2014年7月8日火曜日

謎の侵入者


時は1935623日深夜のボゴタ:

カルロス・ガルデル一行はコロンビア諸都市のバランキージャ、カルタヘナ、メデジン、ボゴタ公演を盛況な成功を飾り、その夜コロンビア映画会社社主二コラス・ディアスの招待による晩餐会のフレンチ料理のメインデッシュが終り、給仕が皿を片ずけ初め、最後のワインを支度し始めているほんの一瞬の出来事。

ニコラス・ディアスはそこに現れた少女にとっさに注意をはらった。彼女は香水の香りも身なりも垢抜けているわけでもない極質祖な容姿でガルデルの関心を引くにはほど遠かった。その神経質そうな様子は不帰知な予告すらした。興行師は近ずきながら彼女に向かい、

「お嬢さんすみませんが私的な会合なんですよ」

「旦那さん、貴方はお解かりじゃない、彼と話がしたいんです。
早急に言ずけしたいんですよ。お願い...」

ディアスが一瞬、躊躇した隙に彼女は脇をすり抜けガルデルがおいでと手振りするテーブルに近ずく瞬間に数人の同席人が遮るように引きとめた。

「お嬢さん、ご用件は?」とガルデルは丁寧に訊ねる。

「ガルデルさん、それは危険なんですよ! 旅立ちは控えて。」

「お嬢さん、心配下さるな、我々は旅馴れしているんです。」とガルデルは答えた。

「貴方はお分かりしてい無い。涙声で“貴方はあの飛行機には乗ってはいけません!”
私は貴方を助けに来たのよ」と、乙女は手こずらせる。

ガルデルはこんな事には慣れていた。他の国でもあつたことだから、(旅立ちの時前に災難を予告する新聞記事を見せられるなど)そして、その乙女に向かい邪魔者を追い払うようにいくばくかの札を感謝の気持として手渡そうとしたが、むっとした彼女に阻まれてしまう。そこへボーイが丁寧に出口まで送りだした。

.=遥か方なたのある夜の些細な出来事の後、何事も無かった如くガルデル一行はカジノに繰り出しトランプ賭けに没等した。その為に全員が朝寝坊してしまう有様。慌ててテチョ飛行場に駆けつけるが予定のカリ行き飛行は霧の発生で断念するとパイロットに告げられる。そして目的地をメデジンに変えざえられなくなったのだ。この進路変更が魔の事故に繫がる原因になるとは誰も知る由も無く…。

注記:(A PASIÓN SEGÚN GARDEL por Julian Barsky)による。

2014年7月5日土曜日

カルロス・ガルデル、ボゴタの公演








【19356月カルロス・ガルデルはボゴタにいた】

 1935年のボゴタ市は33万の人口を満たし、アルホンソ・ロペス・プマレホ大統領とホルへ・メルチャン市長の下に4百年誕生記念の用意に追われていた。当時は世界的経済不況の真只中であったがボゴタ市は多くの劇場で行なわれていた数々の音楽演劇興行や映画ロードショーがかかりメインストリーは市民が溢れていた。
 巷を流すサービスの良いタクシー、市電、バス等の市内交通網も完備されていた。新聞発行部数も多く、記載広告に溢れていた。市はオリンピア、レアル、ナリーニョ、落成真近のファエンサ(*)、その他アポロ、アルハンブラ、リヴォリ、ボゴタ、国立劇場コロン(*)などの数箇所の映画館や劇場を備え、映画“エクスタシス(恍惚)”、“ラ・ビウダ・アレグレ(嬉しそうな未亡人)などの常時ロードシヨー及び演劇興行で栄えていた。そこえコロンビア・ピクチャーの招弊により当時ニューヨークで大人気のタンゴ歌手カルロス・ガルデルがメデジン経由でドイツ系スカダタ航空に15人の乗客の一人として614日(金)にボゴタ市のテチョ空港に到着した。タンゴの王様ガルデルには主催者側から当時最新型の豪華乗用車「アーブルン」が手配されいたのだ。彼等ガルデル一行を迎えた群衆の数は凄まじく、3万人とも数えられた群衆野次馬群の一部は暴徒と化し滑走路に進入する有様だった。挙句の果てに一行の進行を阻むに及び市内までの数距離を行列行進を組んで市内中心地にある滞在先のグラナダホテルまで押し寄せた。

