アスセナ・マイサーニはガルデルと映画共演した女優ロシータ・モレーノがハリッウドからの手紙を読む。

その後、“演奏者強化された”フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタが“シレンシオ”を二度繰り返し演奏した。ガルデルが録音したレコード会社が奉納した花輪は円形の中央にレコードはめ込まれ赤いレーベルにはカルロス・ガルデルと大きく記されていた。その他多数の花輪、花輪で埋まる。翌日午前10時に盛装された真新しい柩はイリネオ・レギサモ、ホセ・ラサーノらが先頭に八頭立て豪華馬車に積み込まれ、ルナパークを出発。コリエンテ通りを進み入る。馬車の列の監視は警察乗馬の騎兵中隊が追悼委員会メンバーか特定の私的友人のみが近接許可された。カジャオ通りにつくと、あるバーの前を通り、そこには歌手の巨大な肖像写真が掲げられバイオリン、ギター、バンドネオンのトリオがタンゴを奏でていた。

プエィレドン大通りに差し掛かると、劇団主アルベルト・バカレッサがガルデルに捧げた大きな花輪を携えた馬上のガウチョ姿の一団に出会い、行列は一時停止する。その花輪は蹄鉄形をし、その中心には歌手の肖像が敬意に飾られていた。ガウチョ一団は葬儀行列の最前に入り進む。ガスコン近辺で別グループが編入する、このグループは牛車に乗った地方衣装姿のガウチョとチーナス{a}等達で、アルベルト・バカレッサのサイネテ一座に所属すると大きく見出し書きされていた。



右の写真はチャカリータ墓地の入り口、1936年2月6日ガルデルの遺体が墓地に入るところ、ただただ群集のみが見える。








午後2時、30度と温度計を示し暑さは益々上がり数多くの気絶する人が出る。その時間にチャカリータに着き、そこで又演説の聴衆。群衆連の混乱が起こり再び警官らの騒乱統制。誰とも無く視界を確保するために周囲の納骨所によじ乗り其の内の何人かは天井の採光穴から霊廟の中に転落する輩まで出る騒ぎ。イレネオ・レギサモが押し合いに巻き込まれ気絶し緊急所に担ぎ込まれた。公衆救護は25失神者に至り、多数の打撲傷と足を骨折する者もでる。5人の女性は神経発作に襲われる。
それでも演説は続行された。バラレッサは宣教師と共にこれらの言葉で祈願を初める;
“神の名において全ての歌い鳥達は朝明け中に神に合掌。ソルサル・クリオージョは空高く舞い飛び、太陽の炎が翼を焦がし、歌い全とう死の最善の死をとげた!”これに引き続き何かしらの追悼語を続けたが、、、葬儀は午後1時30分に終了、人々は解散する。各夕刊紙のベスペルティーノ(、クリティカ、ノティシア・グラフィカス、ラ・ラソン紙等の見出しと多数の情報競争を広げた。全ての紙面は同じ様に感動的なかつ明解な記事の上にそれは大衆支持呼び覚まし、それにしても垣間見に扇動的を暴露した。“その大衆支持証明の出来事の間で‐夕刊紙で公告された‐フローレス街のラモン・ビティモーレの件について触れる価値がある。この青年はガルデルの友人で、最後の冥福を捧げるのを妨げる様な事はせず、歩行困難ゆえの難儀を克服しながら家を昼時に発ち疲れきり夜の8時にチャカリータに到着した。

注:1936年2月6日のガルデルの葬儀の様子をレポートしたが、この遺体はガルデルのものではなかつたらしいと言う説もある。
{a}チーナスとは南米諸国では少女達を呼ぶ、普通チーノとは中国人をさすが幼児、少年の意味もある。
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2010年6月25日金曜日

ガルデル、悲劇の公演旅行(2):ホセ・アギラールの回想から












左:メデジンのガルデル一行、(小生、1975年5月コロンビアに到着、その当時の新聞の切抜きから)
右:SACO便機内でモレーノが写したガルデル生存最後の写真?

 (1935年6月10日)メデジンに4日間滞在、カルロス・ガルデル一行はこの都市の最とも重要な闘牛場で歌い大快挙をあげ、そしてボゴタに向う事になり、6月12日に到着後8日間滞在(注:アギラールの記憶違い、実際には6月14~24日、10日間滞在)。
 

 旅の途中にて、ガルデルの秘書役としてのコルパ・モレーノ(ニューヨークでボクシングをしていたアルゼンチン青年を助手として、この躓く旅のメンバーに組み込んだ)が千メートルの高さの機内で和やかな雰囲気になったところで全員の写真を撮影(この写真は本当にコルパが撮影した、多くの憶測では誰か他の人物が写した、とあるが真実で無いとアギラールが断言している)、我々の恐怖に苦しむ顔々。コルパ・モレーノはガルデルに悪戯偽で“見ろ、飛行機落ちているみたいだ”と告げる、ガルデル、飛行機に乗るのに恐怖を抱いていたから、たまらない、激高して上に強く叱責した。  

 ボゴタに8日間(10日間が正しい)の賞賛に値する公演の結果後、到着に至らないカリの土地に我々は進路を向けた。おそらく積荷の過剰重量に違いない三発機の不調の時、強制的にメデジンに我々は降下しなければならず、パイロット、エルネスト・サンペール・メンドサの熟練のお蔭で、機の安定を成し遂げる{a}。
 

