(下の広告はガルデル自身が保管していた物らしい)
エル・シグロ紙の1913年8月26日付記事によると,トリオ演唱につきカルロスなずけて“カルロス・ガルデル”と芸名で名乗った事について触れている。各紙もこの“芸名”を繰り返し呼ぶようになった。9月の初め一行はチャカブコへ,9月5日にその町のサロン・モデルノにてトリオは“数多数の選ばれた観衆に迎えられて歌う”とエル・メントール紙は書いている。翌日はサロン・パリで歌い,南西方向の数キロ離れたアルベルティーへと移動した。ここで起こった事は既に報道界の知るところなった。小さな繁栄した町に自慢すべき出来事の日,「それはメルセデスと同じく」旅程にて好転実現したこと。9月10日,ローカル紙ニュースによると『若きパスクァル・エスキロスが経営するコンフィテリーア“エル・セーロ”で昨夜の公開集会でカルロス・ガルデル,フランシスコ・マルティーノ,ホセ・ラサーノらの若きアチィースト達が紹介され,彼達は発展する評判な新しいスタイルの見事な,上品な言葉,格言と民族風ティピカのクリオージョ歌唱の演唱を参列者達は没頭し聴き入り,魅力的な興行の終わりに当然の惜しみない多大な拍手が送られた』と載る。9月半ばブラガードに到着する。そこのフランス劇場では比較的上首尾の出演のうちに新聞記者及びタンゴ作者のエンリケ・マローニと親交を深める(ガルデルは後年彼の作品を録音している)。次の到着地は“ロス・トルドス”と言う名で知られたヘネラル・ビアモンテ。そこで遭遇した事は保守党知事マルコルンによる公金使い込み公判事件により政治的混乱の沸き返に遭遇した。その上,挙句果てに暴風雨の被害に見舞われていた。彼等無名のトリオの活躍する場所を見出す事は不可能であった。悪い事は続くもので,マルティーノは度重なる不運に耐えられず,疲労の挙句に病気に成ってしまいトリオを離れていく。そして,ガルデルとラサーノ達残った二人は検討熟考した上でラ・パンパ州への方向に向かう巡業を続行する決意をする。
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