小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2012年10月3日水曜日
ガルデル、カラカスに着く
ガルデルはプエルト・リコ公演中から模索していたキューバ公演行きを諦めて、急遽旅先を南米べネゼーラとする。77年前の4月25日の事である。プエルト・リコから汽船“ララ”号に乗船したガルデル一行はべネゼーラ国の首都カラカス市近郊プエルト・ガイラ港に着く。岸壁には朝9時から3千人以上の群集が前日の新聞記事に“ディビーノ・カルロス”と名ずけられた彼の姿を一目する為に押しかけていた。ガルデル一行は午前11時7分に下船した。一行は興行師ルイス・プラシード・ピサレジョ氏に出迎えられる。(氏はべネゼーラに長年住むアルゼンチン人でガルデルの公演を実現させた人物である)岸壁の接岸地には豪華なリムジンがギタリスト達と作詞家レ・ペラを従えたガルデルを待ち受けていたが熱狂暴動化した群衆の一部はリムジンの天井キャンパスをナイフで切り裂く暴行を行ない行く手ふさぐ始末。一行は近くのガラス工場に逃げ込み冷たい飲み物を振舞われ一息つくがフアン達をほうほうの体に逃げ出した一行はマクトのミラマールホテルに到着した。このホテルミラマール短い滞在時の様子が当時としては非常に音の良い“ゴロンドリーナス(ツバメ)”を歌うガルデルの姿と美しい景色の中のホテルミラマールの建物や多数のフアンの姿を映した貴重な画像がYOUTUBEで見られる。
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1 件のコメント:
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
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