ここで時計の針を少し逆戻りさせるとしょう。今から丁度一世紀前にタイタニックの悲劇が起きた時も同年1912年4月の頃ブエノスアイレスの下町アバスト街に現われたある青年の存在に陽を当てるとする。彼の名が世間にそこそこに知れ渡り始め,売り出し歌手の仲間入りをしたばかりの目立たぬ存在であった“メレーナ(長い髪)”と呼ばれた一歌手ガルデル青年はタジーニ商会の開業開始真もない至極簡単かつ初歩的な録音スタジオへ友人のクリオージャ歌手のサウル・サリーナに連れて行かれた。そこで彼は歴史の幕開けの運命的一役を引き受ける境遇になる。
そして,『一人のメレーナ青年と彼のギター』は...
一人のメレーナ青年,歌手になる抱負と共に「歌に生きる本望は覚悟に値するか?」と自己に問い聞かせた彼は,モケット張りされた天井から垂れ下がる電球からの淡い光が差す分厚い絨毯に敷きおわれた小さな部屋のスタジオで録音合図を待つ間に彼の熱望を微笑に紛らわせながら,,,
彼の初めてとなるレコート録音の瞬間は...!
「二度の繰り返しのチャンスはないと思う心がけで録音合図に最大限の注意を集中する様に」と直前に強く言い渡されていた。
手に汗が滲みシャツとジャケットをぬっとりさせる。
ネクタイを心待ち緩め,
ギターの弦のチューニングをとり,
三脚に取り付けられたマイク(実際は巨大なラッパ風の器械)の
前後に口を近付け少し身構える。
分厚いカーテンの後ろから録音技師が覗きだす。
『いいか!今はじめるぞとばかりに合図の決定的瞬間に
“アオラ・シィ!(今だぞ,OK!)”と掛け声が放たれる』。
ガルデルは上体起立の上,目を閉じ,空気を一息吸い,
偉大なガウチョバジドール・スタイルの様にギターを右腕の下に硬く抑え持ち構え,
その旋律に合わせスタートする。
彼の口元から張りのある澄んだ男性的美声が一々の文言詩を唱え始め...
『彼の喉から詩が弾き飛ぶ!!!』...
Sos tirador plateao /お前さんは銀の幅広ベルト
que a mi chiripa sujeta , /俺の握るチリパゆえ
sos eje de mi carreta , /俺の牛車の軸,
sos tuses de mi tostao , /黒髪馬のたてがみ,
sos panuelo bordao /俺の刺繍ハンカチ
de un pobre gaucho cantor … /その哀れな歌い手ガウチョ...
“ソス・ティラドール・プラテアオ”の小曲ナンバーは三分後に完了した。この三分が音楽界の歴史の始まりの幕開け,そして最初の百年を迎える...これが彼ガルデルの史上最初のアクスティク録音の“歌”の小さな小さな物語。
注記:“ティラドール・プラテアオ”とはほんの一握りの“特権ガウチョ”が使用した銀製の飾り付きの豪華なバンド。ガルデルは常にこのハンドを愛用していた。“チリパ”とはガウチョの装飾チョキの様なもの。“トゥセス”とは馬のたてがみ。“トスタード(トスタオ)”とは焦げたと言う意味になるがこの場合は“褐色馬”を指している。
“長髪の新人”がサリーナスの好意で紹介されたタジーニ商会とのレコード録音契約の約束に無事達する。それは15曲歌唱の独占権を全額180ペソで取り決められた。しかしながらタジーニ氏は契約書にサインされた“カルロス・ガルデル”の著名は法律的には無効に成る事に気がつかぬままに月日が過ぎやがてタジーニ商会は『アトランタ』レーベルと同じ運命となり1917年に倒産した。
『誰もサインしていなかった契約書』
その書類は明らかに疑わしく,何らかの合法的効力を所有維持が実存しない人物(ガルデル姓)の名義であった。しかし,“ガルデル姓”は世の万人の承知の通りで不思議にも何人も彼の本姓を知らないのである。その疑わしい書類にガルデルは1912年4月2日から,1917年4月まで5年間のタジーニ商会との契約で『すでに録音した同じ曲のレコード化禁止』の条約はガルデルにとって至極不利な条件が含まれていたが彼はこの契約をしたすら守り,マックス・グルクスマーン商会での録音再開まで如何なるレーベルへのコード録音はしなかった。そこで再開したレコード録音は図らずともレパトリーの中に光彩を得た“ソス・ティラドール・プラテアオ”(原盤#18007B)が取り上げれていた。また,ガルデルは1933年ヨーロッパへ向けて出発する前に“エル・ティラドール・プラテアオ”(原盤#18902B)と改名した同曲を彼最後のラ・プラタ地域のフォルクロリコ(民謡曲)として録音した。
(注記):この項はガルデルのデビュー曲“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”,マルセーロ・マルティーネスがガルデル・エス・コムに寄稿した文より構成した。
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