【1935年6月カルロス・ガルデルはボゴタにいた】
1935年のボゴタ市は33万の人口を満たし、アルホンソ・ロペス・プマレホ大統領とホルへ・メルチャン市長の下に4百年誕生記念の用意に追われていた。当時は世界的経済不況の真只中であったがボゴタ市は多くの劇場で行なわれていた数々の音楽演劇興行や映画ロードショーがかかりメインストリーは市民が溢れていた。
巷を流すサービスの良いタクシー、市電、バス等の市内交通網も完備されていた。新聞発行部数も多く、記載広告に溢れていた。市はオリンピア、レアル、ナリーニョ、落成真近のファエンサ(*)、その他アポロ、アルハンブラ、リヴォリ、ボゴタ、国立劇場コロン(*)などの数箇所の映画館や劇場を備え、映画“エクスタシス(恍惚)”、“ラ・ビウダ・アレグレ(嬉しそうな未亡人)などの常時ロードシヨー及び演劇興行で栄えていた。そこえコロンビア・ピクチャーの招弊により当時ニューヨークで大人気のタンゴ歌手カルロス・ガルデルがメデジン経由でドイツ系スカダタ航空に15人の乗客の一人として6月14日(金)にボゴタ市のテチョ空港に到着した。タンゴの王様ガルデルには主催者側から当時最新型の豪華乗用車「アーブルン」が手配されいたのだ。彼等ガルデル一行を迎えた群衆の数は凄まじく、3万人とも数えられた群衆野次馬群の一部は暴徒と化し滑走路に進入する有様だった。挙句の果てに一行の進行を阻むに及び市内までの数距離を行列行進を組んで市内中心地にある滞在先のグラナダホテルまで押し寄せた。
ガルデルはコロンビア映画配給会社の専属興行によりレアル、ナリニョ、オリンピア映画館で当時の習慣であつた上映される映画の後で出演したのである。
カルロス・ガルデルが出演した劇場のスケジュールの記録を再現してみると:
6月14日夜10:30; レアル劇場=タンゴの王様デビューする。映画“ラ・バタージャ(戦闘)”の後でガルデル登場。(入場料特別料金$1.43ペソ)
6月15日(土);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリ-バ(目上の人)”午後と夜間の部の二回興行。
6月16日(日);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”夕方6時、夜9:15、二回興行。
6月17日はガルデル休み
6月18日(火); サロン・オリンピア=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”同時出演(上等席0.77ペソ、一般席0.33ペソ)
6月19日(水);ナリーニョ劇場=映画クリメン・デ・ヘレン・スタンレイ(~の犯罪)入場料が下がる0.75ペソ(ナリーニョ劇場の詳しいデータは残ってい無いく、当時の劇場で再現維持されている劇場はほとんど無く、21番通りの脇にあるファエンサ劇場だけが現存するがガルデルはこの劇場に出演してい無い)
6月20日(木);レアル劇場=映画“エル・レモリーノ(竜巻)”入場料上席0.75ペソ、サロン・オリンピア=映画パレン・ラ・プレンサ(印刷機よ停まれ)
6月21日夕方6時(金);何処の劇場でもガルデルの出演はなし。ボゴタ市公共劇場にてエリサ・ウルンチュルッー(ピアノ)指揮による子供達のタンゴコーラス演奏が招待されたガルデルに捧げられた。ガルデルへの敬意コンサートには彼はひごく感激の意を示した上にコンサート主催者一同を彼一行の宿泊先のグラナダホテルに感謝の礼を尽くす為に祝杯の場を設けた。
【私のレパトリーを純真さと清く歌う子供達の姿に感嘆させられました。又子供達から受けた感想では先生の忍耐ある指導がにじみ出ている。それは芸術家本業の生活に稀に見られる様にアチーストへの憧れと献身的な作業です。先生と子供達のお蔭によりボゴタへ来た良い褒美を頂いた。感謝いたします。】カルロス・ガルデル 1935年6月21日
6月22日(土);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”今日がガルデル最後の出演と告示されたが観衆の強い要求で翌日に特別興行を約束する。
6月23日(日);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”、入場料上等席0.75ペソ。ガルデルのボゴタ市公演は全部で12回。(グラナダホテル近隣にあつたレアル劇場9回、コルパトリア塔近くにあつたサロン・オリンピアで2回、大統領官邸の南にあつたナリーニョ劇場で1回、現在これ等の劇場は跡形も無い)。
6月23日午後11:15ボリーバル広場の脇にあつた“Voz
de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。まずは“インソムミニォ(不眠)”から歌い始め、“クエスタ・アバホ(下り坂)"と"テンゴ・ミエド・デ・トゥス・オホス(お前の瞳が怖い)”を。そして、ホセ・アギラールのギターソロ(曲不明)"エル・カレーテロ(御者)”で一部を締めくくり。二部は“カタマルカ”、“メロディア・デ・アラバル(場末のメロディー)”、“アガラーラ・シ・ポデス(出来たら捕まえろよ)”、“テンタシォン(惑わせ)”、“シン・ソン(ソンも無く)、最後に“シレンシオ(静けさ)”、“ルモーレス(うわさ、コロンビア民謡)”、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ()を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(わが郷愁のブエノスアイレス)”を歌ったという記録もあるが確かではない。
(ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです)
そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。 私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、言葉もありません』の言葉を最後に、“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。
(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”1928年12月15日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである)
(*)ファエンサ劇場は復元された、コロン国立劇場は今でも国内外の重要なアチーストの公演が行なわれている。
参考資料:
(1)「 Gardel en Bogota」EL Blog de GHNB
(2)「La vida y las canciones de Carlos Gardel 」
Jaime Rico Salazar
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