小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2010年4月25日日曜日
ガルデルと映画、もう一つの次元の伝記(3)
エル・マゴ{a}、パリで映画撮影
アルゼンチンにおいてモレーラの短編が封切りされている間、ガルデルはフランスに5ヶ月前から着ており、ニースには'31年4月から滞在居合わせ、数回の公演を果たしていた。サディエ・バロン・ワーケフィルド夫人(タバコ業、チェステーフェリド社主夫人)が主催したパーティで、ガルデルは喜劇映画界の巨匠、チャールス・チャップリンに巡り会い、共通の賛美者としてお互い敬意を分かち合う。チャプリンはポルテニョのスターとのこの出会いの良い印象を常に保った。その後ニース、パライス・メディテラネーでのフリオ・デ・カロと彼のオルケスタの公演で二人は再会している。チャプリンは‐タンゴに魅惑され‐マエストロに“エル・モティーボ”を踊るためにリクエストした。一方のガルデルもデ・カロに願いを託すが、それは後日の事になる。ヨーロッパにて最初の映画を撮影する事前の際である。1931年5月、ガルデルはパリの近郊ジョワンビル・スタジオにて撮影する映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”に出演の契約を結んだ時である。この映画に参加する人員等は亜国人達キャストが支配的のなかで監督はチリー人アデルキ・ミジャールであった。ガルデルの他では、サルミエント劇場のポルテニャ・レビュー劇団のメンバー達のソフィア・ボサン、ペドロ・クアルツチ、グロリア・グスマン、アルフレッド・カミニャ、マルコ・カプラン等の総勢であり、この劇団はフランス首都で興行を遂行していた。この芸術グループはマヌエル・ロメーロとルイス・バイロン・エレーラらの共同指揮下の元に1928年からヨーロッパを公演旅行中であった。このプロジェクトには亜国人俳優ビセンテ・パドゥアも特別参加した。しかしながら、撮影の直前になっても映画場面のバック・ミユージックを演奏するオルケスタが不在していた。バイオリニスト(マエストロ、デ・カロ)がフランスで困難なスケジュールの興行予定の立場にいたが、、、ガルデルはデ・カロをこの課題の任務を受け入れる様に説得した。
アルゼンチン映画での歴史上の検討を行えば、国外において殆んど無いも同然で、『エル・マゴ』はオデオン・レーベル・レコード製作社で、又、ミユージシャン達はブルスゥイク社にて録音した件を説明できる。その時代の占有権は国内芸術の輸出の危険の状態に成らなかつた。“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”の撮影はこの時期に撮影された、別の映画“ノブレサ・ガウチャ(ガウチャの気品)”と同じ様に3週間近くの期間が投入され、都市と田園生活のコントラストに基ずいたテーマにした映画である。画策は次の無声映画を継承させられる様に、異なる数の音楽的な併合は唯一つの口実に過ぎなかった。このやり方のうちで、ガルデルは“エル・ロサル(バラの木)”と“トモ・イ・オブリゴ”のテーマを歌う、それと同じ様にソフィア・ボサンは“カント・ポル・ノ・ジョラール(泣かない為の歌)”と“ラ・プロビンシアーナ(田舎娘)”を演唱した。、何れにしても観衆は随一の映画と歓迎した。人々は映写師に『エル・ソルサル』{a}が“トモ・イ・オブリゴ”を歌う場面を上演ごと2~3回繰り返しさせる要求した。映画の歴史において例外的瞬間が起こり、これらの振る舞いは‐バルセローナとブエノス・アイレスの様な離れた都市で頻繁に繰り替えされた-。一部で“歌手”の次の映画封切りで、観衆達はこの同様現象に反応した。この歓喜騒動の繰り返しは別の芸能人にはこの類似な現象は起こりそうもない。この映画の撮影にあたって、次のエピソードがある。この時期に集まること偶然にモレーノの劇団、フリオ・デ・カロの楽団それにマトス・ロドリゲスとお互い別々の目的でフランスに来ていたが、そこへガルデルの登場となり誰ともなく映画製作の話が持ち上がり、この計画をパラマゥントに持ち込むが予算不足を理由に断られる。が、そこにサディエ・バロン女史が登場し資金を提供する申しがあり、この映画撮影が実現する。又、1932年からのガルデル主演映画“エスペラメ”、“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”の映画もサディエ・バロン女史の資金援助で続行される事となったのである。
{a}:エル・マゴ、エル・ソルサル、エル・モローチョと、これ等の名前は全部ガルデルに付けられたあだ名である。
映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”のデータ:
制作社:パラマウンート
撮 影:テド・パルへ
シナリオ:マヌエル。ロメーロ、ルイス・バイロン・エレーラ
音 楽:ヘラルド・マトス・ロドリゲス
監 督:アデルキ・ミジャール
制作年代:1931年
上映時間:85分
出演俳優:
カルロス・ガルデル(役名:アンセルモ・トーレス)、
ソフイア・ボサン(エルビーラ・デル・ソラール)
グロリア・グスマン(ロシータ)、
ビセンテ・パドゥラ(シリアコ)、
ペドロ・クアルツチ(パブロ)、
アルベルト・ビジャミル(クゥインドス)、
カルロス・バエサ(事業経者)、
ホルへ・インファンテ(ロムアルド)、
マリータ・アンへレス(リリー)、
ホセ・アゲーラス(秘書)、
特別出演:
フリオ・デ・カロと彼のオルケスタ・ティピカ、
ガルデルの歌唄:
“トモ・イ・オブリゴ”
作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:カルロス・ガルデル
“エル・ロサル(バラの木)”
作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:へラルド・マトス・ロドリゲス
撮影地:フランス、ジョワンビル・スタジオ
アルゼンチンでの封切り:1931年9月23日、
ブエノス・アイレス:シネ・カピトル(映画館)
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