小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2010年4月20日火曜日
ガルデルと映画:もう一つの次元の伝記(2)
(2)ガルデルとトーキー映画の幕開け(エル・ソルサルは語り、歌う)
アルゼンチンの20年代後半から30年初めにトーキー映画の到来はタンゴ・オルケスタのメンバー達の間では彼らの没落を引起すのではないかと考え、受け入れにかなりの抵抗が起こった。抗議の影響にも拘らず、初めの音響機器が国に到着し運用がスタートされる。初期にて、フイルムとレコードを同期させる装置は多大の評判を獲得したのはビタホーンである。しかしながら、この手順は多数の不都合があつた。映写時点で多くの場合タイミングに失敗して、必然的な痛手により幾らかのフィルム駒を不慮の損害を受けた。フイルムにサウンドトラックが組み込まれた光学音響システムの方がより優れている。このシステムはデ・フォレスト・ホノフィルムが所有し、1927年にアルゼンチン・フイルム会社によりブエノス・アイレスに持ち込んでいた。デ・フォレストの問題は小ロールのみの使用が可能で、短編専門に有効であった。その理由で二ユースか短いミユージカルに使用され、1928年にデ・フォレスト装置により幾らかの数のミユージカル短編‐幾つかのホセ・ボーエルと別にソフィア・ボサン‐とイポリート・イリゴジェン大統領が映るドキュメントなどが撮影されたが、現在これらの素材は残存していない。その少し後でバジェ・映画撮影会社によって購入され、ディレクター、フェデリコ・バジェは新しい収入を得る方法として映画を補足計画として短編を撮影した。エドゥアルド・モレーラ‐無声映画時代の主役、バジェ・レビュー・フイルム・ニュースの施行者から転換してきた‐が最初の短編の撮影を任された。
そこで当初のアイデアでは当時のポピュラー・アイドルとムージカル撮影にカルロス・ガルデルが最初に指名された。多分、スクーリンには110kgほどの肥満を晒し‐“フロール・デ・ドゥラスノ”の悪い思い出‐で『ソルサル』はこの計画には反対した。ジョーキーの友人イレネオ・レギサモとマネジャーのラサーノ(当時)、モレーラ達と協議した後で承諾した。この話し合いで彼の経歴において決定的な瞬間に直勘で危険な賭け事を見事に始末し、決心をして訓練を選び、青年キリスト教協会のジムに根気よく参加して肥満姿態を変容させた。結果は良く訓練は実を結び、ガルデルは映画撮影の最初の基本的、初歩の必然的条件の結果を見るまで、それに終わらず夢中になる。1930年10~11月の間、ガルデルが歌うテーマを含めた15の短編撮影が遂行された。スタジオはブエノス・アイレス市タクアリ通とピエドラス通の間のメキシコ832番に位置した倉庫で行われたが、ダイレクト音波による録音の為に音響隔離を確保するための予防策処置をとる新しい経験により準備を整える。モレーラは床布種類を手に入れ使用し、消防師が使う火気を回避する物質で覆う、選んだ解決手段は相当幼稚な方法だった。かの結果は‐この簡単な手順‐は激励され、後日、ラヂオ・ベルグラーノとフランシスコ・カナロのラヂオ・リオ・デ・ラ・プラタらのスタジオに採用された。撮影に使用したベル&ホーウエル音響室を覆うためにはスタジオの隣人が用立ててくれた簡単なクッションで割り当てた。不安定な現像進行の生産手段も4本の短編{a}を失う被害負う。ソルサル・クリオージョの歌った数テーマはこの幸運な予めのビデオ・クリップで未だ観賞できる。されらは:“ビエホ・スモーキング”、“ロサ・デ・オトニョ”、“ジーラ・ジーラ”、“マノ・ア・マノ”、“テンゴ・ミエド”、“アニョランサ”、“カンチェロ”、“エンフンダ・ラ・マンドリナ”、”パドリノ・ペラオ”、“エル・カルテーロ”、“エル・キニェレーロ{b}”。これらの曲の始めの二曲はフランシスコ・カナロ楽団の伴奏、その他の曲はホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロルらのギター伴奏で、これらはガルデリアンの広範囲なレパトリーの少見本を構成し、バルス、タンゴ、カンシオン・カンペーラ、そして、“エンフォンダ、、、”の様なコミック・タンゴまである。
演技に先立って“ある対話かその境遇”でのいずれかの感覚で、全体でより良く仕上げられたのは“ビエホ・スモーキング”で、これはコメディア調子にふさわしく、アルゼンチントーキー映画の光学システムにて初めてのフィクション作品である。この場面はスクーリン向けに脚色。こう適合されて『ペンションの女将から派遣された一人の若いガジェーガ{c}(イネス・ムラーイ)が古い借り服を着た役柄のガルデルに抗議する。彼は辛い経済的状況に直面にしている事情を嘆着、友人(セサール・フィアスチ)が来て提案する‐全ての資力が消耗したので‐洋服タンスに保管してあるスモーキング(燕尾服)を質入させる。借主は衣類を捨てるのを拒否し、立った状況で“ビエホ・スモーキング”を唱歌する』、