 その時に我々は墜落を免れた。これはあの事故を引き起こす、せいぜい一時間前のこと。再びメデジンで、昼食をして一休み(6月24日、午後2時50分出発?)、その後すぐ、カリへ続く進路をとる事にする。その様に我々は行動を始め、次の順序で座席位置の選択を開始して;まずはセレドニオ・パラシオ氏(プロモータ、バランキージャの映画館主);その次はヘンリー・スワルツ(コロンビア・ユニバサール・ピクチャーズのマネジャー)、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、コルパ・モレーノ、アンヘル・リベロール、ホセ・プラハ(副操縦士?、及びガルデルの英語教師{b})、カルロス・ガルデル、続いて私、操縦席にエルネスト・サンペール(パイロット)。今思い出すが搭乗する瞬間に、カルロスが顔を振り向き際に-言いかい、インディオ、後1時間15分だ、その後、この奇怪な奴{c}壊してやろう、もう絶対に乗るもんか-と私に伝える。可愛そうなカルリートス!ほんの瞬間の後に灰に変わる姿を夢にも想像できず!、最後にフリィン氏{d}が搭乗、その前にその夜のガルデルの同時公演の12巻のフイルムを持ち込み、彼が機のドアーを閉める。
 サンペール・パイロットはその運搬を頑固に拒否、三発機に重量過剰だと言い切り拒絶に反対したが、だけれども決心きめて持ち込ませ。フリィンは直ちに安全ベルトの装着を全員に課す。ただ一人私が抵抗したが;だから機から脱出に成功した。ガルデルの最後の発言はキャラメルと耳につめる少しの綿を私に求める言葉。おまえ何を噛んでいるだと警告気味に‐インディオ、何を食べているんだ?‐、私は‐チューインガム‐と答える。オーケー、それ譲れ。綿を持っているか?耳につけるときの殆んど間もなく、飛行機は始動初め、地面から中々離陸できず{e}。全員大惨事の虫の知らせを感じる異常な予感の為のように思われ、我々は視線を合わした。
 

 サンペールは離陸するのに絶望的な努力したのだが、三発機F‐31を超大型飛行機マニサーレス号に衝突を防げず。衝撃音が耳を寸裂き、二機の“この鳥類”は瞬間的に燃え上がる(現地時間1935年6月24日2時58分)。不滅の本能的に、何時どうやったかも分からずに、もう更に炎に包まれた三発機の亀裂から逃げ出した瞬間の出来事。ガルデル、レ・ペラ、とリベロール達の叫びを認めたが、彼等達のなんと悲痛の絶望に私は発狂しかねた。上着の切れ端で防御しながら救助の手を貸すべく炎に飛び込んだが。しかしながらその甲斐も無く目的は果たせず。コルパ・モレーノの無残な姿を見届けるのみ、あの状況はダンテ風の地獄と化し;我々は生きたバーベキュー、我々の肉体が燃えており、恐怖に茫然として多勢の民衆群は全然助けの手を貸さない。私は48時間も失心の上、気を取り戻した時“タクシーを呼んでくれー”と大声で叫んでしまう。人々達は混乱した、何も手につかず、私の叫びが分からずに、応対にいっそう困難にした。かなり後の自力で立ち上がれた時、この土地の人々はタクシーを“カーロ(車)”呼ぶと悟り、それが混乱の元。マニサーレス機(の乗務員と乗客7名)は全員死亡;我々では僅かにグラン・フリィン、ホセ・プラハと私が生き残る。私への報告によれば、彼(リベロール)は腕が落ち、盲目と化し、おまけに気が狂い、彼ギタリストと私は別々の病室に入院させられ、よき同僚の恐ろしき苦悶を受けた。死なさ無いでくれと私に頼む、たとえそれが可能ならば!リベロールが受けた悲惨を目撃した、その原因の印象は絶対に抹殺できないだろう。アギラールよ、8人の子供と妻がいるんだ;医者の診察を頼んでくれよ、なあ、、、死なさないでくれ!、、、すべては無駄と化し;二日後、即ち26日の朝がた3時、精神錯乱発作を起し、べットを飛び起き上がり病院内を駆け回り。ひどい出血多量の上、病室につれもどされたがそこで死亡した、、、

左:ボゴタのテチョ飛行場でメデジンへ行くSACO便に搭乗する前に写された写真                                   
右:事故現場、火災で破壊されたSACO機、
ヘンテ誌1969年ごろの記事、ガルデルの事故は謎ばかりで新しい疑問が推測されたと見出しにある。この雑誌に切り抜きは小生が1970年にブエノスに滞在中に古本屋で見つけたもの。



注:()内の日付けは著者が補足した。
{a}ボゴタ~メデジン航路のF‐31の操縦は米国人パイロット、スタンレイー・へビィーと副操縦士ウィリアン・フォスターだった筈だがアギラールの記憶違いではないか?
メデジンでエルネスト・サンペールが操縦幹を握り、重量過剰の原因による離陸に失敗した(追い風で離陸開始したとも言われている?)。これが事故原因の真実らしい。後年(1982年)に現れた新聞記者だったエナオ氏はオラシオ・フェレールに“フオードF-31機は離陸せずに直接マニサレース機に衝突した{e}”と語っている。この証言はアギラールの証言と一致するので、これが真実の事故原因と成るのではないか?機内で喧嘩紛争や発砲事件は全然話題にものっていない。マニサレース号の副操縦士が発砲した銃弾がサンペールの頭を下から貫通したとか、色々な憶測が語られているのだが、、、
{b}生存者の一人、ホセ・プラハ(スペイン、マラガ生まれ、ガルデルの英語教師)。
{c}SACO社F‐31機その物をさす。
{d}グラン・フリィン(米国人)はSACO便の運行係り、彼はかすり傷も受けずに生存、事件後,姿を晦まし、バランキージャから出国して、フロリダの故郷へ妻マルタ(コロンビア人)と帰還する。
{e}この呪われた事故の衝突時間は現地時間で1935年6月24日午後2時58分(別のデータでは午後3:05~07分とあるが?)日本時間では6月25日午前4時58分(時差14時間進み)となる。
写真の説明:
左上:メデジンで
右上:SACO機内のガルデル、生存最後の写真となる?
左下:ボゴタのテチョ飛行場で、
右下:事故現場の飛行機と、
下中央:
現在のメデジン、オラージャ・エレーラ飛行場(当時の名はラ・プラジャー)右側上の方向にある白い高い建物はコルテヘール(紡績会社)ビル、ここにガルデル一行が宿泊したホテル・ヨーロッパがあった。
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2010年6月20日日曜日

