2014年6月29日日曜日

ガルデルは生きていた(3)

タンゴバー「エル・アバスト」の出来事    前章のフリィンの証言による“ガルデル生存説”を読み,スクラップしてあった古い新聞のコラム記事を思い出した。    その記事は都市計画により公園化されたメデジン市庁舎脇のグアジャキル街のタンゴバー「エル・アバスト」に現われた「謎の男」の物語の記事が載っていた。あの街区は小生が訪れた時期(1976 年頃)は密輸入品マーケットが密集した混沌とした場所で夜になると周辺の数件のバーに火が灯り何処からともなくタンゴが響き流れてくるが...しかし,そこは場末の犯罪巣窟の様な不気味な雰意気さえ感じられた。そこの一角の半地下に「エル・アバスト」はあった。  店は決して高級な店構えでは無く,誰でも気楽に入れそうだった。ここは常時タンゴ(主にガルデルのテーマ)が歌われ演奏の実演ショーが売り物であると聞いていた。店内は極質素な椅子とテーブルにビールや地酒のアグアディエンテにほろ酔い加減の労働者風の人物達がジュークボックスから流れるタンゴを聴きもしないで大声でサッカーの話題に夢中になっていた。連れてきてくれた人には悪く思ったが,小生はショーが中々始まらないので落ち着けず,そこを逃げ出したい気持ちを我慢するのに苦労した記憶がある。    「この新聞のコラム記事を読んでみると...」  
『物語は40年代半ば頃。この“バー”に帽子を深めに被りレインコートの襟を立て顔面を隠し気味にした孤独な男が“この場所”へ頻繁に出入りしていた。 この男は一人でバーの薄暗い角の隅に座るのが常で,聞こえてくるタンゴに酔い気味なのか,それとも何か深い思索に没頭する様子だった。酔っ払い客の喧嘩争いや騒動がしばしば起こるにも関わらず,この男は冷静に振舞った。その上,奇怪な事に客の誰もが挑発を挑むどころか言葉も交わそうとしなかった。 ある夜の事...彼は突然タイミング悪く椅子を立ち地酒のボトルが置かれたテーブルを後にすると,たった今アントケーニャ地方の民謡トリオのメンバーが引き上げたステージに向かったと思うとギターの即興演奏をしながらマイクに向かい郷愁を誘うあの歌を... 「Yo adivino el parpadeo/de las luces que a lo lejos/van marcando mi retorno./Son las mismas que alumbraron/con sus pálidos reflejos/hondas horas de dolor. (おれは彼方を占う/遠くに輝くほのかな光を,/おれは帰えるべき導として..、/瞼に微かに見とどける.../深い苦しみの刻限を、、、)」 とばかりに“ボルベール(帰る)”を一気に歌い上げた。    店内の騒動や喧騒は一瞬,教会のミサ礼拝の如く静寂に包まれる。酔いに醒めた客の皆は「謎の男」の見事な歌いぶりに唖然している間にステージにはすでに男の影形も見当たらなかった。その姿はカルロス・ガルデルの容貌に余りにも似ているだけでなく,独特の声に気を揉ませるほど似せる能力だと,そこに居合わせた全員が一致して指摘した。タンゴに精通した人々はその夜の独特の“比類の無い歌声”は単なる物真似ではなく,真に迫る本物に違いないと断言した。正確に示すと,あそこで彼の姿を見届けたのは「1945年6月24日」の夜が最後だった。  そして「エル・アバスト」のオーナーもスタッフ達すら「謎の男」が誰であったか名前も何処から来たかも知らなかった。忘れられない夜更けにあのタンゴ“ボルベール”を紛れも無くガルデルの“その物ずばりの演唱”で居合わせた全ての観衆を驚かせた人物。とはいえ,ありきたりの感動を誰が必要としたのか?...  かの男は単に10年目の年忌を自分自身で祝った幽霊だった。』とコラムの著者ダビー・ヒメネス氏はこの事件の様子を生々しく書いているが,彼はカルデルが“ラ・プラジャ飛行場”の事故から奇跡的に生存した事実を知らなかったと思われる。  ミスター・フリィンが報告した様にガルデルは生きていたのだ!!!... そして,週刊誌「クロモ」の記者達が突き止めたエル・レティーロのフィンカ(農園)から誰からも咎められる事無く秘かに度々“エル・アバスト”に現れていたのだ...事故後,彼は唯一の機会に極少ないフアンの前で歌ったのである。そうだ,彼ガルデルは自分の“偽りの死”から“エル・マゴ(魔法使い)”の本領を発揮して生存を果たした10年目(60歳)を確認したい為に敢えて人前に現われたのだ。しかしながら,ガルデルのその後の消息を知る手段は無い。それは余りにも時が過ぎたから... 注記:1994年9月11日,エル・エスペクタドール紙日曜版のタンゴ特集コラム記事を参考にした。

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