前編では悲惨な事故の経過とその一年後にアギラールの告白によった真相を明かしたが、ガルデルの遺体の行方を追う事にしよう。
カルロス・ガルデルの遺体はメデジン市内のサン・ペドロ墓地北側の回廊2番墓地に埋葬された。
そうこうするうちにカルロス・ガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノはガルデルの手書きの遺言書(*)を持参して遥遥ブエノスアイレスから航路ニューヨーク経由バランキージャへ、そこから空路を使い長旅の果てにやつとメデジンに着いた。それは事故後二ヵ月にも成らない1935年8月13日だった。
それにしても、数々の複雑な問題を如何に解決したか不明だが、結局は12月11日にデフィーノは教会に遺言書(偽証)を見せて故人は亜国出身者と語り、カルロス・ガルデルの死亡証明書の入手した彼はサンペドロ墓地からガルデルの遺体を掘り出しに成功(?)する。彼デフィーノはボゴタの病院で火傷の治療の為に入院していたホセ・マリア・アギラールを苦労の末にみつけだした。そして事故原因や偽の遺言書を他人に明かさない様にと多額の金を払う約束を取りつけるのに成功した。
彼はボゴタから空路カリへ、そこから鉄路ブエナべントゥラ港でガルデルの遺体を待つが、荷物は待てど暮らせど到着せず痺れを来たした彼は先に航路でニューヨークへ発ったのである。
その年の12月29日にガルデルの遺体は再び御棺に入れられた後、メデジンから鉄道を使い南の村落ラ・ピンターダまで行き、そこから馬車でバルパライソまで行く、先は道路が途切れているため、ロバ数頭を仕立て、カラマンタ、マルモトの村落を通過、スピーアで村民にガルデルの遺体であることが知れ渡り、村の中心広場の教会で追悼ミサが捧げられた。スピーアから馬車でリオスシオ、アンセルマと続きペレイラに到着した後。今度は鉄道でカリ市の近くの太平洋岸に在るブエナベントゥラ港へ到着した(この旅は5百Km余りの行程を8日間費やした)。
そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936年1月17日、ニューヨークに到着した。
ここで壮大な通夜と葬儀が行われたのだが、葬儀礼拝に参加したガルデルの映画に共演した俳優がこの遺体はガルデル本人の物ではないと言い出しているのを代理人デフィーノは知る由も無く、1936年1月25日、8日後に豪華船パンアメリカーナでブエノスアイレスに向かうべき出航した。そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936年1月17日、ニューヨークに到着した。
途中モンテビデオに2月4日到着したガルデルの遺棺は旧友ホセ・ラサーノ、フランシスコ・カナロらに迎えられ、ブエノス・アイレスまで同行する。
1936年2月5日、午前11時、ブエノス・アイレス到着。ダルセーナ北岸壁には三万人の群集が出迎える中を、ここでも旧友レギサモを初めにフランシスコ・マチオ、リベルター・ラマルケ、ソフィア・ボサンらが葬儀馬車まで御棺に付き添いルナパークへ向かう。
ルナパークではカトリック宗教上の習慣による祭壇が祭られ、フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタの演奏でロベルト・マイダが“シレンシオ”を二回繰り返し歌う。
翌6日に壮大な葬儀が行われ、ルナパークからチャカリータまでの道のりは別れの群集で渦リ、群集の中には葬儀馬車からガルデルの御棺を降ろし、彼等で肩に担ぎ行進を試みる輩さえ出る始末で、チャカリータ墓地への到着は非常に難儀を強いられた。
当初、遺体はパンテオンに安息納骨収まれたが、翌年‘37年11月7日に現在の募樟に祭られた。ただし、今日現在誰もこの遺体に疑問を持つ者はいない。
チャカリータのガルデル墓地には彼の“本物の遺体”は無い。
それは未だにコロンビアのメデジンにある。
それは未だにコロンビアのメデジンにある。
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