ガルデル、悲劇の公演旅行(1)ホセ・アギラールの回想から

今年も又6月がやって来た。あの6月24日、メデジンのあの飛行機事故、1935年(75年前)の余りにも馬鹿げた事故。この事故をテーマにした物語は毎々年繰り返されて、何も目新しいニュースは無いのだが、この事故の生存者の一人、ガルデルの伴奏ギタリスト、『インディオ』による回想を紹介しよう。パラマンゥトの映画撮影を終えたガルデルは南米興行旅行に行く計画を立て、ブエノスに置いてきたギタリスト達のバルビエリ、リベロールとウルグァイ人友人のギタリスト、ボナベティーらを手紙で呼び寄せる。ボナベティーはこの招待を辞退し、代わりにホセ・アギラールを推薦。アギラールは28年から3年間パリ公演の時代にガルデルと共演したが、しばらく彼の元から遠ざかっていた。ニューヨークで再会後、きわどくガルデルと運命を共にする境遇に至るのである。

インディオこと、ホセ・マリア・アギラール・ポーラス;1935年6月24日のメデジンにアギラールはガルデル達と共に居合わせた。ラテン・アメリカ諸国{a}をカルロス・ガルデルが為しとげ様としていた輝かしい公演旅行の途中で果せなった結末、彼とその相棒達の生命を阻んだ事故。後年、ガルデルの非劇を想い出して、アギラールが当時の雑誌“アルゼンチンの映画”に語った物語{b};(1935年3月28日、豪華客船“カオモ”に乗船)よくも無くニューヨークを我々は出発した、

左:サンフアン港にて、出迎人達と、
右:プエルト・リコ、トリオ・フエルナンデスと共に











(4月1日に)プエルト・リコ、サンフアンに朝7時に到着する。早朝にも関わらず、港には非常に驚嘆すべき群衆群が我々の到着を待機していた。大体2万~2万5千人の群集魂、多勢がガルデル!、、、ガルデル!、、、と絶叫、凱旋歓迎の敬意の証に市当局運行役員の間近の人々らが出迎えた。あそこで、市の役員等の熱望な要望の前で、ガルデル、非嘆にくれた視線を我々全員に向けるあいだ、一方の我々は一台の公用車の中にいたが、原文どおりに述べながら努力に勤め、決して経験豊でない演説を放ち;“親愛なる皆さん方、私は諸君達の盛大な歓迎を重ねかさねの感謝の思いです。そして、、、今夜の映画館で皆様方の来訪お待ちします”、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロールと私達は我慢しきれずに、腹を抱えて大爆笑。大体に計算して2万5千人の観衆群!その午後、別々のホテルに投宿後、練習の規定の時間に駆けつけると;彼とすでにレ・ペラ、バルビエリとリベロールも居合わせた。着いてから、注意を引くことはアルゼンチン仮設展示場に全旗が掲げてあり、良い雰囲気を醸し出していた。ある現地の青年に尋ねると、この状況出来事をなぜかの理由を尋ねたら、“なんだい!、、、知らないのか?-私に言い-、ガルデルのためだ、だけど、本当に知らないのか?世界一の歌い手を、、、しばらくの後で、カルロスに通知した時、信じてくれない、レ・ペラに向いながら、彼に言い、“いって来いよ、インディオが云う事本当か”、真実、本当の事と知ると、欺きで無いと、満足して、全員を見詰めながら、付け加え、“今晩、ムチャーチョス、我々自身各自も誇り高く振舞おうぜ”。

(同年4月25日)ベネゼーラに到着した時、ガルデルと契約した会社は、特別列車をチャーターしてくれた。グアイラ(港)から首都カラカスまで、平均45Kmの距離、鉄道沿線は群集の雑踏で歓呼が止まらない、女性庶民間の譫妄状態を刺激した。この時の共和国大統領のフアン・ビセンテ・ゴメス将軍{c}は、あの群衆騒ぎの理由を尋ねる命令を下した。“実はアルゼンチン歌手カルロス・ガルデル到来である”、と部下が連絡して、将軍はアチーストと親睦を結ぶのが好みで、その時個人邸宅のハルディンホテルにてリサイタルの実施するように招待。カルリートス、彼は大統領の闘鶏に熱中することを非公式に知り、(そのクラスの動物を百羽以上も飼う場所すら所持)ガルデルは機知の閃きで、有名なエスティ-ロ“ポーブレ・ガジョ・バタラス(安闘鶏)”を歌い始め、プログラムの終わりに当たり2曲多く歌い将軍の愛想ある歓迎を獲得する。即刻、私はギターで“クンパルシータ”を演奏、同時に告げたのは;“失礼します、我が将軍殿、ウルグァイ国歌を歌います”。終了させた時、満足な面持ちで褒めたもう、その夜にカルロスに手渡した、たつたの3曲で1万ボリーバルの贈り物。(5月2日、バレンシア)ベネゼーラには22日間滞在。(5月23日、客船でマラカイボを出港)キュラソー島に行く、行程を自動車で、彼の運転手、ロベルト、出発進行!、街道は全たくの狭い道、ほんの先まで運転しながら、崖の下に落ちる危険が無い様に注意深く街道に視線を向けながら、カルロスは私と一緒の後ろの座席から用心深く操縦を監視、彼は叫びながら;“注意しろよ、兄弟よ、我々を殺すなよな、オイ、二人の名誉民族を運でいるんだ、アルゼンチン人等は絶対に許さ無いぞ”。6月4日、(アルーバ島)その土地に3日間滞在、ティタ・メレーロと共演撮影の映画“ノーチェ・デ・ブエノス・アイレス”で公演を補充した。


左:キュラソー島からアルーバ島に行く飛行機に搭乗するところで、
右:コロンビア、バンランキージャのガルデルが出演したアポロ劇場(現在はメトロ劇場)










