2009年11月22日日曜日

ガルデルの遺言状



ガルデルが1935年6月24日に南米コロンビアのアンデス山地メデジンで飛行機墜落事故で昇天した直後にタイミングよく彼の自筆で書かれたと言われる謎の偽造臭い遺言状により、彼はベルタ夫人の息子シャルル・ロムアルド・ガルデスに摩り替えられたのである。ここにこの遺言状の内容を紹介し、疑いを解析していこうと思う。



       
 焼け残ったパスポート          
 上と下のサインがガルデル本人のもの、
 真ん中のサインは偽のサイン


ガルデルの遺言状:
(1):ご存知の通り、前編でガルデル出生の秘密の証を具体的に説明しましたが、ガルデルの死後あまりにもタイミングの良い“遺言状”の現れにより、巧妙に情報操作が行われマスコミをもこの情報操作にはぐらかされたため、その後数々の真実とかけ離れた伝説が生まれるのです。例えば、ガルデルの養母である筈のベルタ夫人の実子であるシャルル・ロムアルドをガルデル本人に摩り替えてしまい、彼女を実母に仕立てた巧妙な“遺言状”の疑問を解く前に。ガルデルの事故死の通知を受けた、代理人アルマンド・デフィーノ氏の素早い行動を追うことにします。1935年7月2日、客船“マシージャ”に乗船し、7月18日にフランス、ボルドー到着、直ぐにトゥ―ルーズに行きベルタ夫人を見つけ、7月3日に共に折り返し、ブエノス・アイレスに向います。8月12日にブエノスに着き、翌日13日にベルタ夫人とガルデルが自筆で書いたと言われる“遺言状”を裁判所に提出します。まず初めに1935年8月13日に法廷に出された、あの『遺言状』です。この書状を読んでみると。『これは私の遺言状です。1933年11月7日付:ブエノス・アイレス市にて、

私の死後を考慮して充分な知的権限を享受したと判断の上で、この自筆の遺言状で全財産を相続人に授与する』。では、次の手続きをとります:

第一:『私はフランス人、トゥールーズで1890年12月11日に生まれ、ベルテ・ガルデス(Berthe Gardes)の息子です』。
第二:『私の本名は苗字名前をガルデス・ロムアルド・シャルル(公式文書では苗字が先に来る)であることを私自身が明白に表明するもので、芸能人であるため“ガルデル”の苗字を採り入れ、何時もこの苗字を名乗り、私の存在はこの苗字で世間の知る所以ですが、同時にアルゼンチン国立銀行に口座を所持し、また其の他の不動産等の財産をも所持しています。それらの名義はすべて養子姓名にて登録され、すなわち“カルロス・ガルデル”です』。
第三:私は独身であり、私の血を引く私生児はいません。
第四:借金等は皆無、貸し金は取り立てを起こしません。私の死亡した当日付けに証書類等は有効になります。
第五:私が直接指名した母親ベルタ・ガルデスが世間で随一の全財産相続者です。
第六:私の友人アルマンド・デフィーノ氏を私の遺言による遺言施行人として指名して、私の遺言状の決済を行なう権限を与えます。指名した母にこの法的手続きの補助を与えること。私が自筆で書き上げたこの本状を随一の署名で残します。:

この遺言状の全文は1985年ガルデル追悼50年目に発刊されたハイメ・リコ・サラサール著書の48ページから概訳したものです。ところで、この遺言状を読んでみると、数々の疑問が見え隠れしています。

