小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2011年10月24日月曜日
ガルデルのCD-3(⑤ミ・ノーチェ・トリステ)
⑤:ミ・ノーチェ・トリステ(わが悲しみの夜)/タンゴ/歌:カルロス・ガルデル/
作者:パスクァル・コントゥルシ(昨年10月4日:ガルデルとタンゴの詩人達(1)参照ください)/1917年11月16日録音/レコード番号18010B/
(当ブログ昨年3月16日の“ミ・ノーチェ・トリステ”の誕生の経緯を載せて有りますので参考ください)
このタンゴは余りにも有名であり,今更語る事に及ばないのだが,コントゥルシが“ルンファルド”なる言葉をタンゴの歌詞に取り入れて,当時としては革新的な“味”を加味した事とガルデルの卓越スタイルによりタンゴ歌唱の新しい道を切り開いた歴史の始まりである。さて“ルンファルド”なる言葉は辞書によると“俗語”と訳されているが,なんと味気ない訳である。本来のルンファルド(スペイン語全体も)の響きは情緒があり詩的な響きすら感じられる。その“ルンファルド”をブエノスアイレス市住民が日常会話に常に前世紀から使ってきた“普通のことば”なのであるが。この国に来たイタリー人初めスペイン人や他のヨーロッパ諸国人らの移民として来た人々の使う“ことば”が一部の下層階級民や犯罪者の使う特殊的な“語彙”で差別的対象であった為,当時コントゥルシからこの“ルンファルド”が使われて歌われたタンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”の“詞”を見せられた(コントゥルシが“歌ったタンゴ”を聴かされた)ガルデルも躊躇して直ぐには自分のレパトリーに取り入れなかったという経緯がある。ところがこの象微的なタンゴ曲が盗作の疑いを擦り付けられたらしい。それはキューバの歌手アンヘル・サンチェスの歌ったバンブーコ“ローサ(バラ)”に酷似しているという。この歌詞の発表が1914年,当然コントゥルシの歌詞は1915年ごろの作である。
では下の歌詞を見てみましょう。歌詞が変えられている所は()で括った。後は全く同じである事に気が付くでしょう。
ミ・ノーチェ・トリステ/タンゴ/1915年作/作者:パスクアル・コントゥルシ
ローサ/バンブーコ/作者:アンヘル・サンチェス(渾名:キューバのプリンス)
Percantaa que me amuraste /(Sin motivo me dejaste)
俺を見捨てたペルカンタ(夜の蝶) /(理由も無く俺を置き去りにした)
en lo mejor de mi vida /すばらしい我が人生にて
dejandome el alma herida /俺の心に傷跡を残して
y espina en el corazon /その上心奥にとげまで
Sabiendo que te queria /君愛するのを知り尽くした上に
que tu eras mi alegria /君は我が喜び
y mi sueno abrasador /我が離せない夢
Para mi ya no hay consuelo /俺にはもう慰めすらも無い
y por eso me encurdelo /それゆえ俺は酔い溺れ
pa olvidarme de tu amor /君の愛を忘れ;る為に
Cuando voy a mi cotorro (solo a mi cuarto) /
俺のネグラに行く時 /(俺の部屋にただ行く時)
lo encuentro desarreglado /雑乱に出会う
todo triste, abandonado /見捨てられた,すべての悲しみ
me dan ganas de llorar /俺は涙ぐむ
Y me paso largo rato /そこにかなりのひと時をすごす
contemplando tu retrato /君の面影に瞑想
pa poderme consolar /慰めに居尽すため
De noche cuando me acuesto /夜半に寝付く時
no puedo cerrar la puerta /扉を閉められない
porque dejandola abierta /なぜかって,開けっぴろげに
me hago ilusion que volves /(volveis) ,君の帰り(同じ意味)を幻想して
Siempre llevo bizcochitos /いつも甘菓子を持参しつつ
pa tomar con matecitos /(“matecitos”)/マテ茶(“マテ茶”)を飲みつつ
como si estuvierais vos , / 君がそこに居るかのように
Y si vierais la catrera /ベッドに居る如く
como se pone cabrera /悪機嫌仕草のような
cuando no nos ve a los dos /二人の姿が見え無いとき
Ya no hay en el bulin /(tocador)/愛の巣(化粧台)はもう無い
aquellos lindos frasquitos /あの華麗な小瓶も
adornados con monitos /(lacitos)リボン(ちじめ)かざりと
todos de un mismo color /すべて同じ色あいの
Y el espejo esta empanado /鏡はぬれ曇り
pues parece que ha llorado /こうして,泣きぐむように
por la ausencia de tu amor /君の愛の欠如ゆえ
La guitarra en el ropero /ギターは洋服かけに
todavia esta colgada /未だにかけたまま
nadie en ella canta nada /(dice nada)/何人も彼女へ歌う事も無く(何言も無く)
ni hace sus cuerdas vibrar /あの縄も揺ぎ無く
Y la lampara del cuarto /部屋のランプもまた然り
tambien tu ausencia ha sentido /またも君の不在は意識させられ
porque la luz no ha queridos /なぜか光も途絶えた如く
mi noche triste alumbrar /光に透かす,わが悲しみの夜
注:太字の単語がルンファルドなのだが,意外に少ない事に気が着くでしょう。
この歌はガルデルが歌い,同じ年にロベルト・フィルポがオルケスタのみで演奏。1918年4月に女優マノリータ・ポリがサイネテ“ロス・ディエンテ・デル・ペーロス(犬の牙)”の中で歌い,徐々に有名になっていく。そして,1919年にスペイン人歌謡歌手マリア・タバゥがハバナに来た時にこの“ミ・ノチェー・トリステ”歌っているのだが。この時にハバナの音楽出版社はポルテーニョ版の歌詞をそのまま転用して新譜バンブーコ(コロンビア民謡)“ローサ”として発表。それを全くアンヘル・サンチェスに知らせずに,この曲のリズムを8分の6拍子に変えて歌わせたのが真相ではないかと思われる。アンヘル・サンチェスは1934年10月18日日付でサダイクのフランシスコ・ロムート会長に問題にされている“発表”は1914年に出版されたもので彼のメロディーはブエノスアイレスでは知られては居なく,コントゥシは容赦なくこのバンブーコを盗作したと手紙で告発している。しかし,キューバでペペ・サンチェスのボレロ「ポル・ケレルテ・ロカメンテ(気が狂うように愛してる)/デ・エスパーニャ・メ・デステラーロン・ビジャナメンテ(スペインで悪もの様に追われた)」の歌詞で始まる“ローサ”のパリ音楽祭コンクールに入賞したオリジナル歌詞が存在しているのが暴露されるに至り,コントゥルシは無罪である事が証明される。
(*注:データーはティノ・ディエス記“五戦の線の間から...”とグアダ・アベジェ記“ガルデル・ブエノスアイレス”#11を参考にした)
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