補充記事:マラカイボから海路にてベネゼーラの対岸にある、オランダ領アンティル諸島に属す、キュラサソー島へ;そこで5日間の夜公演。その時代に島にはフアン・ビセンテ・ゴメスの長期に亘る独裁政府に不満のベネゼーラ人の大グループが滞在しており、彼の政府への抵抗する組織を組んでいた。ガルデルはグループの彼等達の愛国の努力を賞賛し、ベネゼーラ国家元首の賞与1万ボリーバルを亡命者達に寄贈した。キュラソーでも重要な状態が生じる、カルロス・ガルデルは交通機関としての飛行機の利用を避けていたが、理由は恐怖を抱いていたからで、アルーバでその機会に巡りあった。航路をとるより筋道がたつので飛行機で旅をするのを受け容れた。初めての空路経験{d}と成る。アルーバ島からは海路を取り、汽船“ゴメス大統領”でバランキージャへ移動した。コロンビア港には6月4日に到着。デル・プラド・ホテルに投宿、この都市ではアポロ劇場で公演をお行なった後にそこからカルタヘナへ(6月6日)向う、極端な暑さを我慢しながら幾つかの田舎地方を通り過ぎ、午前11時にこの土地に到着。カルロス、この気候に完全に疲労尽くして、下着姿に成り代わる、勿論我々全員も同じ始末で誰も面会しない事に決めた。その様に一休みの我々に、ホテルの看守役が知らせるには、ある学校の全校生徒達が歓迎の挨拶に来ると、カルリートス、十字を胸に切り、“何、全生徒!如何しよう?突さに、衝動で、応じて;“ちょつと待たせてくれ”と。我々全員は可能な限りに服装整えて、迎えに玄関まで出る。3百人ほどの女生徒達。あの時何か驚嘆すべき出来事。カルロス、私を見詰めながら、“オイ、インディオ、遠ざけてくれ、、、”、一瞬言葉を交わした後と耐え難き暑さの為に自筆サインを尻込みながらも、私の介入のお陰で彼女達は別れ告げながら去っていく。たつた一人、もう成熟気味の女生徒、紛れも無く大胆な見つめ留まり;“私はサインもらって無いの、失礼だけど握手して”、カルロス、微笑み返し手を出しかけた瞬間、彼女素早い動作で、頬を両手で支え素早くキス、あっという間に駈け去る。仰天する物腰に、出来事を楽しむ暇な無く;可哀想に彼女は余りの不美人、、、!

注:()内の日付けは著者が補足した
{a}興行旅行先のラテン・アメリカ諸国はプエルト・リコ、ベネゼーラ、オランダ領アンティージャ諸島(キュラサソー、アルーバ)、コロンビア(バランキージャ、カルタヘナ、メデジン、ボゴタの各都市)を訪問。カリからブエナベントゥーラ港からパナマ市、キューバ島、メキシコヘ行く予定だった。この公演旅行はニューヨーク出発前3月20~25日の間にガルデルの肉声でこの旅行予定が972曲目のレコードに録音されている。ブエノス・アイレスへ帰る途中ではなかった事になる。
{b}事故後15年、1950年の時期
{c}当時のベネゼーラ独裁大統領
{d}1935年5月28日、ロイヤル・マーツチャピー・エアーラインのフォッカー三発機に搭乗、アルーバ島へ(写真あり)
写真の解説:
右上:ガルデルがプエルト・リコ島に着いた時の歓迎者と共に、
左上:プエルト・リコのトリオ・フエルナンデスと共に、
中右:キュラソー島からアルーバ島へ行く飛行機(フォーカー三発機)に搭乗するところ、
中左:バランキージャ市公演先、アポロ劇場、

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2010年6月15日火曜日

ガルデルのギタリスト達



上:ガルデルのギター伴奏者達
左からホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、ネグロ・リカルド
1928年ごろパリにて

ギジェルモ・バルビエリ:
(1933年10月11日、モンテビデオにて雑誌“カンショネーラ(詩集)”のインタビューによる);ギジェルモ・バルビエリはバルス“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”の作曲者、ガルデルの元で14年間も同伴している。“カンシショネーラ”のためにインタビューを初めよう、、、もうしばらく間にバルビエリとの誠実と心からの親交を我々は育てている。文通は水溜り(大西洋)を事細かに交差し、ニュースの相互交換と我々の間でこのミロンゲーロ環境の絆を狭めた。ガルデルの来訪の繰上げ結果となり、“カンシオネーラ”にニュースを送るのを急いだ。

カエルの子はカエル、、、
ギター奏者の息子、ギター奏者は当然だ;バルビエリは何故かつて、リボンで飾ったギター奏者のアルペッジョにあやされ、男盛りに目標を達成への集中の力で、“ホビエ(おやじ)”に気に入られる程に研磨した。1908年生まれのバルビエリには平静と笑いが続く、何かギタリスト経歴の試金石の最先端に行く様。彼のプロ最初の一歩をその時を経過した。記憶しているがあの時に“フエジェ”フェリクス・ロドリゲスとバイオリンのペドロ・バジャリーノと彼のギターでトリオを編成、、、ポルテニョの町並みのセレナータや洗礼式の興を添えにダンス場を歩き回る、、、後ほどロドリゲスがモンテビデオで仕事を手に入れて、バルビエリの元を去っていき、彼はブエノス・アイレスにそのまま留まる、それは感動的な同調者のダンス夜間興行に参加しなければ成いため。

ガルデルと知った動機は?;
バホ・ベルグラーノ{a}でパレルモ競馬場の“ピンゴ(競走馬)”勝利祝い大集会があった。彼らはバステリーカの馬舎の連中、あるTurf(競馬)グループとミロンガの人達の歌囲みとカクテルの集会。ガルデルがラサーノと歌い、多分に興味深く聞いていた彼のバルビエリに注目を向ける。パーティー集会が終わり、話し合いの機会を約束し、我々は別れを告げた。後日にラサーノがエスメラルダ劇場(今日、マイプー)に現れる、私が出演していた場所、私に話し、待遇をきめその時から私の仕事に就いている。それは1919年。次の2月18日で“マゴ(魔法使い)”のギタリストとして18年間勤めを果たす。私に同伴したギタリスト達はホセ・リカルド、ホセ・アギラール、そして現在の仲間はペトロッシ、リベロール、ビバス。

”ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”はバルスのクンパルシータ
ギジェルモ・バルビエリはリオ・デ・ラ・プラタでの高く評価される一人の作者、豊な成功の微笑みの時間が流れからなる、60曲以上の作品のレコード録音を発行。彼のより素晴らしさの全ては、“ロサ・デ・オトニョ”全時代のそのやり方で、かのバルスは15年の間“ラ・クンパルシータ”と競り合う。“ロサ・デ・オトニョ”は歌手達、女性歌手達には、いつも鮮やかに成し遂げられない防火テスト。バルビエリの際立った成功は“クルス・デ・パロ(棒切れの十字架)”、“ビエホ・スモーキング(古い~)”、“アンクラオ・エン・パリ(パリに繫がれて)”、“トローバス”、“オリビダオ”、“バリオ・ビエホ”、“トゥ・ビエハ・ベンターナ”リオプラテンセの歌手達の間の唇に浮かぶ歌、今丁度タンゴ“ラ・ノビア・アウセンテ”を創作中。我々が概要をきめしている間、バルビエリのこの音符をギターを“カチョ(つかみ)”、カディカモ作詞のこっけいな風タンゴ“エル・ケ・アトラソ・エル・レロホ(彼が時計を送らした)の最新曲を我々に聞かせてくれる;カルデナス、リアル、フローレスらの作詞が彼のお気に入り。