1)独身者が何故遺言利益を母親だけに与えようとするのか、論理的な立場のはずだが?
2)この遺言状は何故生存中に発表されていなかったのか?答えとして、遺言状は生前に発表するものではない。
3)この遺言状は何故検認されていないのか? 其の通り法的不備が見え隠れしている。
上記の疑問はあまり注意深く洞察した形跡が無く、前編“ガルデル出生の秘密”で明かした数々の事実を全く無視しています。①:本名、②:生年月日、③:国籍、④:生母では無い、この四題について重大な偽証があります。そして、この書状のサインすらガルデル本人の物であるかの疑いがあるのです。この『書類』は合法性を剥奪する多くの理由が集合されており、良く観察をすると明瞭な法的例外を指摘できますので以下に述べていきましょう。
4)自筆遺言状として処理してある。興味在ることには、公証人の前で法的手続き(二人の証人の氏名、著名が無い)この法的責任を満足した書類としての条件が形成されていない。
5)芸能経歴の人気絶大な頂点にいながら、何故、この遺言状を残したのか不思議である。
6)特異なことに丁度ニューヨークに映画撮影に出発するために乗船しようとした同じ日に、この遺言状を作った?
7)この書類はフランス人を申告していますが、何故名前をフランス語で書いて無いのか名は“カルロス・ロムアルド(Carlosr Romualdo)”で苗字は“ガルデス(Gardes)”、とスペイン語で書かれており、自称実母は“Berthe Gardes”とフランス語になっています。
8)1890年生まれとありますが、別の書類では1887年生まれと申告されおり、説明不可能なのは真実を隠してる様なのに、これが有効に受理されている事。
9)ウルグアイ国出生証明者、アルゼンチン帰化証明者、軍隊検査証、フランスで申告した証明書など常に携帯する諸書類にはウルグアイ生れと明記されている筈だが、それに其の年、1933年10月1日、4日と25日にモンテビデオの日刊紙三紙のそれぞれのインタビュ―には“私はウルグアイ生まれ”と声明していた筈だが、ここで如何にしてフランス生まれとは解せない。
10)何故ウルグアイでは法律上無効の自筆遺言を選んだのか?また、証人二人の氏名も著名がないこと。彼は既にカラースコ(モンテビデオ郊外)に高価な土地を入手しており、代理人ディフーノが証人として登記手続き行っている筈で、この登記にはウルグアイ人とある事。
11)ガルデルが友人などに書いた手紙のサイン、所持していたパスポートなどの書類のサインとこの遺言状の“サインの筆跡(写真を参照)”が微妙に違うこと。
12)さらに疑問を助長させる事項が発見されている。ガルデルは、この遺言状の18日前  
に三箇所の公証役場に出頭しているのだが。
①:10月20日、アルマンド・デフィーノに財産委任権を当てるためにハシント・フェルナンデス公証人に申請している。
②:10月31日、カラスコの土地購入手続きをブシュ・ブエロ公証人に申請している。
③:11月7日(遺言書が書かれた日?)、レギサモに自家用車を譲るために名義変更手続きをブルレッ・イバニェス公証人に申請している。
こうした、数回の公証役場に行く機会がありながら、何故、これらの公証役場で遺言の相談あるいは正規の手続きをしていないのか不思議である。
13)検討せねばならい司法上にそぐわない別の様相が見える。
a):この相続手続きは法律上不可欠な部分の正に必要な死亡通知状なしに、また死亡後三ヶ月の正式期間を待たず、平然とこの事情で遺言状が開封されている。
b):メデジンで1935年12月14日に死亡証明書交付を受けた時は裁判所に“遺言状“を提出してから4ヶ月目でこの遺言状が有効発行期間は6ヶ月以上後である筈であるが受理されている。
死亡証明書のデータと“遺言状”のソレと合致しない箇所がある。
死亡証明書は死亡者『カルロス・ガルデル、ウルグアイ人、48歳』、とあり。
遺言状は“シャルル・ロムアルド・ガルデス、フランス人、44歳”とある。
c):相続手続きは相続人が実母であれば“遺言状”に明記する必要は無いはず。  
実母の出生証明書を添えれば充分なはず。

これらの数々の偽証が見え隠れした書状を有効として、遺産相続は受理され、遺産はベルタ・ガルデス夫人に与えられ、夫人が1943年7月7日(没年77歳)に死亡するとアルマンド・デフィーノが引き続きこの遺産相続を受けて、後に1945年2月22日付けにホセ・ラサーノに3万ペソでこの遺産(レコード版権からの収入も含む)を売却してしまう。
それにしても、遺産はレコード版権やモンテビデオ郊外のカラスコの邸宅など膨大な価値のものをどう分配したのだろうか、当時のサダイクの理事長、フランシスコ・カナロも又歴代の理事長も何等かに関係していた噂がある。でこれらの相続人は50年間の遺産相続権が切れるまで、充分この恩恵を受けている。しかし、果たしてベルタ夫人はこの遺産相続を充分に満悦したのだろうか。彼女の生活は可なり質素なもので、ガルデルが生存前に借金に追われ抵当に入れた何ら飾り気の無いその家に死ぬまで住み着いていた。彼女は利用された被害者の一人で,けして高額遺産相続者の境遇に相応しい贅沢は見出せない生活をしていた。ではこの多額の遺産は誰かが横取りしたか上前をくすねた人物が存在する。誰だろう一番初めに疑いを懸けられても可笑しくない人物が居る。遺言状を偽造したらしい容疑がある、代理人アルマンド・デフィーノである。ではこの遺言執行人のアルマンド・デフィーノの経歴を述べてみます。彼は1914~5年ごろからすでにガルデルと親交があり、彼からホセ・ラサーノから引き受けてガルデルの全財産の委任管理を任されたのは1931年10月ガルデルがフランスへ行く直前の頃から始まります。また、彼は元公証人であり、こうした公文書の扱いに優れていた筈です。そして、あのガルデルのジェアン・ハゥレスの家にはベルタ夫人とアナイス、フォルトナト・ムニェス夫妻が住み込んでいたが、其処え代理人アルマンド・ディフーノ夫妻が乗り込み住み込み始め、ベルタ夫人のマスコミへの証言対策をし、又ムニェス夫妻(ガルデル幼年期の両親役をして面倒を見たのはこの夫妻であり、ベルタ夫人は養母失格であった)の口を塞ぎ完全なマスコミ対策の情報コントロール始める。挙句の果てにアナイス夫人が死亡すると、この家から其の夫フォルトナト・ムニェス氏を追い出す、彼は息子の所へ引きとられたが直ぐに傷心のまま死亡する。ガルデルはこの夫妻達を真の肉親の様に慕い、手紙でデフィーノに彼たちを温情に扱うよう依頼していた筈なのだが、この詐欺師も同然の人物はこの老人を酷い扱いまでした。

