小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2011年11月2日水曜日
ガルデルの魅力(続き)
さて,ガルデル即ち“ソルサル・クリオージョ”がこの歴史上に現れていなかったとしたら,少なくとも,このポルテーニョ界に“魔法使い”の居ないタンゴ界はどうなっていたか,それを想像するのは至極難しい。あの時代に生きたガルデルの存在は多大な重要な史実であった。あの完璧な微笑み,あのフランス人風の声と容貌(亜国人はなんとこの表現を好む事か),あの歌手俳優としての颯爽とした姿への魅力が多くの人たちによって語られている。その魅力の“姿”とは?。
あの“ゴミナ(ポマード)”髪型,あの何時ものスマートな“コテ・デ・フンジ(洒落た帽子のかぶり方)”で証拠づけられる“エレガンス”,真似のできない本物の“タンディー”。あの時代の報道によるとカルロス・ガルデルは当時の多くの“ペベタ(愛くるしい女性)”達を“その魅力”の虜にしたという。ポルテーニョ巷世間のパテトロ(遊び人)やピオラ(シモ)連中とオタリオ(間抜け者)達までが,彼ガルデルの動作や語りと服装,物腰のイミテーションに励む姿は滑稽な流行であった。フランスと北米バラマウント映画に歌手兼主役俳優としての栄華な凱旋は神話の糧になり,インターナショナルに至る成功は紛れも無い多大な人気は当時のタンゲーロ達の崇拝感動に等しく,また今日に至るまでも“その人気”は衰えてはいない。そして,愛想に満ちた(時には囁く様な)かたり上手,偉大なタレントの持ち主,独特の発声と歌スタイル。私生活では稀に見る好人物,寛大な金離れのよさ,数々の友人に囲まれた中のあの笑顔(時にはチラリと陰りの微笑)。これらの彼の特徴はレコードを聴く毎に蘇りかえる。見事な表現は次の例に並べてみると,喜びを歌った“ビクトリア(勝利)”,皮肉たっぷりな“アル・ムンド・レ・ファルタ・ウン・トルニージョ(ネジ一本が足りない世界)”,悲しい“シエギータ(盲目の幼女)”,隠された悲しみの“リィエ・パジャソ(笑え!ピエロよ)”,絶望的な“エス・エン・バーノ(それは無駄)”,愛の賛歌“ラモーナ”と“ソニア”,劇的なドラマ“スス・オホス・セラロン(閉じられし瞼)”,回想に浸る“カミニート(小道)”と“ボルベール(帰還)”,滑稽でもある“カスカベリート(小鈴)”,気高きロマンチズムな”エル・ディア・ケ・メ・キエラ(思いの届く日),悲嘆な“アマルグーラ(悲しみ)”,心痛な“トモ・イ・オブリゴ”,懐儀的な“ノ・テ・エンガニェス・コラソン(心を偽るな),英雄讃歌の“エロイコ・パイサンドゥー(パイサンドゥーの英雄)”と夫々テーマ事の情趣状態の演唱解釈は心の奥までくい込み,暫し感動の余韻に浸り込まされてしまう。
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