将来の計画は?:
もしガルデルがヨーロッパに行き不在中は、バルビエリは同僚とモンテビデオに出演希望。ウルグァジョかアルゼンチンノかまだ分からない、マゴのギタリストが同伴する歌手。唯先行できるのは我々の“ポージョ(若者)”を“ビチャド(監視された)”、候補者は今日の“歌手達中の歌手”の位置を占める者のようである。いつたい誰だろう?。

アンヘル・ドミンゴ・リベロール
1930年3月20日にホセ(ネグロ)リカルドの脱退により、ガルデル、新しいギタリストを編入した。バルビエリとアギラール一緒に練習テスト試みかけるために、新しい候補者をジェアン・ジャレス735に呼びつけた:“こいつに決めた”ガルデルが言い、アンヘル・ドミンゴ・リベロールを指差して、愛想のよいカナリア島からの移住者両親の息子で36歳になる。アギラールがカルリートスが雇いたい関心があると知らせ行ったとき、コリエンテ通に在る有名なタンゴ演奏家アジトのカフェ・ビジャーレス36にリベロールは室内装飾とペンキ屋として、そこの修繕に従事していた。その上、リベロールは二重唱のフェラーンディ二とコンテ等のところで仕事していたが、それはガルデルと彼の同僚達が高く評価する微候を感じて、彼らは自由にするのに抵抗。ドミンゴ・コンテは後日に語る;“リベロール、脱退しなければ成らない事情を心配しており、残念だがこの機会では満足し、だけれども我々は彼(ガルデル)の様なギタリストになる重要性を持つことを理解できる、それはきわめて重要な一歩で、ガルデルと活動を共にするのは我々は幸福に思う”。“エル・フラコ”とあだ名をつけ、ガルデルはこの新しい伴奏者を直ぐに親愛を抱く。フアン達は、特別に女性フアン達は公演連の後でガルデルに事細やかに花束やチョコレートを捧げたが;ガルデルは花束をドニャ・ベルタにとつてお気、しかしそれからはチョコレートを子沢山のリベロールに渡す習慣にした。
ある時期にリベロールはスピーカー役目を引き受ける、それはガルデルが歌った個々の題名を司会役。1930年3月20日、カルロス・ガルデルはギタリスト達のアギラール、バルビエリ、リベロールらの各テーマの“フベントゥー(青春)”、“コラゾン・デ・パペル(紙の心)”、“パロミータ・ブランカ(白い鳩)”、“アロマ・デル・カイロ(カイロの香り)”を取り上げ録音し、4月1日にピアノ、ロドルホ・ビアジ(ピアノ)とアントニオ・ロディオ(バイオリン)を加えて再び録音した。リベロールはギター教師でもあり、ガルデルに4年間同伴。“ビオレーロ(ギタリスト)”として尽くしきった業績が認められ、経験をつんだ音楽家扱いされ上昇志向の芸術を開発。創作者の資格は、リベロールもまた栄冠獲得し、各作品の少なく無い利率を得ている;“トローバス”、“ロサル・デ・アモール”と“マニャニータ・デ・カンポ”らの曲が、コンサートで満足にガルデルを堪能させた。

注:
{a}バホ・ベルグラーノはブエノス・アイレスの北側の街区でパレルモ競馬場に隣接している

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2010年6月11日金曜日

ガルデル、インタビューに答える(2)


バルセローナのガルデル(2)1929年6月2日
ギタリスト、ホセ・アギラールはこの時期にガルデルの元を離れたので、彼の回想はプッリと切れて仕舞っているので、モンテビデオで発行されていたエル・プラタ紙の記事より、バルセローナで行われたインタビューに答えた内容を載せよう。
バルセローナにカルロス・ガルデルが来訪した際、地元のある新聞に興味深い話題の報道記事を発見した。又この複刻記事は読者諸君には有意義に奨励出来るだろう。

では直ちに;カルリートス・ガルデルの元へ、、、だけれども、、、カルロス・ガルデルを紹介するのに真に論争の種になるか?決果としてはノーだろう。
ガルデルは余りに有名で我々の間では非常に良い家族待遇として受け容れられるだろう。
堅苦しい扱いは間違いであり、彼は我々のもの、より一人のバルセローナ市民と同じ、彼を待遇する機会があって、我々は彼を同郷人扱いすべきだろう。今日、ガルデルはバルセローナで仕事をしている。完全な、凄まじい勝利を手に入れた、パリからの来訪で。数週間にわたリ、この偉大なアルゼンチン・タレントはセーヌの町の注目の流行最先端の人物。
雨ふる成功、雨ふるフランコ、報道による雨ふる感動、、、彼らが満足して見つめるパリにてのガルデルの凱旋を我々は目撃した。今日、我々はもう伝えたが、ガルデルはバルセローナにいる。金曜日に彼と三時間も同伴した。晩餐し、語り合い、飲み明かし、インタビューに花が咲く。プリンシパル・パラセー劇場出演の後、5月14日、アベニーダ映画館にデビューするために、ガルデルはマドリードに去っていく。5月24日にはパリに戻リ、数日過ごした後で、6月5日にブエノス・アイレスに向うため“ギゥリオ・セサレー”客船に乗船する、一ヶ月の休暇をシゥダー・デル・ラプラタで過ごし、その後ポルテニョー劇場に一ヶ月公演する。続けて6日間の契約でもデンテビデオに行くだろう、、、9月12日にサン・フアン・デ・ルスにデビューする。10月の初めに再びパリに行く。

