小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2012年8月25日土曜日
躍進する”歌い手”(3)
ガルデルは都会や場末に宿している社会的不条理の問題テーマを描いたタンゴも広いレパートリの中で少なからず取り上げている。それらは労働法に縛られた男の老いた妻が祈るイエスキリスト“アル・ピエ・デ・ラ・サンタクルス(サンタクルスの足元で)”又、たった一つのパンを盗んだ挙句の判決は、、非情に詠う作詞家のセレドニオ・エステバン・フローレス作の“パン”、シャンパン、花、女に囲まれたキャバレーで銭無しで賭けをする“アクァフォルテ(銭無しで賭ける)”、働き者の靴工の息子は牧場主の娘と結ばれたが、、、貧しい“ギゥセプペ・エル・サパテーロ(靴工の)”見捨てられた無産者民衆、しかしながら、ガルデルの歌うこれ等のタンゴ歌詞には反逆心や苦悶が欠如しているのは奇妙な感覚に落ち込まされる。有名な作詞家達は世の中に幻滅した“ディセポリン”が取り上げた政治家による労働者階級の不当管理や文盲者を搾取る牧場主等が行う資産分配のばかげた模範的不平等の社会層を軽蔑した彼の“全テーマ”に繋ぎ通された皮肉感あふれた作品に驚かされた果てに一部の作家は自分を省みずに批評のみに専念の上にタンゴ界から除外したが、、、ガルデルはエンリケ・サントス・ディセポロ“ディセポリン”の作品、ひもを追い出す強い女の“ケ・バチャチェ(どうするつもり)”を始めに、今宵の悲しみに酔いどれる“エスタ・ノチェ・メ・エンボラチョ(今宵、俺は酔う)”、俺を破産させた“チョーラ(泥棒女)”、伊達男を哀れに見る“マレバヘ(やくざ仲間)”(注)、と女房が出て行き勝ち誇る“ビクトリア(勝ったぜ!)”や裏切られた“ジーラ、、、ジーラ、、”とお前の別れで消えた夢、バルス“スエニョ・デ・フベントゥー(青春の夢)”など8曲を取り上げている。今宵の麻薬的な魅力なガルデルの歌集はリオプラテンセ家庭の全てを肩に並べ、極普通にもっともらしくする限り、彼らには余り関係の無い問題の“意味”の歌詞もマテ茶とマテ茶の間のひと時に好まれた。しかし、ガルデルの芸術は真実と虚実の遥か彼方に存在し、彼のむき出しの芸術的な証の為に価値ずけられ、真の解釈により受け入れられて、それらの歌詞は熟慮の上にルンファルド(タンゴ語)化された。そして、過分に彼独特の他の歌手群に抜きん出たスタイル化上に威力ずけられ、それら全ては千曲ほどのタンゴ、バルス、ミロンガやカンシオンなどの多数のスタイルにより、ポピュラー歌集に載せられている。それはガルデル故に多大な群集に受け入れられた一つの語幹を課し、彼の“歌の才”の質により受け入れられたのだが、、、
注;マレバヘはフィリベルトが曲をつけている。
http://youtu.be/9L7HS8j82bc
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