 ガルデルはコロンビア映画配給会社の専属興行によりレアル、ナリニョ、オリンピア映画館で当時の習慣であつた上映される映画の後で出演したのである。
カルロス・ガルデルが出演した劇場のスケジュールの記録を再現してみると:

614日夜1030; レアル劇場=タンゴの王様デビューする。映画“ラ・バタージャ(戦闘)”の後でガルデル登場。(入場料特別料金$1.43ペソ)
615日(土);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリ-バ(目上の人)”午後と夜間の部の二回興行。
616日(日);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”夕方6時、夜9:15、二回興行。
617日はガルデル休み
618日(火); サロン・オリンピア=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”同時出演(上等席077ペソ、一般席0.33ペソ)
619日(水);ナリーニョ劇場=映画クリメン・デ・ヘレン・スタンレイ(~の犯罪)入場料が下がる0.75ペソ(ナリーニョ劇場の詳しいデータは残ってい無いく、当時の劇場で再現維持されている劇場はほとんど無く、21番通りの脇にあるファエンサ劇場だけが現存するがガルデルはこの劇場に出演してい無い)
620日(木);レアル劇場=映画“エル・レモリーノ(竜巻)”入場料上席075ペソ、サロン・オリンピア=映画パレン・ラ・プレンサ(印刷機よ停まれ)
621日夕方6時(金);何処の劇場でもガルデルの出演はなし。ボゴタ市公共劇場にてエリサ・ウルンチュルッー(ピアノ)指揮による子供達のタンゴコーラス演奏が招待されたガルデルに捧げられた。ガルデルへの敬意コンサートには彼はひごく感激の意を示した上にコンサート主催者一同を彼一行の宿泊先のグラナダホテルに感謝の礼を尽くす為に祝杯の場を設けた。
私のレパトリーを純真さと清く歌う子供達の姿に感嘆させられました。又子供達から受けた感想では先生の忍耐ある指導がにじみ出ている。それは芸術家本業の生活に稀に見られる様にアチーストへの憧れと献身的な作業です。先生と子供達のお蔭によりボゴタへ来た良い褒美を頂いた。感謝いたします。】カルロス・ガルデル 1935621日                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

622日(土);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”今日がガルデル最後の出演と告示されたが観衆の強い要求で翌日に特別興行を約束する。
623日(日);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”、入場料上等席0.75ペソ。ガルデルのボゴタ市公演は全部で12回。(グラナダホテル近隣にあつたレアル劇場9回、コルパトリア塔近くにあつたサロン・オリンピアで2回、大統領官邸の南にあつたナリーニョ劇場で1回、現在これ等の劇場は跡形も無い)。

623日午後1115ボリーバル広場の脇にあつた“Voz de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。まずは“インソムミニォ(不眠)”から歌い始め、“クエスタ・アバホ(下り坂)"と"テンゴ・ミエド・デ・トゥス・オホス(お前の瞳が怖い)”を。そして、ホセ・アギラールのギターソロ(曲不明)"エル・カレーテロ(御者)”で一部を締めくくり。二部は“カタマルカ”、“メロディア・デ・アラバル(場末のメロディー)”、“アガラーラ・シ・ポデス(出来たら捕まえろよ)”、“テンタシォン(惑わせ)”、“シン・ソン(ソンも無く)、最後に“シレンシオ(静けさ)”、“ルモーレス(うわさ、コロンビア民謡)”、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ()を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(わが郷愁のブエノスアイレス)”を歌ったという記録もあるが確かではない。 

(ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです)

そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
 『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。  私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、言葉もありません』の言葉を最後に、“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。

(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”19281215日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである) 
 (*)ファエンサ劇場は復元された、コロン国立劇場は今でも国内外の重要なアチーストの公演が行なわれている。

参考資料:
(1)「 Gardel en Bogota」EL Blog de GHNB
(2)「La vida y las canciones de Carlos Gardel 」
Jaime Rico Salazar