新聞記者の質問:当然、お気に入り、パリの成功は?
ガルデル:非常に満足だ。そして戻る願望しきり、ミスチンゲツは“ムーラン・ルージュ”に出演を私に申し出た;さらに別の申し出も持っている、しかしながらまだ具体的に全然決めていない。
記者:貴方のレコードの売れ行きは何か驚くべきニュースですね。詳しく説明くださいませんか?
ガルデル:パリではレコード72枚を録音した。アイデアの一つとして“ラモーナ”だけで8万2千枚を販売した。
記者:全部の内で?
ガルデル:概算できない、記憶でね、パリでの録音したレコードの決債を今日までに単に実施したのを言おう、私へのもたらし利潤は演技者権利の30万フランコ。
記者:我々にこれらに関したより多くの数を簡単に説明してください?
ガルデル:14年前からレコード録音している。オデオン商会と現在5年間以上の契約をした。月平均23枚のレコード録音をする。
記者:これはどれだけの利潤を上げられますか?
ガルデル:しかしこれはレパトリーがヒットしたとして、一ヶ月分に1万8千~2万アルゼンチン・ペソの収入、、、私は創作者、350曲の歌、よく見届けて欲しい。全部、完全に、レコードに録音した。これらの多くは繰り返し再録音しなければ成らなった。例として“エル・カレテーロ”、フランス原盤だけの話だけれども、“ラモーナ”はどうだろう、14年前にブエノス・アイレスで初録音の。
記者:タンゴの大きな人気の原因は何処にあるか、貴方の意見は?
ガルデル:至極単純だ、美しいミユージック、易しく、鑑賞者全体に親しみ易いだから。
記者:2ヶ月近く前に引き起こった、ある地域のカタルニャー新聞にて、“タンゴマニア”に対するの種類を貴方は知っていますか?
ガルデル:はい、熟知していたさ。この正当化する姿勢に私は出会った。一年以上の間ずつと、バルセローナはタンゴベースによる攻撃の事実上被害者だった。事実上行き過ぎだった、そして無神経な問題だ。バルセローナ民衆達、とても善良、とても聡明、これらに辛抱強い意思を明らかにした、、、さらに哀しき事は実はタンゴマニアと呼ばれる何者である、一連の残念な事を混同した、音楽とは全たく関係の無い事。罪は無節操達にあり、過剰な抜け目の無い人達がいたということ、、、少しも不思議ではない、だから、反動は我々が話合ったではないか。
記者:貴方の主張は全くそのとうり、私の友人、ガルデルさん、、、
ガルデル:私はアチーストの随一点の視覚で観衆達を可能なまでに楽しませる努力でビダリータ、フォクスとShimmysを歌うようにタンゴも歌う。そして唯それだけ。
記者:話に聞いた処では、貴方は映画に専念するそうですね?
ガルデル:はい、“パラマゥント”と契約サインしています。1930年半ばごろ、パリを去り、ハーリウッドに行き、トーキー映画の撮影をします。
記者:それは長期期間占めるのですか?
ガルデル:8週間、すでに契約で定められている。報酬はどの位かって?
一週間に4千ドル受け取る、それは合計80万フランコの私に利潤をもたらす。
記者:悪くないですね、、、
ガルデル:いいえ、その上に計算して見ると初めてのフイルムを作るのだから。テスト的フイルム、どう説明できるかな、その後で別の物が来る可能性、来るだろう、確実にね。
記者:今、ここで最後、ちょつと、貴方のある悦話を私に話してくれませんかね、友人ガルデル。インタビュー全体の顔と目で辛味な悦話で終わりです。
ガルデル:だから、それだがね;2年後、やるだろう、モンテビデオで私に出くわすだろう、、、
ガルデルの不可思議な返答でこのインタビューは終わり、、、

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2010年6月8日火曜日

ガルデル、インタビューに答える(2)




                           






バルセローナのガルデル(1)
1925年12月;バルセローナは歌い輝くのに理想的な場所。伯爵都市、マドリードとは常に異なり、オペラとバリトンの声に調和させたガルデルを許容する独特の感受性があり、大衆的と洗練された、タンゴに合体した。さらに、カタルニャー市民等達は外来から訪ずれる全ての変化や豊富な文化傾行の瞬間をこの街は過ごしていた。

記者:バルセローナの町どう感じましたか?
ガルデル:華麗なる街。とてもモダン、勿論だ、堂々とした建築物、広大な街路、壮麗な通り。これら全体は、魅力的な眺望、バルセローナは淵に入り込んだ様だ、丘陵群に囲まれた、その中でエル・モンッジュクはいつそう際立つ。この成功した情報を単に貴方達が判断できる;目的は、私の契約は10日間歌う予定が2ヶ月も止まる結果、、、観衆たちは
私を本物の親愛感の招き受け容れた。
記者:カタルニャー民衆たちへの印象は?
ガルデル:賞賛に値する!聡明な市民、一人のアチーストに愛着を感じ時は全ての犠牲を可能にする。
記者:貴方はもうここを知っていましたか?
ガルデル:個人的にはノー。スペインには滞在した事はある、散歩旅行だが、レコードで知っていた。
記者:バルセローナで貴方のクリオージャ音楽が受け入れられた?
ガルデル:途方も無く受け容れられた。
記者:貴方のどの歌が大当たりしましたか?
ガルデル:第一に“エントラス・ノマス(どうぞお入り)”。、、、観衆達は私が舞台に登場する度に無心した。私のレパトリーは4百曲以上で成り立つが、だが辞退する方法無い。
プログラムに表われていない場合は特別に歌う嵌めになった。
記者:他には?
ガルデル:“ヌンカ・マス(もう二度と、、、)”、“フェア(卑怯物)”、“ブエノス・アイレス”、タンゴの中で、エスティーロの中で、“ラ・マリポーサ(蝶々)”、“ラ・サルテーニャ”、、、本当のところ全部気に入れられた。
記者:シーズンはどの様に終了しましたか?
ガルデル:開幕の時の様に、華麗に。バルセローナの貴婦人達が私に向けた敬意集会を組織してくれて、慈善興行の夜のために、何たることだ、、、