ガルデルは一部の歌部分の韻文を朗読する。各短編では“マノ・ア・マノ”、“エル・カレテーロ”、“ジーラ・ジーラ”、のそれぞれのテーマを歌う前にセレドニオ・エステバン・フローレス、アルトーロ・ナバ、とエンリケ・サントス・ディセポロ等が個々の創作らを予告し、モローチョと歌うテーマに先行して話し合う。こっけいな調子のデセポリンの参加は結果として爽快な注目を浴び、その軽率な物腰が初めモレーラの憤怒を挑発させ、デセポリンのおどけた演技により、道徳と経済危機の時代の失望を語る相当悲痛なテーマで、ディレクターは観客が拒否すると考えが、一般公衆はこう解釈せず、そして、この短編は評判良く歓迎をうけた。この映画は他の興行象徴とアイドルの声とイメージを多数の人物らに近ずけを許した。1931年5月にアストラル映画館で部分的に封切りされ、その後も特別な季節には幾つかのガルデルの長編映画と共に打ち上げられたり、数回の機会に亘りポスターに複帰した。また、長い年月の間に多数の盗用(海賊)行為の的先にされたりで、これらの作品は絶長な人気評判に達する事を立証した。モレーラの業績の恩恵によりガルデルのトーキー映画は‐大量の又、不滅の‐芸術を普及させる別手段と理解された。この概念は一方の短編よりの明瞭な表現に残り、明白な意に具体化される。オルケスタのデイレクター、フランシスコ・カナロとの雑談を保ちながら‐“ロサ・デ・オトニョ”を歌う前に‐ソルサルは姿勢を取りながら“何時もの友人の様にアルゼンチンのトーキーの助けにより、我々の習慣と我々の唄、我々の言語を守る準備が出来た”。この美辞麗句は別の違う暗示を持ち、スペイン語音響効果撮影された北米フイルムの進出を前に幾らかの国民抵抗に取り掛かる表現を配慮している。これらの作品類は北米映画(多くは国外で撮影された筈だが)の主導権維持を探索するためで、例えば、ジョワンビル(フランス)に存在したパラマゥント・ピクチャーのスタジオで製作された映画である。
注:{a}15編の短編を撮影したが4編破損している。
{b}タンゴ“エル・キニェレーロ”
1995年まで10編の短編が生き残ると考えられていたが,
あるコレクターグループがこの曲を発見したと発表した。
{c}ガジェーガはスペイン、ガリシア地方の女性の呼び名
(亜国でスペイン人の代名詞はこのガリシア地方人)
この短編集のデータ
映画関係文献:
『カルロス・ガルデルがこの様に唄った、歌集のフレーミング』
制作社:バジェ映画撮影会社
制作者:フェデリコ・バジェ
撮 影:アントニオ・メラジョ
現像所:アルベルト・エッチェベレ
音響係:セサール・ラフォ、ロベルト・スミッヂ
音楽伴奏:ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・ドミンゴ・リベロール、ホセ・マリア・アギラールらのギター伴奏、オルケスタ、フランシスコ・カナロ
監 督:エドゥアルド・モレーラ
原作地:アルゼンチン
制昨年月:1930年10~11月
俳 優:カルロス・ガルデル、セサール・フィアスチ、イネス・ムラーイ
特別出演:セレドニオ・エステバン・フローレス、フランシスコ・カナロ、エンリケ・サントス・ディセポロ、アルトゥーロ・デ・ナバ、
この短編映画はデ・フォレスト音響システムにより撮影された
ガルデルの演唱は次のテーマ:
“マノ・ア・マノ(五分と五分)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス、
作曲:カルロス・ガルデル
“ビエホ・スモーキング(古い燕尾服)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス、
作曲:ギジェルモ・バルビエリ、
“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”、
作詞:ホセ・リアル
作曲:ギジェルモ・バルビエリ
“テンゴ・ミエド(恐れ)”、
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス
作曲:ホセ・マリア・アギラール
“パドリーノ・ペラオ(はげ親父)”
作詞:フリオ・カントゥリアス
作曲:エンリケ・デルフィーノ
“ジーラ・ジーラ”
作者:エンリケ・サントス・ディセポロ
“アニョランサ(郷愁)”
作者:ホセ・マリア・アギラール
“カンチェーロ(怠け者)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス
作曲:アルトゥロ・バッシー
“エンフンダ・ラ・マンドリーナ(マンドリンのケース)”
作詞:オラシオ・スビリア・マンシジャ
作曲:フランシスコ・プラカニコ
“エル・カレテーロ(馬車引き)”
作者:アルトゥロ・デ・ナバ
“エル・キニェレーロ(トトカルチョの賭け人)”
作詞:ロベルト・アゥブリオ・バルボサ
作曲:レイス・クルセイアゥ・モルテット
この短編シリーズのアルゼンチン国内初上映:
1931年5月3日、ブエノス・アイレス市アストラル映画館
補足記事:3月記(仮題)「カルロス・ガルデル」4CD-1DVDが1460円
http://3gatsu.seesaa.net/article/33612756.htmlブログにこの短編に値する記事がありますので参考ください。カルロス・ガルデル”80 TANGOS SONGS” 5X008 Mede in ITARY
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“エル・キニェレーロ”の作詞者:ロベルト・アブリォ・バルボサとガルデル
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1 件のコメント:
この短編映画の映像は兎も角として、ガルデルの演唱は本当に迫力があります。ジーラ、ジーラは素晴らしい。
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