*下の文は遺言状の最後の部分で、矢印はガルデルの筆跡ではない事を指摘している。
ぼっとうのサインの比較を参照ください。サインのインク印は疑わしい部分。











(2):さて、ガルデル出生の秘密を証、遺言状の謎を解き明かしましたが、まだ不本意に同意できない人もいると思いますので、アルゼンチン人の中にも彼はウルグアイ人と素直に認めていた人物が居たのです。その人は1931年5月に撮影したパラマウント映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”にガルデルと共演した、他でもないマエストロ・フリオ・デカロです。マエストロはガルデルの元パトロンのペドロ・バルデサ―レ氏の助言をこう評言しています。『ガルデルはウルグアイ人、そして、洗練されたレース模様に似た不思議なこの出生は本当に謎に包まれている』。ドン・ペドロが亡くなる直前の日に次のような引き合いを述べている。:

『バルデダサーレ氏の心からの証明の語りから:ほらデ・カロよ、君の友人の兄弟隣国ウルグアイ人の新聞記者を私に紹介してくれただろう。ただ知らせるだけでなくて、私の家庭では我が国アルゼンチンでは政治方針にしたがつて沈黙してきたが、カルロス・ガルデルのあらゆる種類の多くの苦悩について触れると、私がどれほど知り尽しているかは明かせないが、私の立場で貴方にこの真実を知ってほしいのです。貴方の友人AVLISはこの重要な事の自体のベールを取り除こうとしているのです。我々家族は軍人の出で、又兄弟に活動中の牧師も居ますので、この問題に直接の言動を避けます。しかし、私達はガルデルの父親がウルグアイ人であるのを既に承知しています。カルロスはベルタ夫人にとっては実子でも、我々には認められません。でもこの件は秘密で、是非多言をしないで欲しいのです。貴君の友人Avlisがこの情報を知りたがっているのも承知の上です。彼は彼自身の手で行動すれば良いのです』。エピローグで言い添え述べたように私もガルデルがウルグアイ人だと思う。書名:フリオ・デ・カロ


*右の写真の手紙はペドロ・バルダサーレ氏がフリオ・デ    
 カロに宛てた手紙

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5 件のコメント:

洋司 さんのコメント...

gotan chamuyoさんへ
 ガルデルは死ぬまで本名を明かさないことにした?何故?犯罪者でもなく、世間から身を隠す必要もないのにちょっと不自然ですよね。
                   タンゴカブキ

gotan chamuyo さんのコメント...

大谷さん、当ブログの一番初めの訪問ありがとう。
ところで、ガルデルは故意に本名を隠そうとしたのでは無くて、エスカジョーラの苗字が使えない立場に置かれていたからです。父親から戸籍上認知されなかったためです。14~5歳の時と成人に成り、数回に及び、タクアレンボーの父を尋ねていますが、彼からは強力な拒否に会い、挙句の果てに拳銃で足を打たれてもいます。もう一度出生編をこの後に記載しますのでよろしく。

El Bohemio さんのコメント...

今まで大方のフアンは偽の遺言状によりガルデルがフランス人に仕立てられた事実を知る事無く、そう信じられていたのです。ガルデルは友人にまめに手紙を書いていました。そこでこれらの手紙の筆跡とサインとがこの“遺言状“の筆跡、サインとが微妙に違うのです。そこでこの“遺言状”は怪しいと言うわけです。

福岡 貞夫 さんのコメント...

アバストのガルデル博物館は‘70年頃はタンゴショーがここで行われていた。昔はベルタ夫人、友人アナイス夫人と旦那さんフォルトナト・ムニィス氏(この夫婦はガルデルの幼年時期に実の親も同然に面倒をみた人達)ともう一人の女性イサベル・デル・バージェ(ガルデルの恋人とされる人)が住んでいた。ガルデルはこれらの人達の生活(経済的な)の面倒を見ていたのです。余り養母の役をはたさなかったベルタ夫人をも丁重に面倒を見ていたのです。

匿名 さんのコメント...

やはりこの遺言状を偽造したのはディフーノの単独行為でなくて、もつと大きな組織的に行われたのでは無いのかと思われる疑いが強い。ガルデルがウルグアイ国タクアレンボー生まれ説を強く否定する、それは何故なのか?決局は遺産相続手続き受理に不正があり、それを隠すために本当の出生を誤魔化す手段に出たのではないか?