1926年3月、クリティカ紙:
カタルニャーのゴヤ劇場にて、デビューしたガルデル、主人公役切望の。今の前進したテクノロジーを受け容れて確実な幸運と名声を得た:ラジオ放送、レコード録音など、この都市が彼のキャリアのために重要を果たす。彼のレコード品質の改善をその時に決め、オデオン・カタルーニャの最新スタジオにて録音をするのを成し遂げる。1925年12月26日から1926年1月9日の間でギタリストのホセ・リカルド伴奏で29曲録音する。翌年11月の間にリカルドとバルビエリと共に帰還する。販売促進目的を確実にする為に全ての行動にカタルニャーラジオ放送のマイクロホンをインタビューの同意や新しいテーマ曲の予告に活用した。重要なことはバルセローナの街はガルデルの能力に対応した文化見解を与えた。美化するためのヨーロッパ最上の技能もたらす為に占められ、劇場音響の誇り高き都市、この良質無比で不可能なよそ者歌手を無感覚扱い出来ない。確かにバルセローナは実にカルロス・ガルデルの進路を変えたのであり、その上にカタルニャー市民側の明かな親愛の証を追加し、彼の賞賛者達が新型車グラハム・パイジェを進呈した。
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2010年6月5日土曜日

パリのガルデル(6)ホセ・アギラールの回想から

我々のタンゴ音楽と歌がパリを征服する:
何かを欲するのと発言するのは悪い事ではない;
野心を評明する過剰な傲慢も自惚れなく、
パリにタンゴを教える最初の瞬間から憧れを告白したガルデル。
思い出すが出発前に我々に言った事:
ムチャチョス!、、、
タンゴとは何か我々は教えようぜ、、、
彼らは全て踊る、、、そして彼らは全て歌う、、、
我々のタンゴの評判に、パリはすでに虜になっていた。
バンドネオンの嘆きとギター弦のうなりにすでに虜になっていた。
ガウチョの声をすでに聞いていた、我々の故郷より全てを引き抜く様な余りの完全無欠で勇壮な、湧出るクリオージョの信憑性と共に。しかしタンゴは引き続き珍しきもの。

マヌエル・ピサーロ{a}のオルケスタ:
前回の章での適用から、すでに指摘したように、同房達がその様な場所を探し、当然ながらタンゴを知っている、アルゼンチン人や南アメリカ人の多くが訪問する“パレルモ”と名前を変えていた、あのカフェ“ラ・ガローン”に出演しているマヌエル・ピサーロのオルケスタに我々は出会った場所。しかし、的確に言うと、とはいえ同様に多くのフランス人も通い、多数派ではないが彼らにとつてタンゴは流行事、それらをただ聞くのみ、単にそれだけ。おそらく、実を言うと全体の好みで無い様子と解釈できる;けれど本当に実は、あの日々の彼らの印象である。

タンゴには歌手が足りない:
何故タンゴは“パリ全体に”普及しない?
かの問題は熟考の末に、この解明は我々自身がもたらした。
ムチャーチョス、どの様に思うかい、これ“フランス人達”は気に入るかな?
この意見を述べるのは易しくはない。
我々にとつてタンゴは好きな事、だけれどもここでは我々はよそ者、
多分バルビエリが発言し、より優れた回答を見出す;
如何したってタンゴには歌手が足りないんだ、、、あんたの様な歌手、カルリートス、、、
それは別問題だろう、、、関係ないさ、、、
関係あるさ、カルリートス、、、この音楽のみで道を開けない、、、
人々はタンゴを意識した時、その本質を心に留め、そして言うだろう。
だからその為に、あんたの歌を聞くのが最上さ、、、
真先に耳を傾けるだろう;そうタンゴは進入し、彼らを躍らせ、いずれ分かるさ。
だけれどガルデルは-沈黙-我々よりも確信を持ち。
彼はタンゴに忠実だ。特有なクリオージョ歌唱群とタンゴに対し遭遇する困難を付き添う成功の間で完璧に見分け知っていた。

ガルデルによる説明:
ガルデルはタンゴは必ず、何時かの夜に大当たりすると思うと余りにも確信し、我々の出演する直前にこう言い渡した、、、見ろよ、ムチャチョス、、、単に一瞬で無く、これらは定着しなければ成らないんだ、、、さらに何かである、さらにより多く重要な、、、ちょつと考えれよ、、、都市間は互いに理解しあって、人々は、結局、こことあそことは同じ、、、あそこが心に感じれば、ここも同様に感じなければ、、、ブエノス・アイレスがパリを理解すれば、パリがブエノス・アイレスを理解出来ない事は無いだろう? この信頼と共に、いずれも同じ、唯その彼の声、比類無い条件で歌う、タンゴの位置において、ガルデルはパリの良識に直面した。それにこの言及は我々が待っていた様に起き、この場合についてまだ我々が告白してないのだが。

パリはタンゴ歌い、そして踊る:
ガルデルの成功は決定的だった;何らかの場合で、実に見事な、オペラ劇場フエステバルで起きたような、数回にわたる数曲のアンコールの求めを受けた場所、何故かと言うと歌い続ける要求をする観衆が立ち上がる。数日後に我々は気付くのだが、ガルデルによるタンゴ歌唱の内のいずれかをメロディーをとる口笛が、アルゼンチン人や南アメリカ人ではない歩行者達の間で聞かれた。夜半になると、フロリダでのガルデル出演後、それらはさらに現れ、淡き光の中でオルケスタがタンゴを奏でると、踊りに立つ人々はもうアルゼンチン達ばかりでは無かった。多くの場所の夜の娯楽施設ではオルケスタがタンゴ演奏を試み順調な傾向を示した。

ガルデルの人気の反響は:
これらの全部の即時反響はガルデルの人気により、これらを我々とアルゼンチン人達総てが同行した。フランス人、アルゼンチン人にとつても、タンゴは同じ道を行き、アルゼンチン人がタンゴを踊れない人物が存在するとは不可能と考察した。アルゼンチン人に向けた多大な共感の流れが同様にあった。その時代にパリに多く存在し、有名人や評判人の姿が彼等達の中に多く見られた。しかしながら、我々、ギタリスト達の話を引気合に出すと、バルビエリ、リカルド、と私、いまだに言葉の悪い決果をもたらしていた。我々はあるレストランにいた、直ぐに皆は我々を知っており、彼等の好奇心の的、それでもなお、我々の注文か注文したい物の獲得に深刻な問題だった。ここで本来のテーマから横道にそれるが我々の悩みにお付き合い願いたい!

