2013年4月23日火曜日

ガルデル、日本に登場する


日本国内のタンゴフアン界にカルロス・ガルデルが登場したデータを探したのだが不思議な事に余り詳しいデータを発見できないのである。小生がタンゴを知った時期、昭和35年頃であるが、当時のベテラン・タンゴフアンの間ではガルデルはタンゴの歌唱スタイルの創立者で神様扱いされていた。又、彼達により神秘性が作り出されていて、タンゴを知ったばかりの知識に乏しい者にとっては近寄り難い存在であった。その上にレコードの入手も困難で儘にならず(当事オデオンとビクターでLPが出ていたが)、小生にとっては、ましてや歌われる言葉自体も理解できぬ有様であった。そうこうしている内に少しずつタンゴの自分なりの好みが解るようになり、ディ・サルリやトロイロと果てはアストル・ピアソーラにのめり込んでしまった自分を発見した(ガルデルは益々敬遠する存在になった)。その挙句にモダンタンゴなるジャンルに夢中になり、ピアソーラの活躍しているとだろうと思われた本場ブエノス・アイレスに行ったのであるが、、、図らずしもピアソーラにはめぐりあえず。2年後に再度挑戦した挙句の197412月にブエノスアイレスのコリセオ劇場でピアソーラの演奏を目の前に見届ける事が出来た。そして、それなりに本場のタンゴを楽しみ希望の大部分は達成出来た。そこで帰国する事にしたのであるが、本来のボヘミオ逼が頭を覘きだしたのでブエノスから鉄道でボリビアに向かいペルー、エクアドル経由でコロンビアに着いた。カリ市でテレビ工場に就職が決まり、技術的市場調査の命令が下り、コロンビア国内の主な都市に派遣される事になる。そこで初めて訪れたのがメデジンであった。そこはカルロス・ガルデルに深く関わる土地であるのを知る。まず出会ったのはオラージャ飛行場の片隅にあるガルデルの記念脾。タンゴを聞かせる店の入り口あるガルデル像、サン・ペドロ墓地のガルデルの墓標。そこ彼処に彼の面影が残るメデジン。やがて、首都ボゴタを訪れると、ここでもカフェやレコード店の店先で彼の歌に迎えられる。そして、偶然にも小公園にたたずむガルデル像の前にいた我が姿。そこで嫌が故にもガルデルの足跡を辿るデータを集める今日この頃に至るのであるが、そしてブログ“カルロス・ガルデル物語”を20091122日から【ガルデルの遺言状】を最初に載せた。次に【ガルデルの誕生の秘密】から今日まで足掛け3年を費やして、ガルデルの足跡を辿り続けてきたのだ。ここで、ふと本邦でのガルデルの資料を探し始めたのだが、不本意にもたいした成果を得られない。そこでGoogle探索で見つけたLuis Alposta Mosaicos  Porteños(ポルテーニニョのモザイク)という名前のブログサイトの中で“日本のガルデル”の記事を見つけたので参考資料を加えながら文章にしてみました。





 
本邦でのカルロス・ガルデルの登場は昭和初期にタンゴ評論家で知られる高橋忠雄氏がフランスから輸入したSPレコードで“ラモーナ(Vals 19281011日録音、レコード番号#18252B)”と“エル・カレーテロ(御者)(Cancion 19281011日録音、レコード番号#18251B)”の2曲が紹介されていた。そして、ガルデルの映画が昭和7年に日本初上演されたのはフランス・パラマゥント(193151日)製作の“ルセス・デ・ブエノス・アイレス(~の灯)”である。これは本邦最初に上映されたスペイン語版トーキー映画である。この映画に関して高橋氏の証言によるとより多くの観客に絶賛されたのは主演女優のソフィア・ボサンだった。ガルデルの歌は“トモ・イ・オブリゴ(M Romero-C Gardel)”が注目をう受けたが、“エル・ロサル(Julio Romero-G M Rodriguez)”はサウンド・トラックのシンクロの調子が悪く、歌手の唇の動きが音とずれたために聴くに耐えられない状態で、映画館内の大方の暴笑を誘い散々であったらしい。これ等はトーキー初期時代の初歩的な技術不足を露呈した現象であって、本邦におけるカルロス・ガルデルの真価には全く関係の無い事であるが、その6年後にはレコード販売が事実的に増販されるにいたり徐々にタンゴフアンの心を虜にしたのである。
追記:ルセス・デ。ブエノス・アイレスについては当ブログ【ガルデルと映画】もう一つの次元の伝記(2010425日)を参照下さい。


 

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