小生が書いてきたこの物語はガイドとしてボゴタで1985年に出版されたハイメ・リコ・サラサール著「ガルロス・ガルデルの人生と歌唱集」によるのだが、この内容はガルデル伝記作者で有名なフランシスコ・ガルヒア・ヒメネス著「ガルデルの人生」のほとんどの内容がコピー物である事に気ずいた。原本のヒメネス著の内容も事実を曲げた捏造物語である事に今頃気がついた。小生は他の資料を読んで行く課程でガルデル出生、遺言書は彼達の記事を基にせずウルグアイ生まれ説と遺言書は偽造で有ると解明した記事を書いた。ヒメネス著はガルデルがメデジンで事故死を遂げた後で二重唱のパートナー及び旧友であり同郷人ホセ・ラサーノの回想として書かれた伝記物であるが、この著書の意図はガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノとホセ・ラサーノ及びタンゴ作詩家ガルヒア・ヒメネス達が共謀の元にガルデルの財産とレコード版権を横取りする為にベルタ女史の一人息子に仕立て上げてしまったのである。
2011年7月24日日曜日
ガルデルとラサーノの出会い(1 )
1911年;当時のアバスト市場
1911年:ホセ・ラサーノとの運命的な出会い:
ガルデルはアバスト街のカフェ・オ‘ロンデマンの持ち主で地元の政治ボス、トラベルソ兄弟の一人のコンスタンティノが,ある日に政治会合の席にガルデルを連れて行く。そこにはパジャドールの面々が居揃う中で、その一人旧知のホセ・ベティノティーからギターを渡され、彼の持ち曲“ミ・マドレ・ケリーダ(愛しのわが母)”を披露したら、満場の喝采を受けた。
その頃,ウルグアイ出身のホセ・ラサーノは既に南バルバネ―ラ街(アバストより少し洒落ては居たが、何れも同じ様な貧しい街)のカフェ・デル・ペラードで民謡を歌い活躍し、多少なりの人気を得ていたが,ガルデルの評判をそれとなく聞きこむ。
そのある夜、あるカフェで誰かともなく疑い深い囁きが聞こえた。
「エル・モローチョを聞くべきだ」、「エル・モローチョと呼ぶのかい?」、
そのとうり、ラサーノが現われて、そのニュースを尋ね問う。
「エル・モローチョの歌を聞いたかい?」、いやぁー。
じゃあ!君は??,俺は聞いたぜ!!。
何処でかい? 昨晩、バラッカスでだ!!!。
ファルビとペジェセールは好奇心丸出し。
「ホセ、お前知てるかい?」。
「個人的には知らないが。然し、あの歌手の評判は何処となく付きまとう。
ある日のボカとアバスト街で、別の日にはコラーレス街で歌って居ると、俺の耳に、、、」。
エル・モローチョが歌うのを、、、?
もう、カフェでは真新しい話題が尽きない、、、。
モレーノとエントレ・リオスのエル・ペラードの客仲間の集まりでは、
その風評の歌い手を雲の様に掴められず、
一層興味をそそわれ、彼等は始め配慮深く言及する事無く。
出し抜けに出会った,彼のエル・モローチョの成功と名声。
エル・モローチョを名指して、、、
パンチョ・マルティーノと付き合う浅黒いやせ男かい??(この情報は違う)。
一人の南の田舎者か、あの善良なパジャドールかい?。
レアレス達の真中にいる奴(これも違う)。
カフェ・エル・ペラードで,その場のペジェセールは,
出しぬけに仲間達を大げさに驚かしながら,
いきなり,ラサーノにその言葉をつげた。
エル・モローチョはアバストの奴だ。
俺の友人が彼を知っている;
ジヘーナ,明日の夜に彼と出くわして欲しい。
ジヘーナ氏,その人の家で,頭をさげろよ!。
あそこで歌合戦をやればいいだろう!!!
ロサーノは出会いを承知したが。
しかし,ほかの気取り屋の損得勘定を知らずして,
内心では頭を下げるには余りにも,
見せつけがましいと考えた。
まあー,おれは出来るだけ旨く歌えばよいと言うこと。
それは怖くない!。
エル・オリエンタル(ラサーノ)は首尾良く立ち回るには,
トランプに一発賭なければと思った。
しかし,また,なんて事だ...見てみろ...!
ラサーノの呟き...。
もし,誰かがラサーノに感化できるとしたら,
それは紛れも無く,ただ一人ルイス・ペジェセールであった。
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