魚、魚、又魚料理:
ホテルからいくつかのブロックにある典型的イタリー料理屋、オリンピックに我々は入りもむ、バルビエリは彼とリカルドがイタリー語を-少しばかり、だけれども十分に理解させられる-と言うので、そこえ我々は行くことにした。最初の仰天は、このイタリーレストランでは全員フランス人、彼等イタリー人の姿は何処にも見かけられず。リカルド、さらに決心して、“マイトレ(主事)”が持ってきたメニューを求め、それがフランス語のメニュー!リカルド、しかしながら、動揺せず、チラッと探し、さらに決意して、注文した;“ポワソン(魚)”手まねで全てに事まかせ。給仕が来て料理のサービス、フランス女性だけれども、我々の一人一人の前に魚料理を皿に盛り、、、我々は平らげた、給仕が戻る都度、リカルドが決心して、いいかい、これ良いじゃないか、、、これ以上悩みの種に入り込むのはよそう、同じものを続けようぜ、、、それを言い実行、繰り返しの注文、その上、三皿の魚料理がテーブルに来る。我々の三皿目、バルビエリと私の非難、別の給仕がテーブル脇を通った時、捧げていた盆はビーフとバタタフライ、エンドウ豆の様に見えた。それを見たバルビエリは、絶望の上に立ち上がり一度に、そこで、食堂ホールの真ん中で給仕に我々もビーフが欲しいと説明する。どう言ったんだい?どうやって?思い出せない一瞬に、結果は次の通り、その後で給仕が持って来たものは各一片のチーズと一瓶のソーダ水!挙句の果てにバルビエリは途方に暮れて、椅子に崩れ落ち、、、諸君!では本題に戻ろう。

ガルデルのレパトリーは:
あの時代のガルデルはどんな曲目歌ったかって?それに触れる切り抜き記事の類を保存してあるが;その上に、練習の時をどうして忘れられる、カルロスの成功を、大渇采で観衆が迎えた曲目数? フロリダにての彼のデビューあの宵夜、ガルデルは“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”、“エル・カレテーロ(荷馬車の御者)”、“テンゴ・ミエド(私は怖い)”、“マノス・ブルハス(悪女の腕)”、“マノ・ア・マノ(五分と五分)”、“ラモーナ”、“バリーオ・ビエホ(古い街)”、“ダンディー”、“アディオス・ムチャーチョス”多くのこれらの曲目は、一、二回繰り返しが続けて起こる現象、彼の公演は、だから、それは極端に消耗的な、しかしガルデルは尽力が好きで、観衆が熱狂するのが見られる時は全力を挙げて演唱した。

ガルデルの寛大な態度:
もしガルデルがこんなに寛大と親切な心でなかつたら、彼の様に、もし自分本位を抱き、もしかしたら多くの立場で我々がそれをやっていたら。真実は、彼は成功者、我々は単に謙虚な同伴者。しかしながら、ガルデルは常に我々を彼の高さと同類に扱い、我々の名を挙げるのをけして忘れる事無く、重要視し我々が何者かと紹介し、転換して、彼の従属的扱いに用いるのを拒否した。ある機会に私の曲を歌い、彼は私も彼と同じ様に作者であるとすでに語っている様に、観衆達に紹介し本来は彼に向けられた称賛が、私へ向けられる様にした。成功が益々広大した時、さらに違う振る舞いを示した。彼のギタリスト達(即ち我々)も、同様にプログラム中で何か独自のレパトリーを演奏する様に、‐これらをルイス・ペロッテーマネジャーとこれらの手はずを整え-我々に要約した。一つの独自の好機を我々に申し出でた。リカルドとバルビエリ、その時、大きな反響を受けた、幾つかのレパトリーナンバーを我々達は演奏した。あの宵夜の出演のフロリダで“ラ・クンパルシータ”、9・デ・フリオ”、と“レ・ファ・シ”この最後のタンゴはエンリケ・デルフィーノの曲で感嘆すべき大当たり受けた。

ガルデル、マヌエル・ピサーロ・オルケスタと歌う:
ある夜、成功の真只中にフロリダを出る、祝うために、我々全員でドン・ルイス・ペロティーと店舗の持ち主パゥル・サントス氏の招待で夕食に、レストランに入り少し経つと、彼が観衆の面前に現れると、歌を歌えと求めが始まる。拍手、叫び、余りの執拗さ、挙句の果てにガルデルは微笑みながら、食事の半端で立ち上がる。いいかい、ムチャーチョス、、、候補者にされた様だな、、、ギターをむき出しにしな、もし後で我々の食事終わらせて欲しいもんだ。幾つかのレパトリーを歌い終わり、我々は引き続き食事に取り掛かる。晩餐の後で、、、何をしようかな?キャバレーに流れ込み、ピサーロが出演中の、、、そこで本物の騒ぎになる、、、
そこには多勢のアルゼンチン人、南アメリカ人がいて、、、ガルデルの存在を知る処になり、全員が叫び始め;ケ・カンテ(それ、歌え)!、、、ケ・カンテ!、、、ケ・カンテ!、、、
ピサーロはテーブルに来て、同じく我々を招く。最終的に我々はガルデルが拍手の嵐の中をパルコ(舞台)に向うのを見入いてた。何を歌ったら好いかい?
まずは“マノ・ア・マノ”を歌い、、、あそこは爆発的な熱狂になり、再び歌い、そして三曲目、微笑みながら、その一層自前な天性の魅力を振り撒いて、ガルデル曰く;
友人達の皆さん、ありがとう、、、これは私の心に染み込ます、、、今、ここで一杯のワインとタンゴを踊るのが必要です、、、ピサーロのオルケスタの奏でるメロディーと観衆達の拍手渇采の中、多分ブエノス・アイレスのカップルと一緒にホールに一人で踊りに出て行く。我々のパリ滞在はこの自然に富んだエピソードばかり。

注:{a}マヌエル・ピサーロ:バンドネオン奏者、
1895年11月23日、ブエノス・アイレス、アルマグロ街生まれ
1982年11月10日、フランス、ニース没

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