小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2012年9月28日金曜日
ガルデルの銅像
ガルデルのモニュメント
2年ほど前のある日、ボゴタ市のチコノルテ街区の住宅地の名も無い小さな公園の中を通り抜け様とした時ある銅像に目が向いた。普通銅像は大抵英雄か政治家に相場が決まっていて、対外注意して見ようとしないものだが、、、その銅像はカルロス・ガルデルであったのだ。こんな所に如何してと自然な疑問が湧いてくるが、ガルデルはメデジンで飛行機事故に会う前にボゴタ市には10日余り公演滞在していたのだ。後で多少調査して見たらこの銅像は1999年8月31日にカラコルラヂオTVによりガルデルの声で“トモ・イ・オブリゴ”がスピーカから流され記念碑の序幕されたが、いつの間にか理由不明で撤去されていたらしい。この小公園は“ガルデル公園‘と名とあるのも知らずに横道を常時行き来していたのに全く気が付かなった我をあきれ返るが、、、ガルデル追悼70年記念として2005年6月24日、当時のボゴタ市長ルイス・エドァルド・ガルソン氏と在コロンビア亜国大使マルティン・バルサ氏ら立会いの下に再びこの銅像がここに据付された。製作者はフアン・カルロス・フェラーロ氏(亜)である。銅像の台には二つの記念プレートが貼り付けられている。これには当時のウルグアイ大使の名も明記されているので注意したい。何故か? 近年、ガルデルはウルグアイ人であるとの証拠を証明していた記念碑なのである。フェラーロ氏の作品でこの銅像と瓜二つに等しい銅像がブエノス市地下鉄D線ゴングレソ・デ・ツクマン駅にある。2912年9月7日【エル・ボヘミオ記】
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